トラカリコン!

「虎・借り・コン!」。虎の威を借りた狐。虎の威を借りて吠える狐が私…。虎が何であるかは、本人にもわからない。

巻き込み自殺者、政治家

2022-01-17 22:50:18 | アベスガ政治の仕上げ中?
高2生が、ボヤを起こしながら東大に近付いて3人を刺し、自分のことは刺しそびれた。1月15日のこと。この事件を、大阪のクリニック・京王線・小田急線・・・とまとめることもできる(被害者の方々にどこかが失礼な気がするのだが)。




闘病中しかも治療方針思案中の身なので、自分の最期について想像しているこのごろ。
(a)苦しまずすんなり・(b)痛みや苦痛の中で・(c)(b)かと思いきや最後の一瞬は楽になる・・・のどれかだろう。

私が見送った家族2人はどうだったか。意識があるかどうかわからない状態だったが、最後には閉じた瞼から涙が溢れ出た。
生理現象なのか感情的な反応だったのか知りたい。

それで、2人目である父が死んでしまった頃に同じくお父様が亡くなった友人に、涙のことを尋ねたが。最期には間に合わなかったそうで、そのことに傷ついていたので。あれから誰にも尋ねていない。

ただ、療養型病院で亡くなったお父様の死に顔が衝撃的だった、という人と話したことがある。苦しみ・怒り・悲しみに満ちた、無念そうな表情だったそうだ。その病院の態勢のせい(患者の異変に目が行き届かない)だったのでは、と後悔しておられた(だからお母様を自宅で介護するために退職する、とのこと)。
どうなんだろう。若くして去った友人も含め、私は安らかな死に顔しか見たことがないので。病院で亡くなれば、死後硬直の前に看護師さんか誰かが表情を整えてくれていそうな気がする。それをやってくれない病院だったのかも。

亡くなる本人にとって最期がどんななのか。自分なら、上の(a)(b)(c)のうち望ましいのはどれだろう。
生きることへの未練が消えそうなので(b)が良いかなあとは思う。でも、「つらいから早く死んで早く楽になりたい〜」と思いながら逝くのは、尊厳みたいなものを放棄するようでひっかかる。たいした人生でもなかったが、悩んだりなんとかしようとしたり。運が良かったような悪かったような。そういう人生を「一刻も早く終えたい」というのは、たぶん主に自分に対して申し訳ない気がする。が、肉体的にあまりにつらかったらそういう感傷も台無しになるかもね。
(a)や(c)だとなあ。この心地良さをもう少し味わうために死にたくない、という気持ちでいっぱいになりそうだし。


・・・というようなことを考えている人もいる。そしてもちろん、「自分の最期」などではなく自分の現在や未来も考えている。いつも考えているわけじゃないけどなんとなく感じている。
みんな生きている。それを踏みにじらないでもらいたい。尊重してほしい。




しかし。病気がわかってから、私の感覚はどこか麻痺しているようなのだ。
人を、それも計画的に殺す。それが大罪である、というのは変わりがない(「大罪」っていうのもしっくりしない言葉ではあるが)。でも、人を間接的に死に追いやることはどうなのか。そうしておきながら何事もなかったように好きなように生きる、そういう人達は何なんだ。
・・・と考えてしまう。

もしかしたら私にとって晩年になるかもしれない近年。生まれ育った日本が変わってしまった。なんだかパラレルワールドに来ちゃったみたいな気がする。
日本は変に浮かれてたり弱体化してもがいたりしてきたが、それは目的地に着くまでの過程、そう思い込んできた。一歩進んで二歩下がりながらも、良い方向に進んでいるはず、と。
でも、第2次安倍政権成立以降は、目的地・方向を変える、と宣言されているようなものだ。

私だけではない。安倍政権を批判していた高齢者には亡くなった方々も多いが。受け入れ難い統治下に人生の終盤が置かれ、さぞ心残りだったろう。
そういう人達のうち有名人は、一周忌などに思い出や功績が報じられたりする。私が目的地・方向と思ってきたものは彼らの言葉で培われたんだなあ、としみじみ。そして、私も「こんな日本になるなんて」と失意のうちに死ぬのだろうか(あ、余命宣告とか出てないですが)。


安保法制「改正」時に焼身自殺してしまった人がいた。遺書によると法案に抗議するため。だが、本当のところはわからない。
湯川氏・後藤氏は助けてもらえなかった。政府は水面下では努力していたという説はあるが、私には信じられない(根拠はイスラエルでの演説内容など)。
政権の「功績」に関わった公務員には自殺者達も。
気候的な災害と新型コロナでも犠牲者が。あの対応が政府の「精一杯」だったというのか。
海外独裁政権への援助(見返りは「東京2020」)。それらの国の一般国民は迫害されているのに。
そして、死刑囚達。制度ではあるが、命を奪う行為であるのは同じだ。なのに執行の日に大宴会という感性はわからないなあ。

今も嬉々として外交や防衛を語って回っている。大きな政治(って言うのかなあ)が好きなんだろう。一人一人の尊厳というような小さなことには興味がないのだろう。自分達政治家の判断で命を失った人達のことを思い出すことはあるのだろうか。

(思い出さない人達だから、新型コロナ禍の中の大学入試共通テストの方針・「#不備ループ」への対応といった、個々の人生の一大事を意識しないで年末年始を過ごせたんだよね)

そして。そういう死者達の命に見合った成果は本当に得られたのか?

ああいう政治家達が正々堂々と支持を勝ち取っているなら、あきらめもつくかもしれない。しかし、現実は「自分達の目的は正しいから手段は問わなくていい」と言わんばかりの、資金力と権力の乱用だ。





他者のことを、自殺するための道具や舞台装置扱いする犯人達。
政策のために国のために、実は自分達のために、犠牲者を出すのが既定路線になっている、政治家達。
両者の間にくっきりとした境界線は引けるだろうか。私には、両者の思考回路には共通の部品がある(または皆に共通の部品が飛び去ってしまっている)ように思える。

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