感泣亭

愛の詩人 小山正孝を紹介すると共に、感泣亭に集う方々についての情報を提供するブログです。

「小山正孝の詩」 杉山平一(感泣亭秋報三より)

2012年05月27日 | 日記

  以下は、感泣亭秋報にお寄せ下さった杉山平一さんの言葉です。


   小山正孝の詩
                                                                          杉山平一



 小山さんは、弘前高校時代から、早くも「四季」の立原道造さんと交流があったらしい。


 私は「四季」投稿詩人として、選者の三好達治さんより厳しい評言を頂きながら、手練手管の工夫をして投稿を続けていた。
 むかし三好達治さんをお訪ねして、いろいろ詩の話を伺った日、帰り際に、ふと思い出された様に、「杉山君、詩の一番純粋なものは、リーベへの手紙だと思うよ」といわれた。
 やや緊張した面談の終わりの、何気ない言葉ときこえたし、僕には「彼女」はいないし、口惜しいけれども軽く受けとめて、「はあ」と頬笑んで玄関を出た思い出がある。
 「彼女」というものを持たない私には、あこがれの世界だった。女性を前にすると言葉がよく出ず、美人だったりすると、顔をチラッと見るだけで、眩しくてうつむいたり、顔をそむけたりしていた。なんだ少女趣味だと思いつつ、うらやましかった。
 そのころ、学生はドイツ語のエッセンとかゲルとかリーべなどを日常使っていて、高校時代、小林というドイツ語の教授が、少女の「メッチェン」を「たおやめ」と訳したのが評判になって、少年たちを喜ばせていた。
 なんだ少女趣味、バンカラを装うメソメソを嫌悪する気持ちで、私の目は文学よりも理工系の即物的ザハリッヒカイトに傾いていた。

 そのころ登場した立原道造の作品は、目くらましに逢ったようで、途方にくれてしまった。浅間山の小さな噴火を、「ささやかな地異は」といい、「そのかたみに灰をふらした」というなど、言葉の精妙な織物のような表現にはとまどい、ウィットに富んだ短詩「郵便切手とうろこ雲」など、初期の短詩の方に興味をおぼえていた。後年、立原の一四行詩を真似た詩人はみな消えてしまっている。独特の世界だった。
 ただ、あえかな少女への想いのふしぎな言葉の織り込みに、嫉妬の思いにくれるばかりであった。


 立原の死後、「四季」に小山正孝の名があらわれだしたのは、「四季」の半ばごろであった。
 私たち、能美久末夫や太田道夫や塚山勇三らと違って、同人たちの推薦によって選ばれた大木実、中村眞一郎らの中の一人として、小山正孝が登場したのだった。
 そこに私が軽蔑して、而も思いとどかなかった、小山さんのリーベへの世界が、立原と全く違ったかたちで衝撃したのだった。
 小山作品として有名なのは、「雪つぶて」の中の「倒さの草」と「雪つぶて」である。
 「倒さの草」は、夢見る少女趣味を逆さにしたような、一見度肝をぬく設定で、「四季」本来の抒情のかたちとしても、新しくかたちをひらくものであり、同じく「雪つぶて」は、爽快な失恋のうらみつらみの、メソメソとは反対の面白さをもつ作品であり、抒情詩を新しく蘇生させる新作だった。
 六十号以降、「四季」誌上に、「路上」「人に」など、つぎつぎ作品が発表されてきた。
  「目はうつろに 心ははりさけそうだった 私の中に その人が
   とろとろ とけ込んでいるように感じた」(路上)
 やがて詩集「愛しあふ男女」になると、
  「私のくちびるの下で お前のくちびるを」(愛しあふ男女2)
とか、詩集「逃げ水」では        
  「ささやきかける私のくちびるの下で 紅の口びるは おののくだろうか」(青い麦畑の中で)
さらに、
  「私たちに愛というものが 通いはじめるのは いつも
   そのあとからだった かけひのかけられたたように
   私の中に お前が やがては お前の中に 私が
   音たてて 流れるのだ」(いつもそこだけを)


 官能性は深まるにつれ、視線は客観的になり、苦渋をにじませていく。
死後発見された、百数篇に及ぶという十四行詩のソネットでは、
   「はずかしそうに うつむいて
    起き上がった お前のえりに
    私は 朝のくちづけをしよう
    戸のすきまから 銀色の光が」
などの、甘い情感があふれて、とぎれることはない。
 美しい哀婉の情感は、苦しみ、道化の世界をひらいていく。その、苦渋と象徴の果てに到達したのは、詩集「山居乱信」の「タ方の九品仏」であろう。
 小山世界の道化と諧謔の傑作であろう。これだけ終始男女の愛を一途に歌いつづけた詩人を、私は知らない。
 あるとき詩集の題名としては謎めいた「風毛と雨血」「山居乱信」とか「散ル木ノ葉」など、ナゾめいているので、何かをもじっているのですかときくと、「ナニモナイ」とつっぱねられた。
 ともすれば「抒情」の文字は、禁句もしくは軽蔑の意味に使われていたが、小山正孝によって危うく支えられ、抒情詩は蘇生したと思われる。
                (感泣亭秋報三)


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