最近感じること(ブログ版)

粕井貫次の書き下ろし個人エッセイ

ひみつ基地ミュージアム「人吉海軍航空基地跡」

2021年03月02日 | 小話
息子の誠(三男)が書き込みます。

連絡があり、父、貫次の展示が完了したとのこと。
感無量です。なかなか遠くて行けませんが実際に見てみたいものです。







人吉海軍航空基地資料館「ひみつ基地ミュージアム」
https://132base.jp/index.html




以下は寄贈の前に撮影したもの。







父は2017年の4月に亡くなりました。
こうやって何らかの形で残していただけたら父も本望でしょう。
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昔のアルバムの整理・・・から

2021年02月04日 | 感じること
事務局から削除されましたので、一部訂正の上で再UPします。
(2021年2月4日)

息子の誠(三男)が書き込みます。

お袋(粕井睦子)の死去に伴い、実家の古いアルバムなど整理しています。
整理と言っても、これといった写真を写してデータ化しているだけで、
ほとんどは捨てることとなります。

最近思うのは、アルバムというものは、その本人のためのもので、
残された者には無くても何ら困りもしないものなんだということです。
写真は数枚あれば良い。それより思い出を多く持っておきたいものだと思います。

捨てる前にここで少しは紹介したいと思います。


第11回、国分飛友会(昭和61年4月19日)


(上記の順番表)

国分飛友会の名前は「貫次のおか目八目」のアーカイブに出ている。

おか目八目(平成18年3月1日)敗戦60年に思う(特攻隊解散の巻)
http://www.tombodo.com/agree/kanji/back/06nen/06.03/06-02.28.html


(粕井睦子、撮影日時不明)


(昭和37年1月)

伊勢志摩方面だと思われるが場所はわからない。
写っている橋と松の感じから、もしかしたら別の年に行った天橋立なのかも知れない。
同行の祖母(扇田たつえ、粕井隆)は映っていない。どちらかが撮影したのだろう。
2019年01月04日の記事と同じ場面である。

昔のアルバムより(昭和37年正月)
https://blog.goo.ne.jp/kanji-kasui/d/20190104/

アルバムから剥がれて落ちていたのでスキャンして、本日UPした次第。
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産経WEST 2015.6.26【戦後70年・出撃30分前(下)】

2019年08月16日 | メモリアル
息子の誠(三男)が書き込みます。
自分の記事のコピペです。

稽古なる人生
https://blog.goo.ne.jp/kendokun

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続きです。
産経WEST(2015.6.26 07:00)です。

https://www.sankei.com/west/news/150626/wst1506260003-n1.html



2015-6-26

「刻一刻と時間が過ぎていった」「爆弾を抱いて突っ込むしかない」特攻隊員、粕井貫次さんが語る奇跡の生還

 第二次世界大戦末期、神風特別攻撃隊(特攻)として出撃命令を受けながら天候不良によって奇跡的な生還を果たした粕井貫次さん(91)。今月中旬、大阪市内で講演した粕井さんは「出撃30分前待機」という命令を受けた際の、死と隣り合わせの緊迫した状況を克明に語った。

なるべく長男ははずし、次男か三男を人選

 国分基地では、毎日待機。しかしもう訓練できないんですよ。制空権はアメリカ軍にあるから。だから出撃というと、あわてて飛行機を組み立てて爆弾を積み込んで攻撃することになるわけです。

 あるとき「攻撃3時間待機に入れ」という命令が出たんです。日向灘沖に敵の艦艇らしきものが航行中。それを偵察機が発見したから3時間待機に入れということで、飛行場に張り出された搭乗割を見ると一番先頭に私の名前がありました。私は次男でもあるし、特攻員の人選も私自身がしたわけなんです。うちの軍隊から練習生だけで40人ほど選考してなるべく長男ははずし、次男か三男を入れて技能が優秀でしかもやる気のある人を入れた。それらを1月に発表していました。

 8月6日に広島に原爆が投下されましたね。9日には長崎に落ちた。ソ連が日ソ不可侵条約を結んでいたのにもかかわらず参戦。アメリカはいつ日本に上陸してくるかわからない。国内では女の人は竹やりの訓練をしている。そんなもん考えてみたら向こうは自動小銃があったり火炎放射器があったりするでしょ。竹やりを持って戦うなんてそんなもん話になりませんわな。

 ちょっとでもお役に立って敵を倒す。武器もたくさん持っている、それをやっつけるには爆弾を抱いて突っ込む以外にないと、そういう風に思いますわな。それがその当時の人間の考え方でした。

出撃3時間待機が30分待機に

 まず「出撃3時間待機」になって、組み立てた飛行機に爆弾は積んであるし、飛行機というのは暖機運転をしないといけない。シリンダーの中を温かくしなければうまく回転してくれないので、たえずシリンダーの中を熱くしとかないかん。しかし、あんまり暖機運転をするとガソリンが減っちゃう。しばらく休憩し、シリンダーが冷えてきたらあかんからまた運転して待機、運転を繰り返していたわけです。それを昼ごろからずっとしていた。

 次の情報がくるかどうか待っていたのですが、こないのです。そのうち「出撃3時間待機」が「30分待機」に変更となった。ところがね、30分待機になっても敵の艦船の位置がはっきりわからず、どのような動きをしているか、全然入ってこないんです。ただ3時間が30分になっただけで。私は550時間乗っていますからある程度夜間飛行できますが、昼間に2機が霧島にぶつかっていますし、まして星もない月も出ていない、低い雲が垂れ下がっているときに、当然相手は灯火管制していますから真っ暗けですわな。それを見つけてぶつかっていくというのは、とてもじゃないけど無理な話。どうかなあと私も心配しながら刻一刻と時間が過ぎていくわけですね。

 日が暮れかかってきて「出撃30分待機解除。3時間待機に移す」と。非常に不安定な心理状態でずっとおったわけですが、それが中止になった。中止になったからほっとしたかというと、終戦の天皇陛下の玉音放送を聞いたときもそうだったのですが、これで命が助かったというより、30分待機をやめろといわれたら、今日はやめるのか、だけど次はいつかわからんということでしょ。

幽霊と違う、脚がある…

 私は8月18日に家に帰れるというわけで大分で一泊して、燃料がないというんで仕方なしに岩国に飛んで陸軍の飛行場で燃料を補給して、呉市の南を通って大阪へ帰ることにしました。私は梅田から市電に乗って実家のある上本町まで来たら、周りはほとんど空襲で焼け野原なのに残っているんですよねえ。家に着いて声を落として「ただいま」と言うと、母親は死んでおりませんが、ばあさんがおりましてね、「ああ、たもつ(貫次の旧名)か」と私の脚にくらいついて「幽霊と違う、脚がある」。私がそんなに早く帰ってくると思わなかったんでしょうね。涙をぽろぽろこぼしました。そんなことでありがたいことに命拾いをしました。

 ここで私と親しかった男が遺書を書いてますので紹介したいと思います。この人は北海道出身の富澤といい、北海道の第二師範学校出身で、三重海軍航空隊で私と一緒に毎日食事をしていたわけです。フィリピンで特攻で死んでいるんですね。富澤幸光という人は20年の1月6日に死んでいるんです。特攻としては一番早い部類。他の連中はだいたい4月、5月が多い。絶筆になった遺書の一部を読み上げさせていただきます。

 【お父上様、お母上様、益々御達者でお暮しのことと存じます。幸光は闘魂いよゝ元気旺盛でまた出撃します。お正月も来ました。幸光は靖国で二十四歳を迎へる事にしました。靖国神社の餅は大きいですからね。同封の写真を見て下さい。猛訓練時、下中尉に写して戴いたのです。幸光を見て下さい。この拳を見て下さい。

 父様、母様は日本一の父様母様であることを信じます。お正月になったら軍服の前に沢山御馳走をあげて下さい。雑煮餅が一番好きです。ストーブを囲んで幸光の想ひ出話をするのも間近でせう。靖国神社ではまた甲板士官(軍紀を取り締まる職です)でもして大いに張切る心算です。母上様、幸光の戦死の報を知っても決して泣いてはなりません。靖国で待つてゐます。きつと来て下さるでせうね。本日恩賜のお酒を戴き感激の極みです。敵がすぐ前に来ました。私がやらなければ父様母様が死んでしまふ。否日本国が大変な事になる。幸光は誰にも負けずきつとやります。ニツコリ笑つた顔の写真は父様とそつくりですね。母上様の写真は幸光の背中に背負つてゐます。母様も幸光と共に御奉公だよ。何時でも側にゐるよ、と云つて下さつてゐます。母さん心強い限りです】

 私これを読んでから思うのは、人間には魂というものがあって一つ上の段階があるように思う。命というのは心臓があって頭で考える。でも魂というのはそれより一本上の立派なものだと思う。=おわり

【プロフィル】粕井貫次(かすい・かんじ) 大正12年12月、大阪生まれ。昭和18年9月、大阪専門学校卒業と同時に第13期海軍飛行専修予備学生として三重海軍航空隊に入隊。19年1月に博多海軍航空隊で練習機教程を終え、4月に詫間海軍航空隊へ転属になり実用機教程を終了。7月に九州の出水海軍航空隊国分分遣隊(後の国分航空隊)で分隊士兼教官として勤務する。20年1月に神風特別攻撃隊(特攻)が結成され、乾龍隊に所属。人吉海軍航空隊へ移動し特攻訓練に入る。4月に観音寺海軍航空隊に移動し、7月に特攻出撃のため国分基地で待機。8月に特攻出撃命令が下り、出撃30分前を体験。終戦により帰還する。元会社社長、奈良市在住。
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産経WEST 2015.6.25【戦後70年・出撃30分前(上)】

2019年08月15日 | メモリアル
息子の誠(三男)が書き込みます。
自分の記事のコピペです。

稽古なる人生
https://blog.goo.ne.jp/kendokun

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お盆なので、ちょっと古い記事ですが、
産経WESTの記事(2015.6.25 07:00)を紹介します。
昨年亡くなった父、粕井貫次の記事です。

https://www.sankei.com/west/news/150625/wst1506250011-n1.html



2015-6-25

【戦後70年・出撃30分前(上)】
「ライフジャケットに刺さったロケット弾の破片」特攻隊員、粕井貫次さんが語る奇跡の生還

 第二次世界大戦の末期、神風特別特攻隊(特攻)の飛行士として出撃命令を受けた後、悪天候で取りやめになり奇跡的に生還した粕井(かすい)貫次さん(91)=奈良市=が今月中旬、大阪市内で「特攻出撃30分前」と題して講演した。悪化する戦況、仲間の死、そして常に死と隣り合わせの特攻隊員としての日々…。「生きて終戦を迎えるとは思わなかった」と語る粕井さん。その講演内容を2回にわたって紹介します。

ごめんね、すまんね

 たくさんの方がお越しになって非常にうれしく思います。厚く御礼申し上げます。靖国神社や各地の護国神社に祀られている英霊に参拝したりしています。そういうところへ行きますと、なんで亡くなった彼らと私がこんなに違うんか。ごめんね、すまんね。いつもそんな思いでいっぱいになります。

 粕井さんが海軍に入隊したのは昭和18年9月。その少し前の5月にはアリューシャン列島のアッツ島が玉砕しました。全部、兵隊は死にまして。その次のキスカ島というのはうまい具合に霧を利用して全員が撤退した。そしてミッドウェー海戦では日本は大打撃を受けた。それで結局、日本とアメリカとの形勢が太平洋上で逆転しまして、日本本土も空襲を受けるという風になっていったわけです。

 昭和20年3月下旬、沖縄にはすでに米軍が上陸して、6月23日に日本軍の組織的な抵抗は全くなくなる。それまでに特攻出撃は随分とあったわけですよね。アメリカの資料から戦後わかったことですが、11月3日の明治天皇の誕生日、その明治節を期して一斉に日本上陸すると。これは九州の日南海岸、それから東京の方では九十九里浜というようなあちこちでアメリカ軍が上陸する。敵が日本本土に接近してきたときに、少しでも敵の上陸を阻止しなければいかんという切羽詰まった状態で出撃するわけです。そうすると私らの運命というのは、長くて11月3日になるわけです。

 特攻出撃の話の前にその頃の日本の状態を申し上げますが、ともかく情勢が厳しくなって燃料も足りない。それで訓練ができないわけですけども、特別の特攻のできる人間だけに訓練をして、最終の本土決戦に備えようというわけですね。

すぐそばにロケット弾が…

 国分(鹿児島)におって非常に空襲が激しい。それで人吉(熊本)に行って、特攻の最初の訓練として夜間飛行訓練をしたのですが、そこで私が飛行作業にかかる寸前に敵機がやってきた。その7機の攻撃を受けて私の左の一間(約1・8メートル)くらいのところにロケット弾が落ちまして、その破片が頭の方々、一つがライフジャケットに、足のファスナーを1つ切りました。

防空壕(ごう)に入ろうと思って走っていったら足がガクンとするんです。飛行服のファスナーがやられてしまって、足下で止まってしまっていた。それからすぐ防空壕(ごう)に逃げたのですが、2弾目の攻撃を受けたときに、私の隣の防空壕(ごう)にロケット弾が直撃しましてそこで14人死んでいるんです。

 人吉も怖い、そして四国の観音寺に行ったんですよ。その観音寺でもって、18キロの沖合の小島に向かって照明弾を落として、パッと明るくなったところで突っ込むちゅうわけです。ところがお星さんが出て月が出ているような晩ならよろしいが、曇り空で上も下もわからんようなときにやりますと、飛行機というのは操縦桿(かん)を引っ張ったらこう上がりますわね。その間に2機落ちましたね。そして死にました。

戦死したおうちは“英霊の家”

 そのときに殉職になると下士官の場合は、その当時のお金で2万円弔慰金が入るんです。ところが戦死になるとお金が出ない。4人とも親御さんが来て「どちらにしますか」と言うと、どの父兄も「殉職はいやです。戦死にしてください」というぐらいに、戦死というものに対する栄誉を考えていたんです。街を歩いてましても表札の横に戦死したおうちは「英霊の家」という表示がありました。その家の前を通り過ぎるときは会釈して通ったものです。それぐらい戦死というものが尊いという感じはあったんですね。

 いよいよ出撃するというときに、私の2番機が豊後水道にはまって墜落しまして、一番近い大分航空隊の方へ進路を変更してそこへ急遽(きゅうきょ)着陸しました。搭乗員と整備員が漁船に助けられてほっとしました。ところがそのとき大分で空襲を受けまして私は民家の2階で寝てたんですけど、大急ぎで下へ降りていったんです。横穴式の防空壕(ごう)へ逃げたんです。隣の民家にいた整備員が一人、爆弾の直撃を受けています。

 そんなことで再び国分まで移動していくわけですが、そのときに2機が霧島にぶつかっているんです。搭乗の技術もだめですし、整備もだめです。アメリカ軍は前線へ来るときに最低千時間は乗らなければ前線に立たない。私は教官をしていますから割と時間かせいでいるんです。私で550時間。航空隊の中でも上位のうちに入るんです。それぐらい日本の場合は搭乗員も少なくなっている状態でした。やがて、上官から国分でもって「特攻出撃の待機をせよ」という命令を受けたのです。   =つづく


【プロフィル】粕井貫次(かすい・かんじ) 大正12年12月、大阪生まれ。昭和18年9月、大阪専門学校卒業と同時に第13期海軍飛行専修予備学生として三重海軍航空隊に入隊。19年1月に博多海軍航空隊で練習機教程を終え、4月に詫間海軍航空隊へ転属になり実用機教程を終了。7月に九州の出水海軍航空隊国分分遣隊(後の国分航空隊)で分隊士兼教官として勤務する。20年1月に神風特別攻撃隊(特攻)が結成され、乾龍隊に所属。人吉海軍航空隊へ移動し特攻訓練に入る。4月に観音寺海軍航空隊に移動し、7月に特攻出撃のため国分基地で待機。8月に特攻出撃命令が下り、出撃30分前を体験。終戦により帰還する。元会社社長、奈良市在住。
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人吉海軍航空基地資料館に航空眼鏡を寄贈する

2019年07月26日 | メモリアル
息子の誠(三男)が書き込みます。
自分の記事のコピペです。

稽古なる人生
https://blog.goo.ne.jp/kendokun

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熊本県球磨郡錦町に人吉海軍航空基地があり、
親父(粕井貫次)は一時期、人吉航空基地にいた。
特攻のための夜間飛行訓練のためである。

親父が亡くなる前の月に錦町役場の方がインタビューに来てくれた。
下は、その時のことを親父のブログに私が書き込んだもの。

人吉海軍航空基地跡
https://blog.goo.ne.jp/kanji-kasui/m/201803

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最近、自宅に、とんぼ堂の工房を作った話を書き、
押入れの中を整理している話も何度か書いてきたが、
今回、タンスの奥から古い資料や写真とともに親父の航空眼鏡が出てきた。






(中央が若かりし頃の親父「粕井貫次」)

そういや、中学生か高校生の時に、
実家の押入れから見つけ出して親父に貰った記憶がある。
親父も仕舞ったまま忘れていたものを、息子がまたもや仕舞い忘れていたわけだ。

こういうものは個人で持っていても、いずれゴミになってしまうと思ったので、
フェイスブックで知り合った福田晃市氏に連絡して、
人吉の資料館への展示について取次ぎをお願いしたら快諾していただけた。

いずれ、資料館に展示されることになるかと思う。
そうなれば、熊本まで出向き、ぜひゆっくり見させていただこうと思う。

親父への供養になれば幸いである。


(人吉海軍航空基地資料館「ひみつ基地ミュージアム」)

人吉海軍航空基地資料館「ひみつ基地ミュージアム」
https://www.jalan.net/kankou/spt_43501ae2182099857/
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詫間海軍航空隊(1944年4月)の写真は九四式水上偵察機か?

2019年06月25日 | メモリアル
息子の誠(三男)が書き込みます。
自分の記事のコピペです。

稽古なる人生
https://blog.goo.ne.jp/kendokun

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現在、奈良の自宅の和室を改装していて、
改装に伴い、押入れの中にあった物など整理している。

いつ貰ったものか、親父(粕井貫次)の写真が数多く出てきた。

今回は、そのうちの1枚に対しての疑問。

粕井貫次は海軍航空隊で水上機の操縦教官をしていた。
最後は特攻隊員として出撃30分待機を最後に終戦を迎えた。


(粕井貫次、昭和18年11月7日撮影)


(昭和19年4月、詫間空・・と裏にメモ書きがある)

さて、この水上機は何なのか?

ウィキペディアで「詫間海軍航空隊」を調べると、
「詫間空では12機の水上偵察機とともに・・・」とあり、
また別の項で「主力機種 九四式水上偵察機」とある。

九四式水上偵察機(E7K1)
全長:14.41m
全幅:14.00m
全高:4.735m
主翼面積:43.60m2
全装備重量:3,000kg
最高速度:239km/h(高度500m)
乗員:3名
発動機:九一式五〇〇馬力発動機二型水冷W型12気筒(離昇750hp・公称600hp)x1
航続距離:2,200km
航続時間:12時間
武装
7.7mm固定機銃x1・7.7mm旋回機銃x2
60kg爆弾x2または30kg爆弾x4

ところが、九四式水上偵察機を画像検索すると親父の残した写真とは違う。


(九四式水上偵察機)

あきらかにカウルが小さい。

写真の水上機は、カウルだけ見ると、九十式2号や、九十五式に似ている。
しかし、九十式2号や、九十五式は単フロート型で、下駄履き(双フロート型)では無い。


(九五式水上偵察機)

さて、写真の水上機は何なのか?
10機以上も並んでいるところを見ると九四式水上偵察機としか思えないが、
九四式水上偵察機にはカウルの大きなタイプもあったのか無かったのか?

親父が生きているうちに聞いておけば良かった。
どなたかご意見を戴ければありがたい。
(メールの場合は、m.kasui@nifty.com まで)


【2019年6月28日追記】

調べていたら九三式水上中間練習機だと判明しました!




(童友社 1/32 旧日本海軍 九三式水上中間練習機 赤とんぼ 水上式 プラモデル)

九三式水上中間練習機(K5Y3)
全長:8.78m
全幅:11.00m
主翼面積:27.00m2
全装備重量:1,650kg
最高速度:107km/h
乗員:2名
発動機:天風11(型式空星9)離昇340hp・公称300hp)x1
航続距離:485km
武装
7.7mm旋回機銃x1
30kg爆弾x2

九四式水上偵察機の性能と比べてもかなり劣ります。
最高速度が107kmだなんて、現代の車よりかなり遅いですね。
コメント

昔の写真が出てきたので(2019年6月19日)

2019年06月19日 | メモリアル
息子の誠(三男)が書き込みます。

現在、奈良の自宅の和室を改装しています。
仕事場である、とんぼ堂の「工房」として手を加えつつあります。

改装に伴い、押入れの中にあった物など整理していますが、
何故か、親父(粕井貫次)の写真が数多く出てきました。
いつ貰ったものかはっきりしません。

その中から、何枚か紹介したいと思います。
年代別ではなく、手に取ったもの順なので悪しからずご了承ください。


(粕井貫次の1才頃の写真かと思われる・大正13年頃)


(昭和5年1月1日撮影とある・お名前は崩してあるので判読はお任せします)
(完は貫次の旧名で“たもつ”と読む)


(写真の裏側に書いてあるので、上の写真とは左右が逆になると思われます)


(昭和18年11月7日)


(昭和20年1月3日・スミチャン)

後ろの軍服が父(粕井貫次)かと思われる。
スミチャンは、ご存命であれば80才半ばか。
コメント

道頓堀極楽商店街

2019年02月12日 | メモリアル
息子の誠(三男)が書き込みます。
自分の記事のコピペです。

稽古なる人生
https://blog.goo.ne.jp/kendokun

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(ウィキペディア「サミー戎プラザ」より拝借)

古い写真を整理していたら「道頓堀極楽商店街」の写真が出てきた。
13年前の粕井のイトコ会のあとで連れ立って行った時のものだと思う。
懐かしいので紹介しておく。

道頓堀極楽商店街は、道頓堀の娯楽複合ビル「サミー戎プラザ」の5~7階に入居。
大正末から昭和初期の大阪の街並みを忠実に再現し、地元の有名お好み焼き店やくしカツ店、
立ち飲み屋など約40店舗が軒を連ねる「食」のテーマパークである。

個人的には面白いところだったが、急激に客足が減っていたという。
平成16年(2004年)7月にオープンし平成21年(2009年)3月に閉鎖された。






(平成18年-2006年7月17日、道頓堀極楽商店街の写真屋さんにて)

自分の生まれた頃の「三丁目の夕日」的な雰囲気も好きだが、
「道頓堀極楽商店街」はそれよりずっと前の親の青春時代の風景である。
昭和初期の大阪の街を少しデフォルトに再現し立体感もあって懐かしい。

でもまあ、一度行けばいいかな・・という感じであったのは否めない。
コメント

昔のアルバムより(昭和37年正月)

2019年01月04日 | メモリアル
本日より仕事始め。本日より出荷業務で初荷となる。
とんぼ堂の事務所には餅つきの30日と実家に行った2日を除き、
毎日来ていたので、正月休みを取ったという実感は無い。
事務所で過ごすのもまた心地よい。
サラリーマン時代にはなかったことだ。

特に何も無いので昔の写真を紹介する。
昭和36年12月~昭和37年1月のもの。


(昭和36年12月にフタバヤ、のちのホワードで撮った写真、撮影は叔父の粕井寛)
(左から隆、滋、誠)


(母、粕井睦子)


(昭和37年正月、母の実家、奈良市川上町の扇田家の前で、撮影は父 粕井貫次と思われる)
(左上より、祖母 扇田たつえ、扇田智司、叔父 扇田善次、粕井睦子、叔母 扇田幸子、扇田雅代)
(左下より、粕井滋、粕井隆、祖父 扇田善次郎、粕井誠)

このあと伊勢神宮に参拝旅行に行った。
車は、いすずのヒルマンミンクス。ヒーターも無い車だった。
国道1号線を使ったが、途中の鈴鹿越えで大雪に見舞われ、チェーンも無く、
お袋が、道路脇の農家でムシロを譲り受けてタイヤの下に敷き何とか越えた記憶がある。
親父が運転していたのだが、緊張の連続中、子供心にとても不安で怖かった。


(伊勢参りに行った時の写真、左より隆、誠、睦子、滋)


(右後ろに祖母、扇田たつえ)


(父、粕井貫次と)


(伊勢志摩での撮影)


(見事な松、どこなのか、調べてもわからなかった)
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実家にて集まり歓談する(2019年1月2日)

2019年01月03日 | 楽しい
息子の誠(三男)が書き込みます。
自分の記事のコピペです。

稽古なる人生
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喪中だが集まろうと声がかかり急きょ実家に集合した。
実家は自宅から800m南になる。次兄(粕井隆)が継いで守っている。

昼過ぎに行き、両親の仏前に参ってから宴となる。
喪中なのでお祝いの言葉は述べない。
今年もよろしく、乾杯ではなく献杯。

お開きは午後10時だから実に10時間近くだらだらと酒を飲んでいた。
休むことなく飲み続けるのが扇田(母の実家)の流儀である。
親戚が入れ替わり立ち替わり来て宴に参加する。
祝いの言葉こそ無いが例年と変わらない正月の風景だった。


(親戚が次から次へと離れの仏壇にお参りする)


(甥の一家が帰ると言うので集合写真を撮る)


(母方の祖父、扇田善次郎の遺品のシルクハット)


(ちょいと拝借して被らせてもらった)


(父、粕井貫次66才の時の写真、雑誌のインタビュー記事「うちのヨメ讃」より)


(週刊朝日、1990年2月3日号「うちのヨメ賛」の記事)


(お開きの前にも集合写真、例年よりも人数は少ない)
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