最近感じること(ブログ版)

粕井貫次の書き下ろし個人エッセイ

小林一三さんについて

2008年02月19日 | 感じること
 今日は東成スポーツセンターでの太極拳のあと、地下鉄中
央線で近鉄生駒経由で5時半に帰宅できました。それで先日
の太田耕治さんの「小林一三さんについて」聞いたことと、
私の記憶を書きます。
 小林さんは明治6年(1873)生まれですから、私より
50歳年上になります。私が知ったときは阪急電鉄・阪急百
貨店の社長をされておられたようです。
 郊外電車の会社でたしか全国始めて住宅の開発をやったり、
宝塚に遊園地や少女歌劇団、沿線に学校の建設誘致を行なう
など、非凡な商才を発揮されていたようです。
 そのころ聞いた話に「ホワイト・オンリイ・ライス」とい
う逸話がありました。
 梅田の阪急百貨店の北には関西大学があり、そこの学生さ
んがかなり百貨店の食堂を利用していました。ところが当時
の学生には今のようないいアルバイト先はありませんでした。
 お金のない学生さんは食堂で5銭のご飯だけを注文。お皿
の端についてある福神漬に塩と胡椒をご飯に振りかけてお腹
を満たしたようでした。
 営業会議か何かのとき、食堂の責任者が小林社長に「こま
ったことです」といったところ、小林社長は次のように言っ
たそうです。
 「学生さん達は今はお金に苦しいかも知れん。しかし将来
卒業して社会に出たときはエリートである。いやがるどころ
か将来の大事なお客さん。今後は飯を大盛りにしてやれ」と
言ったとのこと。
 その商才を見込まれたのか、太平洋戦争が始まる前の年、
昭和15年の7月、第二次近衛内閣のとき商工大臣に就任し
ています。民間出身者としては異例です。その2年前には
国家総動員法が公布され、正に国を挙げての非常事態だった
のでした。
 そのときの商工省の次官は辣腕の官僚である戦後総理に
なられた岸信介さんでした。この両者の歩調がかみ合わず、
民間出身の小林さんの力が発揮できなかったせいもあり、
大臣としての小林さんの評判は悪く、就任の翌年4月に大臣
を辞任、ただし貴族院議員に勅選されています。
 お元気、エネルギッシュな方で、公職追放が解かれた翌年
の昭和27年に欧米を視察されています。
 84歳で新宿と梅田のコマ劇場の社長に就任、その年の1
1月まで宝塚音楽学校の校長もされていました。
 昭和32年1月、急性心臓性喘息で偉大なる生涯を85歳
で閉じられました。



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ロボットと梅

2008年02月19日 | 川柳
 2月の「三金会」は11人の参加者でした。入選句は下記のとおり。
宿題「ロボット」 誠 選
  ボクは飲みいまロボットは仕事中(互選では4票)
  ロボットのような嫁はんええやろか(互選では2票)
席題「梅」    みのる 蓬芝 共選
  焼けぼくい盆梅展に誘われる(二人とも)
  おじば帰り先ず梅鉢の紋所(蓬芝 選)
  日の丸弁当さえも贅沢終戦時(二人とも)
なお今日の一夕話は太田耕治さんの「小林一三さんについて」でした。
この内容は改めて書きたいと思います。

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