BLOG STATION
東京発世界行

written by Ken
 



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1年前、こんなことを書いた。
3年目の目標は、このブログを卒業することである。
1年後に、BLOG STATION が続いていたら、留年したのだと思っていただきたいと思う。

BLOG STATION:駅の二年

それから1年が経ち、昨日で当ブログは丸3年を迎えた。
実をいうと、昨日はそのことを忘れていたのだ。
忘れていた、ということが、僕のブログに対する今の気持ちを表しているといっても良いのかもしれない。

この半年、生活環境が大きく変わったこともあり、ブログの更新は時々週末に古いレコードのレビュー記事を書く程度になった。
一方、はてなを始め、いくつかの場所に記事を分散して書くようになってきた。
その間に、僕の愛称は「駅」から「蟹亭主」に変化した。

もう「駅」は卒業することにしたいと思う。
このブログは当面、閉鎖はしない。
ときどき更新したりするかもしれない。
しかし、BLOG STATION は僕にとって過去の居場所に過ぎないものとなっているのだ。


今までお読みくださったみなさん、ありがとうございました。

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「こういう言葉は使いたくない」というものをいくつか書き出してみる。

■わんこ
犬のことを「わんこ」と呼ぶのは、例のテレビ番組のせいかもしれない。そういう呼び方をするひとって、なんとなく頭が良くなさそうな気がするのは僕だけだろうか。
また、猫のことを「にゃんこ」と呼ぶのは、もはや論外である。

■生きざま
たいがい、「俺の~」が頭につくらしい。
彼の脳内はどうなっているのだろう。

■相方
配偶者のことを「相方」と呼ぶようになったのは、最近のことだと思う。
彼らは漫才コンビなのだろうか。

■言の葉
「言の葉」は、「言葉」の古語であり、「和歌」の意味もある。
古語として用いたり、短歌などの中で音韻を揃えるために用いたりするのは構わないが、現代文に安易に用いると途端に軽薄になってしまう。

■リテラシー
元は「識字能力」の意味だったが、今や「なんとかリテラシー」が巷に溢れかえっている。
何なんだろう、この胡散臭さは。この語を用いることによって、なんとなく物事が判ってしまったような気になるからだろうか。

言葉に罪はない。
言葉の使われ方、言葉を用いる者の考え方の問題であるのかもしれない。

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『猫語の教科書』 は、猫による、猫のための本である。
猫がタイプライターを打って書いた本で、「子猫、のら猫、捨て猫のために」 という副題がついている。
猫が、人間からエサをもらい、人間の家に住み、しまいにその家を乗っ取るための lifehacks が書かれている本なのだ。
そして、猫が人間とコミュニケーションするためのマニュアルになっているのである。

僕が本を読んでいると、うちの猫たちはたいてい邪魔をして先を読ませないようにするのだけれど、本書を読んでいるときは、なぜか悪さをせず、いっしょになってページを眺めていた。
でも、彼らにとって、この本はもう必要ないだろう。
我が家はすでに十分、彼らに乗っ取られているのだから。


猫語の教科書

筑摩書房


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作家、ポール・ギャリコの美しい文章と、女性写真家、スザンヌ・サースのモノクロ写真が素敵な本。
ソフトカバー版と文庫版と両方出ているのだけれど、文庫版のほうには大島弓子の“マンガ解説”がついています。

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■崖っぷちの犬
最近、テレビを全く見ない生活をしているため、ニュースといえばネット経由で知ったものばかりなのですが、例の犬の話題から。
tak-shonai’s Today’s Crack 2 - 「テレビに出たあの犬」 が欲しいんだもん

救出された 「崖っぷちの犬」 を飼いたいというオファーが、日本全国から寄せられているのだそうで、それに対して、多くのブログで 「偽善者め! だったら、自分の街の保健所で殺処分寸前の犬を飼え」 と論難されている。

だけど、こういう人たちって、「テレビに出た "あの犬"」 しか見えないんだもんね。

とんだ大捕物騒動だったわけですが、テレビで繰り返し流れる映像を見ていたら、"あの犬" しか見えない人が出てくるのは当然だと思うんです。
どこかの保健所にいる不特定の犬(a dog) ではなく、テレビのブラウン管を通じて映像が目に焼きついている "あの犬" (the dog) だからこそ、「飼いたい」、「命を救いたい」 という感情が湧き起こるんですよ。
そういう感情に基づいて行動することのどこがいけないというのでしょうか。
「あの犬を飼いたい」 と希望する人たちを糾弾する人は、何らかの行動を起こしているのでしょうか。

■拾われた猫を引き取った理由
今年の6月に、僕は拾われた2匹の猫を引き取って、飼い始めました。
誰かが捨てたと思われる子猫を、仕事帰りの友人が拾い、引き取り手を探しているというウェブ日記を読んだのがきっかけでした。
僕が 「詳細キボンヌ」 と書いたメールを送り、友人から送られてきたのが右の画像です。

かわいい。

僕は、この画像を見てフリーズしました。
猫なんか飼ったことありませんでしたし、猫を飼う予定もなかったんです。
でも、僕は翌朝、家族を叩き起こして、「猫を飼うぞ」 と宣言し、『子猫の飼い方』 という本を買ってきたり、猫を飼っている周囲の友人関係にいろいろ尋ねて教えてもらったりして、猫のトイレだのエサだの買い揃えました。
しかし、友人からのメールには、もう1枚の画像が添付されていました。
そう。拾われた猫は2匹いたのです。
最初は、どちらか1匹を、とオファーしていたのですが、ほかに引き取り手も見つからず、結局、僕は再び家族を説得して、2匹とも飼うことにしました。
そして、週末に友人の家に、車で子猫たちを引き取りに行きました。
友人が猫を拾ってから、4日目のことでした。

我が家に猫が来たときの話は、以前の記事に書きましたが、当時の猫たちは、やっと目が開いたばかり。自力でミルクを飲むことは出来ましたが、まだよちよち歩きでした。生後2~3週間くらいだったのだろうと思います。猫たちの顔には、母猫の体液と思われるかさぶた状のものが付着していました。
僕は、画像の猫にケイという名前をつけ、もう片方の猫をミイと名づけました。

5ヶ月経った現在、猫たちはすっかり大きくなってしまいましたが、今こうしてパソコンに向かっている僕の膝の上で眠っています。

僕が子猫を引き取ったのは、上の画像を見た瞬間、“どこかの子猫”(a kitten) が、“あの猫” (the kitten) に変化したからです(本当は複数なので、the kittens ですけど)。あのとき、僕は “あの猫”と 「出会った」 んです。
善人を気取るつもりはありません。熱しやすい性格を笑われても構いません。
子猫を飼うことが出来て本当に良かったと思っているからです。

■『アンネの日記』 について
話は逸れますが、上に述べた心理について、別の角度から僕なりに自己分析してみたいと思います。
アンネの日記 - Wikipedia
作家志望だったアンネ・フランクは、手始めに自分の『日記』を出版することを考えており、書き溜めたものを推敲する作業を自ら進めていた。よって、日記にはオリジナル原稿と、彼女自身の清書による改訂稿の二つが存在する。これらはどちらも完全な形では残っておらず、アンネの死後、オットー・フランクによって、オリジナル原稿と改訂稿を相互補完する形で縮約編集された。言わば私家版である。

アンネ・フランクは、ユダヤ人に対する迫害・虐待を社会に告発するために日記を綴っていたわけではありません。
僕が読んだ文庫版 『アンネの日記』 には巻末の解説に、彼女がその後、ナチに囚われ、収容所で亡くなった話などが書かれていましたが、そういう解説的なものは、後から付け加えられたものです。
戦争や人種差別・ホロコーストといった歴史や時代背景について学ぶことは大切だと思いますが、『アンネの日記』 の魅力は、そういうものとは別のところにあるのではないかと僕は思います。

『日記』 本文には、当然ながら作者の死については書かれておらず、戦時下の不安な生活、周囲の大人たちに対する批判といった事柄が、彼女ならではの瑞々しい文章によって、どちらかというと明るいトーンで描かれています。
僕が 『アンネの日記』 に心を打たれるのは、作者が 「ユダヤ人収容所で亡くなった少女」(a girl) だからではなく、アンネ・フランクという素晴らしい日記文学を書いた人物(the author)だからです。
作家とその作品を同一視することには、また別の問題があるとは思いますが、少なくとも 『アンネの日記』 のような優れた文学作品に触れるとき、このような書き手との 「出会い」 を経験することが重要な要素の一つになっているのではないでしょうか。

アンネの日記

文藝春秋


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近年、出版された深町真理子訳の 『アンネの日記』 のカバーには、アンネ・フランクの肖像写真が使われていないようです。(本を見たことがないのですが、内側には使われているのかもしれませんけどね。)
ひょっとしたら、初めて読むひとにとって、だいぶ印象が違うのかもしれませんね。

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「非表示カテゴリ」の記事が表示されない現象を回避するため、非表示カテゴリの中の記事を(原則として)全て他のカテゴリに一括移転しました。

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 (右側のサイドバーのブックマーク欄からもリンクしています。)

僕の場合、「非表示カテゴリ」は他人に見せたくないというわけではなく、「トップページに頻繁に表示されるとうざいから」という理由で用いています。
そこで、回避策として、該当記事の「投稿日付」を全部、2000年1月にまとめました。
実際に投稿した日付は、記事タイトルまたは本文中に記載しています。

1週間に1度程度、更新しているのですが、「投稿日付」が過去になっているため、RSS リーダでは表示されませんので、ご了承ください。


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手足の長いミイに比べて、ケイは胴長で手足が短い。
体全体の大きさが、ミイより一回り小さいのだけど、それ以上に頭と前足が細いため、余計に痩せてみえる。
実際は、200g 程度の差なのだが、2匹を抱いてみると軽く感じる。

■ケイの特徴
寝起きの行動が素早く、エサを皿に入れる音が聞こえると、昼寝中でも、ぱっと飛び起きて、2秒後には食べ始める。
高い所へ登るのが得意。
カーテン垂直登りはもちろん、柱にしがみついて、天井まで到達する。(あまりにも速いので、写真が撮れません。)
お座りパンダ・ポーズが上手。
うんちをするときは、トイレの縁に前足2本と後足1本をかけた姿勢でする。
人間には決して、爪を立てない。
おもちゃを口にくわえて、ゴミ箱に入れる。
2本足で歩いたりする。
お喋りなミイと違って、にゃっ、にゃっ、と短く鳴く。
でも、トイレのドアに尻尾を挟んだときは、ぎゃーーーっ!という大きな声が近所中に響いた。

そして、ときどきいなくなる。

僕がパソコンに向かっていると、たいてい、ミイが膝に乗ってくる。
ケイはどこに行ったんだろう? さっきまで、デスクの下にいたのに。
部屋中、見渡しても見つからない。
しばらくすると、ミイがぴょんと床に飛び降りる。
すると、ミイのいた場所の下、即ち、僕の股間から、ケイが顔を出すのだ。

■ケイの意外な好物
エーメンタールというチーズがある。たぶん、市販のチーズの中で、一番、塩分の少ないものだと思う。
彼女の好物は、これだった。(ミイは絶対に食べようとしない。)
冷たい雨の降る夜、家族が寝静まった後の台所で、ビールを飲んでいると、猫たちがテーブルに登ってくる。
(このときだけは、テーブルに乗るのを許可している。)
ミイがビールの缶についた水滴をなめている間、直径5ミリくらいにちぎったチーズをケイに放ってやると、喜んで食べている。
サラ・ヴォーンの CD をかけ、僕は指先でリズムをとる。
猫たちは、僕の指を見ながら、首を振っている。
言葉なんかいらない、素敵な時間。
このまま、朝が来ればいいのに。

首まわりをさすってやると、ケイはうっとりした目で、僕を見つめる。
彼女は、柔らかな肉球で、僕を愛撫する。
しかし、それは表向きの顔だ。
彼女が、自分より大きなミイに向かって牙をむくときの表情は、肉食獣のそれである。
だが、今は安らかに瞼を閉じようとしている。

こうして、今夜も僕は、小さな悪魔を寝かしつけるのである。

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ケイの体重=2.6kg(10月22日現在)

※画像は、ケイと新しい友人。

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猫を飼い始めて、4ヶ月が過ぎた。
6月上旬生まれと推定しているので、間もなく生後5ヶ月ということになる。

猫の年齢の換算法
上のリンク先によれば、人間の年齢に換算すると、生後4ヶ月(猫)は6歳8ヶ月(人間)ということになる。
なんだ。もう小学生ではないか。
猫の成長は早い。
あと4ヶ月もすれば、盗んだバイクで走り出す。
そして、あと6年経つと、僕の年齢に追いつき、追い越されるのだ。

ところで、2匹の猫、ミイとケイは同じ環境で育っているのに、随分と性格が異なる。
正反対と言っても良いくらい、独自の個性を持っているのである。

■ミイの日常生活
妻が帰宅して、玄関で「ただいま」と言うと、ミイは「ニャー」と鳴いて出迎える。
(最近は、ケイも出迎えているようだが。)
しかし、僕が帰宅したとき、ミイは出てこない。
彼女は、僕の部屋で、僕がいつも腰掛けるイスの上で、じっと待っているのだ。
そして、僕の顔を見るなり、堰を切ったように喋り始めるのである。

「ねえねえ、あのねあのね、おふとんのひもがね、ひもをね、ひっぱったのにね、おふとんはおふとんなのね。それからそれからね、おひさまがどこかへいっちゃってね、おそらがくらくなってきてね、ケイとふたりでおそらをながめていたら、おそらがないているのね。そしたらね……」

実際は、にゃーにゃー鳴いているだけだが、雰囲気はこんな感じだ。
「わかったわかった」
彼女の頭をなでてから、僕はトイレに行くのだけど、まだまだ喋り続けている。

ミイは、40センチくらい垂直にジャンプする。
手足が長いので、1メートルくらいの高さまで、手が届く。
周りに水滴のついたペットボトルを舐める。
トイレが汚れていると、「くちゃーい」と苦情を申し立てる。
トイレを掃除してやると、すぐにウンチをする。

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ミイの体重=2.8kg(10月22日現在)

※画像は、缶ビールについた水滴を舐めるミイ。

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火傷と猫
猫と身体の痛み
のさらに続き。

先日、家人が手の指を傷めた。
親指の根元の関節あたり、手の甲の側に、突き指のような痛みがあるというのだが、なかなか治らないため、病院に通っている。
ところが、最近になって、猫たちが患部を舐めるようになった、というのだ。
子猫を抱いてやったり、頭をなでてやったりすると、指先や手のひらを舐めてくるのはいつものことだが、通常、手の甲を舐められたりすることはない。
患部は腫れ上がったり、発熱したりしているわけではなく、外見からは(少なくとも人間には)痛みを知ることが出来ない場所である。

前回の記事で、「猫には人の痛みを理解する能力がある」 と書いたが、そのことが実証されたようだ。
これは偶然でもなければ、僕だけが体験する特殊な出来事でもなかったのである。

では、猫は心の痛みを理解することは出来るのだろうか?

猫は人間の言葉を理解しない。人の声の調子などから雰囲気を察することは出来るようだが、人間の持っている複雑な心理を理解することは、猫には出来ないのではないか。まして、彼らは我々人間と同じ経験をしたことなどないのだから。
だが、考えてみれば、猫たちは火傷も突き指も経験したことがないのである。
それでも、彼らは人間が痛みを感じていることを自らも感じ、痛みを軽減しようとして、舐めたり触ったりするのだ。
猫が悪さをしたとき、きつく叱りつけると、そっぽを向き、自分の身体を舐めて毛づくろいを始めることがよくある。猫だってストレスを感じるのだ。
しかし、仲間の猫や人間の身体を舐めるのは、明らかに相手の痛みを理解した上での行動である。(猫に舐められたからといって治療効果があるわけではないが、そういう問題ではない。)
これは、猫が人間に“共感”していることを意味するのではないだろうか。
共感 (sympathy) が発生しているのだとすれば、すでにこれは“心”の問題である。少なくとも、食欲や性欲といった動物的な本能とは異なる次元のものだ。

人間の心は、猫よりも遥かに複雑に、抽象的に出来ている。
相手の喜びや悲しみを、自分のことのように喜び悲しむ。
それが、我々に与えられた“共感”という能力なのではないだろうか。


明けぬ夜の夢:経過報告
この記事を読んで、ふとそんなことを考えたのである。

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今年の5月に書いた駅の二年という記事で、「3年目の目標は、このブログを卒業することである。」と書いたのだが、そろそろ具体的に動き出そうと思っているので、そのあたりのことについて、今思っていることをいくつか書いておくことにしたい。

■当ブログの自己評価
304 Not Modified:ブロガーとしての満足感をどこに感じるか
まなめさんの記事の冒頭に列挙されている項目のほとんどについて、当ブログは既に「達成」している。
コメント数、トラックバック数などについては、ブログを開設した初期の頃にピークを迎えたため、現在は少なくなっているが、その分、大半の記事が SBM でクリップされるようになり、安定したアクセス数を獲得すると同時に、新しい読者層を増やすことにも成功していると思う。
つまり、このブログは「ある程度の成功を収めた」のである。
しかし、それと同時に、次へと向かう目標を失った、とも言えるのではないだろうか。

■ブログの成功と満足度
「達成」や「成功」と、自分自身の満足度は異なるものである。
贅沢な悩みだと思う方もおられるかもしれない。逆に、その程度で「成功」と思うなというお叱りを頂くかもしれない。
しかし、見た目の「成功」とは裏腹に、僕自身はこのブログに決して満足しているわけではないのだ。

■では何がやりたいのか
はっきり言ってしまえば、アダルト向けコンテンツを本格的に始めたいと思っている。
ところが、当ブログでそれを行うことの出来ない理由が二つ存在する。
  • 「マリオピアノ」を始め、いくつかの記事の読者の大半が小中学生である。
    • 読者の対象を広げすぎた僕自身に原因があるのだが、これを止めるつもりはない。
  • gooブログ利用規約への抵触。
    • 別に違法なコンテンツを作成するつもりはないのだが、gooの場合、特に規約が厳しい傾向があり、また、gooブログ全体の空気として、アダルト・コンテンツは馴染まないと思う。
つまり、アダルト・コンテンツ専用(になるかどうかわからないが)のブログを新設して、読者層を切り分ける必要があるわけである。

■結論~当面の計画
  • goo以外の場所に、ブログを新設する予定。
  • 何らかの手段で読者の皆さんには新設ブログをお知らせしたいと思っているが、当ブログからはリンクしない。
  • 当ブログは閉鎖しない。
  • 当ブログの更新は極端に減るかもしれない。(音楽の話題などは、こちらに書き続けるかも。)
そんなわけで、無駄なくエロいサイトを作りたいと思っていますので、お楽しみに。

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火傷と猫の続き。

日曜の午後、雨が降り出した。
一人家にいた僕は洗濯物を取り込んでいた。
ベランダから室内に後ろ歩きで入ったところで、何かを踏んづけた。
ずっしりと重い角ハンガーを両手に持った僕は、バランスを崩し尻餅をついて倒れた。
室内の転倒だからたいしたことはないのだけど、尾骶骨をこれでもかというほどぶつけたらしい。
おまけに、倒れた勢いで木製のクローゼットに後頭部をぶつけ、クローゼットの引き戸がレールから外れて、大きな音を立てた。
引き戸が外れたため衝撃を吸収したらしく、頭は痛くなかった。
その代わり、全身が痛くなった。

リビングに下りたのだが、尾骶骨がずきずき痛んでいる。
僕は、座椅子を倒し、うつ伏せになった。

しばらくすると、猫たちがやって来て、僕の尻の上で毛づくろいを始めた。
彼らの体温で、尻の痛みがすーっと消えていく。
毛づくろいの反復運動が振動となって、心地良く伝わってくる。

ふだん、ごろ寝していて、猫が寄り添ってくるときは、ほとんど足の間か手の上である。
身体の凹んだ部分のほうが安定感があるからだ。
出っ張った尻の上は座りが悪い。
でも、彼らは僕の尻の上にいて、尾骶骨のあたりを温めている。
この子たち、やっぱり痛む場所がわかるんだ。
前回の火傷のときと違い、猫たちは僕が転倒する場面を目撃したわけではない。
ベランダに面した部屋は、猫が入らぬようドアを閉めておいたからだ。
ちょっとした打撲なので、ジーンズを履いた上から、傷が見えるわけでもない。
それに、一人でいるのだから、「尻をぶつけて痛い」などとしゃべったわけでもない。
僕の疑問は確信へと変わった。
テレパシーみたいなものなのかどうかよくわからないのだけれど、とにかく、猫には人の痛みを理解する能力があるのである。

痛みが落ち着いた頃、猫たちは尻から飛び降りて、何事もなかったかのように遊び始めた。

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画像はミイとケイ。
この状態から起き上がるのは難しいんです。
しかも、水色のタオルケットを奪還しなくてはならないのに。

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