今日も、すがすがしい感じ。
明日から、暑さがぶり返すそうだが。

桓武天皇という新書が出た。
桓武天皇が、平安京に遷都したことは知っていても、それ以上のことは、知らない人も多いかもしれない。
私も、奈良時代の本を中心に読んできたので、それほど詳しくは知らなかった。
本書は、そんな私にピッタリの内容で、その展開の仕方もしっかりしており、奈良時代から平安時代に移る時期の日本を知りたい層にぜひお勧めしたい。
まず、語られるのが桓武の出自。
平安遷都を成し遂げた天皇だから、さぞ、しっかりした血筋の天皇と思っていたら、とんでもない。
いろんな要因が積み重なって、たまたま天皇になった?
そもそも天武以降、天武系の天皇が続いていて、ここで、天智系に戻ったとされるが、本書では血はつながっていないものの、聖武が認めた子であったことが、即位に重要な役割を果たしたとし、それを桓武自体も、重要視していたと考えられるという。
これは、たぶん、よく研究しないとわからない点だ。
また、平安京に移る前に検討された長岡京の話。
なぜ、長岡京建設途上で、平安京に変更になったのかの推理が面白い。
もちろん、真実はわからないないのだが、長岡京の建設は、藤原種継任せでスタートしたものの、亡くなってしまい、未完のまま10年が過ぎ、継続が難しくなったのではと推理。
そして、和気清麻呂を中心とした体制に立て直し、桓武も前面に出て関与する形で、平安遷都にこぎつけたのではないか。
早良親王の祟り説もあるが、これは主因ではなかったのではと。
桓武にとっての早良親王は、天智にとっての天武的存在であったが、その後の災難の連続が祟りではないかということになり、繰り返し繰り返し鎮魂することとなった。
蝦夷征伐では、坂上田村麻呂が有名だが、最初は、大伴家持からスタート。
当初は、全く成果を上げられず、桓武天皇は激怒。
坂上田村麻呂が率いるようになってから、事態は好転し、当初の目的を達成した。
平安遷都と、蝦夷征伐は、桓武の2大施策で、その二つを成し遂げたことにより、強固な基盤を確立した。
妃が、28人もいたそうで、後継も平城・嵯峨と無事続いた。
仏教については、聖武天皇のように国策の中心に据える扱いではなかったが、これは、南都仏教が政治に関わりすぎたことを嫌ったもので、平安京に、東寺、西寺を作ったことでもわかるように、仏教を嫌っていたわけでなかなった。
特に重要なのは、再開した遣唐使に最澄、空海を送ったこと。
最澄はともかく、空海は、まだ名もない僧侶だったにも関わらず一員に加えたことが、日本のその後の仏教の大きな発展の礎となった。
これは、桓武が意図していたものではなかったが、結果的に大きな仏教発展の基礎となったといえる。
平安京に落ち着いてから、桓武は初めての行幸を行ったが、特に重用なのは、そのルート、日程の掛け方。
難波への滞在、玉津島参拝を見ても、聖武への追慕の旅であったことがわかるという。
昨年、玉津島に行った話をしたが、そこは、万葉集で有名な神社ということであった。
聖武、桓武ゆかりの神社でもあったわけだ。
やや専門的ではあるが、良質の一書だった。
明日から、暑さがぶり返すそうだが。

桓武天皇という新書が出た。
桓武天皇が、平安京に遷都したことは知っていても、それ以上のことは、知らない人も多いかもしれない。
私も、奈良時代の本を中心に読んできたので、それほど詳しくは知らなかった。
本書は、そんな私にピッタリの内容で、その展開の仕方もしっかりしており、奈良時代から平安時代に移る時期の日本を知りたい層にぜひお勧めしたい。
まず、語られるのが桓武の出自。
平安遷都を成し遂げた天皇だから、さぞ、しっかりした血筋の天皇と思っていたら、とんでもない。
いろんな要因が積み重なって、たまたま天皇になった?
そもそも天武以降、天武系の天皇が続いていて、ここで、天智系に戻ったとされるが、本書では血はつながっていないものの、聖武が認めた子であったことが、即位に重要な役割を果たしたとし、それを桓武自体も、重要視していたと考えられるという。
これは、たぶん、よく研究しないとわからない点だ。
また、平安京に移る前に検討された長岡京の話。
なぜ、長岡京建設途上で、平安京に変更になったのかの推理が面白い。
もちろん、真実はわからないないのだが、長岡京の建設は、藤原種継任せでスタートしたものの、亡くなってしまい、未完のまま10年が過ぎ、継続が難しくなったのではと推理。
そして、和気清麻呂を中心とした体制に立て直し、桓武も前面に出て関与する形で、平安遷都にこぎつけたのではないか。
早良親王の祟り説もあるが、これは主因ではなかったのではと。
桓武にとっての早良親王は、天智にとっての天武的存在であったが、その後の災難の連続が祟りではないかということになり、繰り返し繰り返し鎮魂することとなった。
蝦夷征伐では、坂上田村麻呂が有名だが、最初は、大伴家持からスタート。
当初は、全く成果を上げられず、桓武天皇は激怒。
坂上田村麻呂が率いるようになってから、事態は好転し、当初の目的を達成した。
平安遷都と、蝦夷征伐は、桓武の2大施策で、その二つを成し遂げたことにより、強固な基盤を確立した。
妃が、28人もいたそうで、後継も平城・嵯峨と無事続いた。
仏教については、聖武天皇のように国策の中心に据える扱いではなかったが、これは、南都仏教が政治に関わりすぎたことを嫌ったもので、平安京に、東寺、西寺を作ったことでもわかるように、仏教を嫌っていたわけでなかなった。
特に重要なのは、再開した遣唐使に最澄、空海を送ったこと。
最澄はともかく、空海は、まだ名もない僧侶だったにも関わらず一員に加えたことが、日本のその後の仏教の大きな発展の礎となった。
これは、桓武が意図していたものではなかったが、結果的に大きな仏教発展の基礎となったといえる。
平安京に落ち着いてから、桓武は初めての行幸を行ったが、特に重用なのは、そのルート、日程の掛け方。
難波への滞在、玉津島参拝を見ても、聖武への追慕の旅であったことがわかるという。
昨年、玉津島に行った話をしたが、そこは、万葉集で有名な神社ということであった。
聖武、桓武ゆかりの神社でもあったわけだ。
やや専門的ではあるが、良質の一書だった。