「孫に“おばあちゃん”とは言わせない」
という人に出会った。
前にも、同じような話を聞いた事がある。
案外こういう人が多いのかも知れない。
「何と呼ばせるのか」と聞いたら、「オオママ」だと言う。
全くふざけた話だ。
「スパゲッティではあるまいに、何がオオママだ」
とあきれかえったが、
黙って聞いていた。
同居、別居は別問題としても、
家庭には「おじいちゃん、おばあちゃん」がいて、
「お父さん、お母さん」がいる。
否、いなければならない。
それが自然というものだから。
たとえ精神的なものにせよ、
そうした家庭構造をお年寄りの利己主義で破壊するなど、
言語道断・以ての他である。
大体、
こういう利己主義で子供を育ててきたから、
子供の世代や孫の世代が社会問題を起こすような、
人間に育ってしまったのだ。
「おばあちゃん」と呼んでみる。
その響きは木琴のようだ。
音色が温かく、優しく、美しい。
愛と信頼の大樹だ。
「おばあちゃん」。
という人に出会った。
前にも、同じような話を聞いた事がある。
案外こういう人が多いのかも知れない。
「何と呼ばせるのか」と聞いたら、「オオママ」だと言う。
全くふざけた話だ。
「スパゲッティではあるまいに、何がオオママだ」
とあきれかえったが、
黙って聞いていた。
同居、別居は別問題としても、
家庭には「おじいちゃん、おばあちゃん」がいて、
「お父さん、お母さん」がいる。
否、いなければならない。
それが自然というものだから。
たとえ精神的なものにせよ、
そうした家庭構造をお年寄りの利己主義で破壊するなど、
言語道断・以ての他である。
大体、
こういう利己主義で子供を育ててきたから、
子供の世代や孫の世代が社会問題を起こすような、
人間に育ってしまったのだ。
「おばあちゃん」と呼んでみる。
その響きは木琴のようだ。
音色が温かく、優しく、美しい。
愛と信頼の大樹だ。
「おばあちゃん」。