晩年の森鴎外は
「文体は簡浄に努めなければならない」
と自身に戒めたという。
正岡子規は
「萬葉集は歌集の王なり。
萬葉に貴ぶ所は其簡浄なる処、荘重なる処、
高古なる処、眞面目なる処に在り」と言う。
積むは枯葉降りくるものも枯葉にて簡浄の音立てて相触る 大野誠夫
大野誠夫歌集『水観』に収載されている一首。
岡山県の備中松山城を訪れた時詠んだもの。
今に至るまでの城にまつわる全ての事象を超越し、
そこには、
枯葉が枯葉の上に降り積もるという景を見ている
大野誠夫がいた。そして、
大野自身もまた枯葉の一枚だという思いがある。
書道の世界も茶道や料理の世界も
「簡浄」を最高のものとしている。
神様が使われる白木の箸や素焼きの土器(かわらけ)など、
すべて「簡浄」を形に表わした物のようだ。
「簡浄」は日本古来の精神である。
「文体は簡浄に努めなければならない」
と自身に戒めたという。
正岡子規は
「萬葉集は歌集の王なり。
萬葉に貴ぶ所は其簡浄なる処、荘重なる処、
高古なる処、眞面目なる処に在り」と言う。
積むは枯葉降りくるものも枯葉にて簡浄の音立てて相触る 大野誠夫
大野誠夫歌集『水観』に収載されている一首。
岡山県の備中松山城を訪れた時詠んだもの。
今に至るまでの城にまつわる全ての事象を超越し、
そこには、
枯葉が枯葉の上に降り積もるという景を見ている
大野誠夫がいた。そして、
大野自身もまた枯葉の一枚だという思いがある。
書道の世界も茶道や料理の世界も
「簡浄」を最高のものとしている。
神様が使われる白木の箸や素焼きの土器(かわらけ)など、
すべて「簡浄」を形に表わした物のようだ。
「簡浄」は日本古来の精神である。