kanekoの陸上日記

毎日更新予定の陸上日記です。陸上競技の指導で感じたことやkanekoが考えていることなどをひたすら書きます。

久々に

2016-07-01 | 陸上競技
久々にblog書くのを休みました。基本的に毎日更新が目標なのですが。あれこれやっていて疲労感が残っていたので諦めました。特別な事をやっていたわけではないのですが。練習をやっていないからネタがないという噂もあります(笑)

あるテレビを見ていたら「お金云々を言うなら教員になるな」という発言をしている元教員がいました。すでに75歳くらいの方でした。「子供たちの事を考えたらお金の事を考えたらダメだ」と。なかなか、ですね。部活動は保護者からの期待なども含まれているのだから「やるのが当たり前だ」と。若い教員であれば文句をいわずにやれ、という雰囲気の発言でした。

まーもうすでに若くないので私達には当てはまらないかもしれないですが。これはどうなんでしょうか。部活の顧問を本気でやらなければ17時過ぎには帰宅できる可能性があります。周囲からは「部活は好きでやっているんだから」という評価ですかね。本気で競技をやろうと思えばこちらも大きなエネルギーを使います。本気でやればこれはこれで批判を受ける可能性がある。面倒な話です。が、それをやるのを「当然だ」と言われるのはどうかと思います。

今私は自分がやりたいと思っている部活動の担当をさせてもらっています。好きでやっている。完全なボランティアですが身銭を切って活動することもかなりあります。それさえも「当然」と言われるのかもしれません。私自身はボランティアという言葉に対して位置付けがあります。これは「ある程度の生活が保障されているからできること」だと思っています。

自分自身が衣食住が十分ではない状態。今日の夕食、食べることができるか?風雨をしのいて安心して寝ることができるか。ここに気を配らなければいけない状態であれば「他の人のために何かしよう」という気にはなれないと思います。まずは自分が生きていくことが大切。それが出来ないのに他の人のために生きていけ、というのは横暴だと思います。

物質的に満たされているからだけではなく精神的にも余裕がなければ「誰かのために」というのは不可能だと思います。時間がなく追い詰められている中で「自分のことは全て後回しにして人のためにやりなさい」と他者から言われるのは違うよねっていう気持ちがあります。好きでやっている私は「勝手にやっているんだから」と言われるのは当然かなと思おますが、「仕方なくやる」という人がいることも否定できないと思います。

それを「やるのが当たり前だろう?」と言われるのは違うのではないか。これは前からずっと言っています。競技に関して「素人」の顧問が保護者から「なんできちんと指導してくれないのか」と言われる。それってどうなのか?「職務」として「監督」を命じられている。これは「怪我の内容に」という部分だけなのかもしれない。それなのに「勝ちたいのに指導を受けられない」と否定されるのは違うのではないか。

もちろん、それぞれの立場がある。当然のことです。私の立場は特殊なのかもしれない。が、問題点の一部分だけを切り抜いて「どうなんだ」という。「人格」や「感情」をすべて捨て去ってやっていく必要があるのか。そんななかで「子供たちに何を伝えるのか」という部分だと思っています。私は比較的自由に生きていると思います。それほど拘束されずです。今はやりたいことをやっている。競技を通じて「教育活動」をしています。それって自分の中では「大きな価値がある」と思っています。しかし、私の中の「価値観」であって他者から見れば「どうでもいい」と言われるかもしれない。そこは分かりません。

うーん、上手くまとまりません。ちょっと時間をおいてまた書きます。
コメント
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