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関西中小企業研究所 第93回研究会のご報告

2018-09-22 16:14:44 | 中小企業

「庭宇宙」から見えた未来

「エコライフ」と「人と地球にやさしい企業」がつくる「第4の時代」

 

 2018年9月21日、ティグレ会議室において「庭宇宙」から見える未来と題してアイトワ代表 森 孝之さんに講演していただきました。以下に報告します。

 

講 師      アイトワ  森 孝之さん

 

2時間で、とお聞きしていましたので、今朝も多くのエピソードを盛り込んできました。ところが「90分で終われ」とうかがい、省くところも多々ありますが、始めさせていただきます。

 

 お伝えしたいことは、私の経営体験と「くらし」から見えてきた「エコ社会」です。それを「第4時代」が許容する「社会」と「生き方」と私は見ています。「第4時代」とは、その「エコライフ」と「人と地球にやさしい企業社会」が創りあげる「次の時代」のことです。

こうした社会を創りだす上で、最もふさわしい条件を有する国は日本だ、との想いもお話しさせていただきます。わが国はこの現実化をはからないと、ズルズルと衰退していくことでしょう。

まず自己紹介を兼ねて、NHKが作った5分ほどのビデオがありますのでご覧ください。13年前に放映されたものですが、今もまったく同じ暮らしをしています。

 

・・・「森 孝之さん67歳、父親から受け継いだ1,000坪の土地に47年の歳月をかけて2001,000もの木が茂る森を京都嵯峨野につくりました。森さんは、「エコライフガーデン」と名付けており、30年前から循環型生活を実践されています。ゴミもし尿もすべて森に返す生活です。森の中では、生き物すべてが役割をもっている、と森さんは言います。

森さんの家では、庭で採れた野菜や野草が日々の食卓に上ります。肉や穀物以外のものをほとんど全て自分たちで賄っています。風呂は庭の間伐材で沸かします。

森さんは、かつてビジネスマンとして世界中を飛び回っていました。そのころから、地球は小さいと思うようになり、資源枯渇問題を考えるようになったようです。

森さんは、このエコライフガーデンづくりが地球の将来にとってとても大事なことだと気付くようになりました。自分が育てた森に、豊かさの意味を教えられたと言います。また、人間は生物の頂点ではなくて、その循環の1つに過ぎないことを学び、おかげで、違う豊かさや喜びがあるということに気付いたと語ります。この生活空間に「アイトワ」という愛称を与えました。家族それぞれが独自の知恵と力を発揮しながら助け合い、クリエイティブに生きる時空です。

この生き方にこそ本当の豊かさや喜びがある、と気付きました。創ることが生きる証です」

 

 この放映からすでに13年がたち、現在は80歳です。いつしか「森をつくった森さん」と呼ばれるようになりました。この始まりは、京都嵯峨野の3反(3000平方m)の土地です。

私が3歳のとき1941年に、父は結核と糖尿病にさいなまれ、やがて医者から見放されます。父は農家の生まれでしたので、都市爆撃が激しくなった時に3反の土地を京都嵯峨野に買い求めました。母に慣れない農業を始めさせ、家族を生き延びさせようとしたのです。

8年後、父は奇跡的に回復し、社会復帰。朝鮮戦争が始まり、世の中も豊かになりました。やがて畑は放置されます。こんどは私が結核にさいなまれ、受験にも失敗。19歳の時が人生のどん底でした。就職も結婚もあきらめざるを得ない、と落ち込んだのけです。だが母が戦中戦後にしていたことを思い出し、「自力本願という生き方」に気付かされたのです。朝は、日の出から、夕は日が暮れるまで畑で働いていた母の姿です。そうだ、太陽の恵みをあてにする生き方がある、と気付きました。

 

その内に最も確かな定期預金に気付かされます。それは生ゴミやし尿など、自分たちの生活から出るすべての有機物です。銀行は太陽や雨や土。行員は、樹木や野菜や昆虫など。そして利息は野菜、果物、あるいは間伐材などです。思えば日本は100年ほど前までは、8割の人が農業をしていました。自給自足のごとき生活をしていたんです。その余剰で国が成り立っていました。

翌年、受験に合格。すぐに開墾と植樹に手を付け、やがて鶏も飼い始めました。幸い、就職もかないました。伊藤忠商事です。人事担当の二階堂常務は「多くの人が会社に入り、体を壊す。君は会社に入り、まず体を治しなさい」と諭されました。毎朝始業1時間前に出社、遅刻したことがありません。残業禁止の生活が始まり、住宅金融公庫に融資を申し込みました。週末はすべて畑仕事に割き、、家を建てる整地に取り掛かかった。思えばこれが、生涯最初で最後の借金になりそうです。

翌年、94万円の小さな家が建ちました。2年後に両親はそれまでの家を売却し、別棟を建て、転居。私は門を作りました。太陽の恵みは心身を豊かにするようです。

 

4年後のある日、分掌役員室から「森君いる」と電話がありました。持論を聴いてもらえたのです。それは、先進工業国の歴史に学んだ構想です。それまでの安い人件費を活かす輸出立国時代から、豊かになる国民をより幸せな消費者にする時代への即応です。藤田分掌役員は即座にこの構想の本質を見抜き、私は感激。翌春、繊維部門は組織を大改革。繊維部門は製品化に取り組み始めました。

私が入った年は繊維部門の取り扱い比率は50%を超えていました。日本の繊維産業は3割産業と言われていた時代です。就業人口の3割が繊維産業だし、工業出荷額の3割が繊維産業。貿易額の3割を繊維が占めていました。その比率が毎年下がる構造的不況に入っていたのです。

 

ことはそううまくは運ばない。取扱商品を原料から二次製品に転換するにはソフトウエアーが不足していたのです。さらに4年後、躍起に働く私は、270人の同期生で最初に課長にしてもらえました。しかも、伊藤忠ファッションシステムという子会社を作らせてもらえたのです。

当時、欧米には男性はスーツ、女性はドレスかスーツというドレスルールがありました。この服飾の不文律が大きく変わる、と私は見たのです。ですから、繊研新聞から「男児の常着」を企画する上で留意すべき点を求められ、持論を展開しています。色や柄など目に見える問題ではなく、「第4時代」が許容するマーケッティングが求められる、と訴えたのです。これは、世界を見据える仕事と、週末の野良仕事の間を行き来している間に見えてきた未来への即応のススメです。

 

もちろん私は伊藤忠が世界に先駆けて「第4時代」を切り拓く会社になってほしかった。しかしその意がうまく伝わらず、やがて妻にも相談せずに退社しました。元は部下だった妻は、よく似た考え方の持ち主でしたから、驚きませんでした。しかし、母は「どうして」と悲しみました。

妻は家庭を、自分の思い通りにできる創造の場と考えていました。デザイナーから専業主婦となり、私の両親の世話はもとより、掃除や料理をはじめ、すべてに手の温もりと創意工夫を尊ぶ生活空間を築き始めていたのです。便利とか快適などを求める世の中の風潮に疑問を感じていたわけです。

たとえば、生ごみは堆肥の山で処理し、種のついた野草は燃やし、灰にして肥料にする。ドクダミの根や貝殻などは専用の穴に捨て、一杯になれば埋め、排水性が良くて有機物に富んだ土にして樹木の根を喜ばせる、といった具合の生活です。そのうちに、小鳥が居宅のそばに巣をつくる。イタチやヘビなど外敵に狙われにくいのです。ハチはヒトが敵意を示さない限り襲って来ません。向こうは命がけですから。妻は、弱った小鳥を助けることが出来るようになりました。

 

やがて私は、目に見えるモノより、目には見えないもっと大切なモノがある、と気付かされます。たとえば、ミミズよりも、有機物を無機物に変える目には見えないバクテリアなどです。

植物は、その無機物を根から吸収し、太陽の恵みを得て炭酸同化作用により有機物を産みだします。動物はこの有機物を食べて命をつないでおり植物なしには生きてゆけません。植物は有機物の生産者であり、バクテリアは有機物を無機物に戻す還元者です。バクテリアはもとより植物も、動物がいなくても生きていけるでしょう。動物はその間に居候する消費者に過ぎない、と気付かされました。この3者の循環が、「生きとし生けるもの」が織りなす生態系の根本であり、水が不可欠のシステムです。30億年前に地球上に現れた1個のバクテリアから始まっています。

 

雨は、短時間に降ると困りますが、1~2日かけて300mml降ったと仮定しますと1坪に1tの水が注がれたことになります。わが家の庭は1000坪ですから1000tです。これを水道水でまかなおうと思うと大変です。だからわが家では、上手にこの水を活かす工夫もしています。舗装は最小限にとどめ、雨を土に浸み込ませ、それを上手に活かすシステムも作っています。

日常生活は水道水を使っていますが、水洗便所の汚水はタンクにためて肥料にします。台所や風呂場など化学物質を使った排水は下水道に流し去ります。

 

水は、常温常圧で固体にも液体にも気体にもなる地球上で唯一の物質です。零度の氷は1gr当たり80calの熱を与えると、零度の水になります。1ccの水に540Calの熱を加えると水蒸気になります。逆に、雲が雨になるときはこの540Kcalの熱を放出し、水が霜柱などの氷になるときは80calの熱を放出します。中学の時に学んだ「潜熱」と呼ぶ熱の移動の実感です。

樹木は気温が28度ぐらいになると根から盛んに水を吸い上げ、葉から水蒸気として放出します。蒸散作用と呼ぶ作用で、木が体温を正常に保つための作用です。太い落葉樹なら、真夏だと日に1tもの蒸散作用をします。1gr当たり540Kcalの気化熱を奪う勘定です。植物でガレージを覆えば、真夏でも車を28度程度に保てます。樹木は28度ぐらいの体温を保ちたいのでしょう。

逆に、氷が張ったり、霜柱が立ったりするときは、1gr当たり80calの熱を放出し、あたりを温めるわけです。この「潜熱」の作用が失った砂漠は、昼間は灼熱、夜はとても寒くなります。

わが家では、太陽の恵みがある間は、天井窓を工夫し、明かりとして活用します。太陽光温水器も活かしています。いずれもが、太陽の恵みが派生させる恩恵です。

 

「アイトワ」は、この太陽の恵みがもたらす水の循環と、先に触れた生態系の循環をうまく活かしている生活空間です。「第4時代」はこうした太陽の恵みを存分に生かす社会になる、と見ています。先にも触れたように、伊藤忠を活かして社会を転換させたかったのですが、説得できず、退社して「第4時代」が許容する生活のモデルづくりを急ぐことにしました。目に見えるモデルを完成させ、伊藤忠と組んで、日本を「第4時代」に誘いたかったからです。

また話しは先走りますが、「アイトワ」というモデルは造れましたが、残念ながら目星をつけていた友人が、専務で倒れてしまい、これはかなわぬ夢、と断念しました。

 

実は、伊藤忠では辞表をやすやすと受理してもらえず、8カ月も説得の日が続き、やっと11月末に依願退社を認められました。半端な時期でしたが、とてもよい関係だったデサントの織田常務に、同社の実質上の意思決定者に即刻声をかけてもらえました。次に、取引関係がまったくなかった会社の社長にヒョッコリ訪ねてもらえました。高給で知られる会社の社長は、国際化だけでなく、年商と経常利益を倍増し、世のジンクスを破りたい、と夢を語られた。

私はこの夢に乗りました。ただし、伊藤忠での所得を上限にしてもらう条件です。なぜなら、辞める前に「できていた話」との誤解を与えかねない再就職は避けたかったからです。

また先走りますが、7年後に社長と私の優良企業観が大きく異なっていたことが分かります。社長は3千億円計画という現状の延長線上にある拡大に見出しており、私はファッションビジネスの決め手と見る企業体質の転換に夢を抱いていたのです。1年後に、「また森サンだけが反対か」と3度目のつぶやきを、役員会の席で社長が漏らされた日に、私は部下に辞表を作ってもらい、出しました。1986年暮れのことです。この時も、妻は驚きませんでしたが、母は落ち込みました。

 

即刻、執筆に手を付け、想いを文字に書き留めることにしました。2年後の夏、やっと『ビブギオール・カラ― ポスト消費社会の旗手たち』という処女作を世に送り出せました。「第4時代」を創出して移行し、尊敬される国になろう。日本は最も有利な立場にある、との呼びかけです。「第4時代」に移行すると、「工業時代(第3時代)」が生み出したホワイトカラーやブルーカラーは不要になる、と見ていました。だから、次代の旗手・ビブギオール・カラ―を目指そうとの勤労者への警告でもあったのです。まず社長に贈り、私が考える優良企業のありようと、そうした企業に展観することが求められている時代だということをキチンと理解してもらいたかったのです。

 

伊藤忠時代にアメリカで、公民権運動や女性解放運動などを目の当たりにしていました。1960年代後半に、欧米の若者が繰り広げるドレスルールを破壊する動きを、私はまぶしげに見たものです。ジーンズがそれら運動のシンボルになった訳も見抜いていました。だから伊藤忠ではジーンズの普及を強力に推し進めました。だがその後、需要が落ち込み、一過性の流行であったかのごとき意見が流布し始めたことがあります。その時はすかさず、私はジーンズを、かつては「ソフトな時代に誕生した最もハードな衣服」であったが、今や「ハードな時代の最もソフトな衣服」として選ばれている、と応援歌を送っています。その見方は、ベルリンの壁が崩壊した時の光景が示したように、狂いはなかったようです。ドレスルールの崩壊は、人々の意識の転換がもたらせるのです。

 

だが、処女作を500冊も献本をしましたが、見向きもされませんでした。その2年前まで、住友銀行の頭取も出迎える立場を与えられており、それ相当の人たちに送りました。バブル現象に酔い始めた人たちは、この本には「何をどうやったら儲かるのか」肝心のことが書いてない、とブーイングを発する程度だったのです。これが、次著『人と地球に優しい企業』を構想させました。2年後にモノにして、まず社長に贈りました。これは、私が願う優良企業の姿の念押しです。人と地球に優しいということは「自分たちには厳しい」。その「厳しさ」が従業員の誇りになり、経営者には自信となる。それを社会における存在意義にしよう、との訴えです。

バブルがはじける前年でしたが、「チューリプ事件」の例を引いて、バブルの崩壊を明快に暗示しました。だが、業界人の反応は、「きれいごとで」あるいは「環境で」飯が食えるか、程度でした。

 

 「第4時代」とは何か? その前の第3時代は工業時代です。200年ほど前にイギリスで生じた産業革命が誘った時代です。さらにその前に、農業革命が誘った農業時代があり、さらにその前に原始時代があったわけです。だから「第4時代」と名付けました。その目で振り返れば、わが国は、太平洋戦争を、農業時代の体制のまま、工業体制が仕上がった国々に挑んでいたことになります。

ゼロ戦さえ一機一機、設計図に従って、ハンマーやヤスリを活かして造っていました。アメリカは、皆さんが今「座っておられる椅子や机と同様に」互換性部品を流れ作業で組み立てる戦闘機で立ち向かってきたのです。両者が格闘し、互いに全機満身創痍で帰還したとする。わが軍は全機がまるで傷痍軍人です。他方彼らは、バラバラにして組み立て直せば、すぐさま新品のごとき戦闘機を再生できるのです。わが国は、物量にではなく、システムに負けたのです。精神論では補えません。

余談ですが、いま日本では「働き方改革」が叫ばれていますが、これは戦前のごとき失敗の二の舞の強行です。「生き方改革」が求められている時代です。

 

「アイトワ」は生態系の循環と水の循環をうまく活かす生活空間ですが、私は「エコライフガーデン」と呼んでいます。こうした庭で生活していると、この時空が生み出す真の金利は、果物や燃料ではなく、目には見えないもっと大切なものだと気付かされます。「生きる自信」、「誇り」、あるいは「志」などのことで、その本質は自然の摂理です。この気付きのおかげで、ひとりでに先進的な企業や人が目にとまるようになり、私の考え方を変え、地球人としての意識を目覚めさせました。

 

後年、エチオピアで「マーサー」と名付けられた1ッ体の原始人の化石に出くわしました。これが地球人としての認識のとどめです。女性だけが引き継ぐミトコンドリアを調べた結果、現生人類の女性はすべてマーサーのミトコンドリアを引き継いでいる、というのです。つまり、5万年ほど前にアフリカを出て、今や世界中に散らばっている現生人類は、すべて一人の女性を先祖としていたようです。白人や黒人、あるいは人種や性別などでとやかくいうことはつまらないことです。

 

私は、若い頃は特攻隊員に憧れ、35歳ごろまでは庭に高々と日の丸をかかげ、へんぽんと翻していたのですが、意識が大きく変わりました。その意識はおのずと、工業社会は「採って、作って、使って、捨てる」というやり方を直線的に繰り返していることを私に気付かせました。諸悪の根源の発見です。この、いわば「願望の未来」を追求する意識を卒業し、「必然の未来」を見定め、切り拓かなくてはならない、との覚醒です。未来世代に引き継ぐべき良き地球(乗っている船の)環境が、私たちにとっても望ましい環境だと理解できただけでなく、得心できたわけです。

 

文明史的に産業革命を見直し、化石資源を機械で取り出す革命であった、と気付いたのです。アルビントフラーは『第3の波』で、産業革命に次ぐ革命を説きましたが、私は「第4時代」の本質を明らかにして、その創出と移行に傾注したかったのです。農業時代は木材資源を多用して枯渇させ衰退しました。私たちは化石資源を枯渇させている。考えてみれば、いずれも、太陽の恵みを植物が固定した炭素の、いわば缶詰です。それをジャンジャン掘り出して使うということは、ご先祖さまが貯め込んだ蔵を開き、金銀財宝をとり出して遊びほうけ、好況だと喜んでいるようなものでしょう。太陽の恵みそのものを上手に使えば永続的に使えるし、地球環境を壊すことはないんです。

 

 この発想は、伊藤忠時代の活動から得た賜物です。ファッションは時代を映しだす鏡だ、との気づきがその起点であり、ファッションの定点観測が『ビブキオール・カラ―』を発想させました。鏡は今「時代の大転換」と「単色のホワイトカラーやブルーカラーに取って代わり、多彩な人ビブギオールカラー(虹の7色の頭文字)が台頭する社会」を映し出している、と読みとれたのです。この思いが地球人としての認識を深めさせ、生態系への復帰を目指すように促し、創造や還元を基調とする「第4時代」創出の必要に気付かせたわけです。

 人類は農業社会に移行してから、奴隷を産み出すなど格差社会にしました。次の工業社会は、その奴隷を解放しましたが、それは24時間働く機械が不要にさせた訳です。しかし、当の奴隷も解放された、と理解していたのです。問題は、工業化社会が生み出した勤労者です。ハンダ付け、塗装などといった職種別に細分化したブルーカラーや、経理や企画といったホワイトカラーのことです。スペシャリストと呼ぶこうした勤労者の身が危ない、と見たのです。早晩工業社会は破綻し、こうしたスペシャリストも不要になる。問題は、それを解放と見て喜べないでしょう、ということです。

 

会社から「首だ」といわれたときに、かつての奴隷のごとく解放された、と喜べる人、全人的な人間・ビブギオール・カラーになっておこう、と呼びかけたわけです。なぜなら、私は逆に、「首だ、といわれたら路頭に迷いかねない人」を作れば作るほど儲かる時代だと気づき、それまで成果を収めていたのです。つまり、自己責任能力や自己完結能力を不要にするモノやサービスを打ち出せば儲かったのです。この秘訣も処女作ではキチンと詳述しましたが、それが諸悪の根源だったのです。

例えていえば、昔は母に「味噌汁が辛いよ」というと、母は「ゴメン、ワカメの塩抜きが不十分だった」と詫び、改善を約しました。今は、「日清はあかんね、あしたから明星にしょう」といえば済むようになっています。すべて他人任せで、自己責任能力や自己完結能力は不要です。

問題は、こうした社会をあてにして仕組まれた巨大な組織は、特例を除き、早晩ダメになると見たことです。だから当時、「ダイエーも潰れますよ」と言って、笑われました。しかし、現実は、八幡と富士の合併を見るまでもありません。当時の両者の合算数字より、粗鋼生産も、人員も、売上高も落ちているのではありませんか。1つの会社を潰す過程です。銀行や商社もしかりでしょう。

 

工業社会は死に体です。それは工業社会の本質を見抜けば気付かされます。企業はさまざまな構想、システム、意図、あるいは仕掛けなど駆使していますが、それらはすべての「人」を消費者と総称できる「ヒト」にする罠を作っていたようなものです。「お金さえあれば」という拝金思想にすべての人を陥れ、働く時間は「お金の奴隷」に、自由時間は「消費の奴隷」にしてしまう罠ではありませんか。この悪循環をファッションは加速し、諸悪の根源にしていたのです。自然汚染や破壊、資源枯渇、人口爆発、健康障害、あるいは労働観の低下などの諸悪です。挙句の果ては格差の拡大です。当時の社長は、一般社員の20倍ぐらいの所得、課長などは2倍ぐらいでした。今は、従業員の給料はどんどん減っており、経営者は5億円、10億円と取り始め、企業は内部留保もたっぷりです。

だが、これらはすべて予測できたことです。まだ、1億総中流の意識が残っていた頃の提唱ですが、「第4時代」を目指し、罠にはまらないように、と訴えたのです。資源小国の日本ですが、「第4時代」を切り拓くうえで有利な条件に恵まれているのです。江戸時代のシステムがその1つで、産業革命が始まっていたイギリスに次いで、農業体制でありながら世界第2の経済成長もしていたんです。難しいことを言っているようにお感じでしょうが、決してそうではありません。

 

ある池に、川に、あるいは地球に、魚がX匹いたとします。その中からA匹の魚を捕れば、残りはX-Aになります。私達はこのAを経済的資産と考えて大事にしますが、捕ったあとのX-Aへの配慮を欠いています。このX-Aは環境的資産であって、最も大切にすべきものなのです。

6歳のときに私は、疎開先の伯母に山菜取りに連れて行ってもらいました。「孝之、タラの芽は二度目の芽まで採ってよいが、三度目に出た芽はとったらあかん。木が枯れて、来年採れない。ゼンマイは、三本は株に残しておくのよ。来年も採れるように」と教えられました。食糧事情が悪くて、飢死者が出ていた時代なのに、村では皆がこの文化(不文律)を守っていました。私は人間を信じ、村人を大好きになりました。村を愛するようになっています。このように意識を転換することができれば、自ずと「第4時代」に誘われることでしょう。

 

だが、工業化が進むに従って、人々は逆に、さまざまな植物を共通項でくくるようになりました。「燃料になる」とか「建材になる」。あるいは酸素を作っている、など。だが、そのためには「水をやらなあかん」とか、肥料もいる、などと身勝手になり、ぞんざいに扱い始めます。そうこうしているうちに、それぞれの特色を無視し、まるで松の盆栽のように画一化してきました。これではダメだ、と思います。逆に、それぞれの個性を生かし、それぞれがもって生まれた潜在能力としての個性を見出し、伸ばす必要があります。これが本当の豊かさや幸せを産みださせる根本です。

 

妻は、畑で採れるもので料理を工夫します。その一例は「ねばねば四君子」です。納豆に、オクラ、ハナオクラ、そして湯通ししたモロヘイヤの特色を組み合わせ、夏バテを防ぐ一品です。こうした工夫が刺激したのか、妻は創作活動がより好きななり、今では「創作人形作家」と呼ばれるようになっています。ご近所のご隠居さんの要請から始まった人形教室は45年も続いています。

創作テーマに、少数民族の、女性で、しかも働く人を選んだのです。そして、もし「私がその立場に生れていたら、こんな服を着たい」という想いで生み出す調和と独創の融合がスタートでした。アフガニスタンが2大強国に翻弄され始めた時は『いつか鳥のように』という少女のシリーズに取り組み、『創ることは生きる証』という副題をつけたエッセーを産み出しました。まるで1960年代に台頭した欧米の若者が意識を改め、始めた運動のごとし、と私の目には映りました。

 

 妻が人形作家と呼ばれ始めた頃に、私は自分が「借り物の顔」しか持っていないことに気付き、悲しくなりました。独自の顔と肩書きの一致の大切さに気付かされたわけです。「ついこの間まで、魚屋さんとか、畳屋さんの奥さんなどと呼び合っていたのに」と思ったのです。そのおかげでしょうか、初めて一般紙の取材を受けたのは38歳の時で、日本経済新聞でしたが、「自己流に徹する~仕事でも野菜作りでも~」との見出しでした。正月3日(月)の記事です。通勤電車でこの記事を読んでいる人に出くわし、「それは私です」と叫びたくなっています。新聞も自己完結や自己責任の大切さや、個性の発露を応援し始めたようだ、と勇気を与えられたものです。

 

 再就職した時のエピソードに触れます。「森さん、何してんの? 助けてよ」と白いベンツに奥さんを乗せて、一緒にわが家を訪ねて下さった。「年商500億円強、経常利益98億円になったが、これ以上大きくなるとデンボと一緒でつぶれる」とのジンクスがある。何とかこれらを倍増し、国際的企業にして見せ、ジンクスを破りたい、「手伝って」との夢を聞かせてもらった。

 この夢は、7年間頑張っているうちに果たせました。それは、信用という形のないものを形にするために「潜熱」のごとき努力を傾け、総力を結集させたいと願ったおかげ、と思います。社長室長として何をどう考え、どう励んだのかは『ブランドを創る』という一著に克明に記しています。

ファッションはしょせん文明の落とし子です。社長は「水商売やからね」とおっしゃっていた。それだけに良識ある企業としてのブランドを育てたい。だから、高級品というと高級な人達が作ったような錯覚を与えますから、私は高額品と認識することから始めています。

 

まず、望ましき社員のモデルになりたい、と思いました。1日かかさず1時間前に出社し、持てるノウハウやソフトウェアーのすべてを投入し始めました。社長にも努力していただきたい。そこで、それまでは高額所得番付に喜んで載っていましたが、恥ずかしいこと、と指摘し、翌年から辞退してもらいました。社長の社用車はベンツでしたが、国産車にしてもらいました。こうしたことを即座に受け入れられてもらえるセンスに触れ、目の前がとても明るくなりました。次に、新卒のアメリカ人を採用しました。これには今とは違い、とても苦労しました。役人が断れない作文でないといけないのです。なんとか採用できたアメリカ人新卒女性を、社長の家に下宿してもらい、社長夫人の世話の下で通勤です。企業体質の転換は、個人の意識の転換から始めないといけません。

 

商売のモデル作りを、と願っていたら、新子会社の社長という貧乏くじが回ってきました。というのは、「専門店と夫婦関係」を標榜し、急成長していた会社なのに、百貨店にも市場を広げることになり、「商社出の悪が、子会社を」と言い訳したかったのでしょう。とはいえ、本体では数社の海外子会社まで作り、その管理もするわけですから社長室長の仕事が忙しい。子会社・ノーブルグーの社長には5%ほどしか時間を割けません。そこで、新しい価値観や美意識を備えることに集中し、現実化し、モデルになろう、と願ったのです。たとえば、モノを売っているのではない。巧みに組み合わせができる良い製品だが、これは当たり前のことだ。大事なことは、どのような幸せや喜びに貢献できるのか、に留意してほしい、と訴えました。翌年は、人はより望ましき人生を願うものだ、いかにあればその夢がかなうのか、語り合える人になって欲しい、などと前進させたわけです。

 

販売に携わる女性は複数の立場でした。買取り条件の百貨店はそこの正社員。売仕という条件の売り場は子会社の正社員。だが、需要の急拡大にそくし、姉妹会社の社員や人材派遣会社の社員も活かした。しかし、研修などでは同列に扱い、地球人としての体現者のごとく皆さんに協力し合うことを求め、応じてもらえました。おかげで5年間増収増益の50億円企業で去ることができました。

 

本体では、中国を視野に入れ、HKは既存の会社と合弁。韓国ではライセンス契約を結び、1つのブランドの展開を許諾するなど。こうしたやり方もココロを1つにしたのでしょうか、入社7年目に、売上や経常利益が2倍以上の無借金経営になり、婦人衣料界では経常利益率で業界1になりました。ある銀行の頭取に3000億円ぐらいは借り入れができる、と言われました。だが、悔しいことが残っていました。わが国は、経済力では世界一になりながら、ファッション衣料は世界一になれていなかったのです。ファッション衣料の難しいところは、憧れや、尊敬したくなる意識を抱いてもらえた国や企業などでないと、心から受け入れてもらえないのです。さもなければ、良いものを「これは安い」と思ってもらう相対的競争にさえ走りかねず、この追求は業界の破壊行為です。

ここらあたりで社長と私の間で、優良企業の見据え方が異なることが露わになったわけです。

 

まだバブルという言葉は流布していませんでしたが、「オカシイ・怪しい」と思う異常が生じていました。社長が、「また森さんだけが反対か」と嘆かれたのをキッカケにして辞しました。役員としての席や報酬よりも、信じるところを文字にして社長に届けたり、「第4時代」の個人的モデル作りに励んだりしたかったのです。まず、人形作家の妻と大勢の生徒さんがのびやかに創作に打ち込める工房などを作り、公共スペースとして解放しました。もちろんアイトワの理念にふさわしいシンボルマークを妻と一緒に考えました。森という姓ですから3本の木のシルエットと、そこに木の花、実、そして葉の3態を盛り込み、四季と循環を表しました。ベースの色に「いつも新鮮である」という意味を持つエバーグリーンを選びました。「アイトワ」には3つの意味を込めています。「第4時代」は愛の定義を、工業時代とは大きく変えることしょう。そこで、「愛とは?」が第一義。その愛の「環」が「永遠」に、と願い、「愛と環」を第二義、「愛永遠」を第三義にしました。

 

1986年4月。日本で最初の禁煙ビストロが誕生です。ソーラー発電器も発売を待ち、導入。これが民間家屋が有償で設置した第1号になりました。これらは理念を見定めておいたおかげで、実現できました。屋根には、薪ストーブ用の煙突もあります。私が間伐材で薪を用意する。妻が焚き、その余熱が煙突を通して上階の私の書斎を暖める煙突です。工業文明は「ヒトの分断」を進め、貧富格差を広げますが、「第4時代」は、相互扶助関係を必定にするに違いありません。

「アイトワ」では食の面でもさまざまな工夫をしています。わが国では農場で生産された野菜の内、消費者の口には4割程度しか入っていません。出荷、流通、消費者の使い残し、そして食べ残し、と無駄が多いのです。そこで、「アイトワ」ではブロッコリーを数カ月収穫し続ける採り方や、魚は1匹買いして有効利用し、残りは肥料に還元し、肥料に活かすなど、努力しています。

 

8著目の『次の生き方』を著したころは、先進工業国の人口は地球人口の5分の1でした。この2割の人々が、地球が毎年産出する地下資源の8割と、食料の5割を消費し、炭酸ガスの6割を排出していました。そして、13億人の中国や10億人のインドが、工業国を目指し始めていました。今日ではその工業化が相当進みましたが、飢餓問題、紛争、あるいは難民問題が多発して当然です。

皆さんはエコロジカル・フットプリントという言葉をご存知ですか? それぞれの生活を維持するために必要とされる土地の面積、をイメージしてください。今の平均的アメリカ人の生活を、世界中の人々が享受するには地球が5つ必要になる計算です。平均的日本人なみなら2.7個です。

アース・オーバーシュートデーという言葉をご存知ですか? 地球の植物が1年間に算出する有機物を、動物が食い尽くす日のことですが、去年は8月2日でした。定期預金で活きている人に例えれば、83日以降は元本に手を出していたことになります。この日が、次第に早まっており、今年は81日でした。このような事態も、分かり切っていたことです。

 

こうした現実に備え、私は問題を生じさせず、有意義な生き方を編み出そうとして来たわけです。いわばエコロジカルなユートピア作りですが、その気にさえなれば誰にでも手に入れ得る生き方です。だから『エコトピアだより』という一著にまとめ、公表しました。この本の最終章は、日本に帰化したビル・トッテンさんの寄稿です。ある新聞記事をキッカケにして親友になった人です。

28歳のときに日本でコンピューター・ソフトウェア会社を立ち上げ、従業員700人の社長の時に知り合いました。自宅のテニスコートを潰し、畑にした人で、私と似た哲学の持ち主、と見て即刻私から近づきました。アメリカの優秀大学で経済学博士号を取った人で、今は1000人の会社の会長です。その人が、有難いことに「これしかない」と見据えて取り組み始めた生き方と、その体現者との出会いのごとくになったわけで、意気統合。理論と実践の融合になったわけです。

 

フランスの食糧自給率は100%をかるく越えています。ドイツは90%超。イギリはス70%近くです。かつてフランスのドゴール大統領は、国家の資格は食糧を自給できること、と叫びました。ガロという議員の発案で、フランスは2016年に、食料廃棄禁止法を制定しています。

ドイツやNZでは、マグロの缶詰は、イルカの保護を保証しないと消費者に買ってもらえない。アメリカでは、民度が高い地域ではこの保証書を付けた缶詰でないと買ってもらえません。この保証書を国際的統一規格にしょうとした時に、日本は反対し、世界の顰蹙を買いました。今は原子力兵器を失くそうとする条約にサインができず、「唯一の被爆国なのに」と失笑を買っています。

 

女子短大でのエピソードも加えさせてください。教育界でのマネージメントなど体験さえないのに、学長候補としてデザイン美術科の教授で招かれ、1年ごとの契約で臨んだ経験です。これには裏があったのです。私は商社では製品化を進めました。それまでは紡績など生地メーカーの販売担当のごとき立場でした。だが、アパレル企業を育成する身になり、紡績などの位置づけを軽んじたようなことになりました。そのころに、紡績は束になって、独自の生き残り策を講じており、その最右翼の策が短大の創設でした。勤労しながら学べば3年間で国家資格を得られる短期大学を構想し、優秀な女子高校生を惹きつける手段にした。この努力も、発展途上国の追い上げに抗しきれず、10数年で「学生を送り込めなくなる」との未来が見えるに至りました。「さあ大変」。短大は学生募集が不要のような体質だったし、大勢の卒業生にとっては最終学歴校がなくなってしまう。

 

普通の2年制短期大学として生き残る大改革が求められた訳です。ここで紡績の要人に「あいつなら」と私は思い出してもらえたのです。また話は先走りますが、10年で私は辞しました。しかし、定員割れしていた学校が、全学科定員オーバーになっていたのです。その決め手も自然の摂理に基づく運営であったと思います。その意識のおかげで学生と教職員によき協力を得られたのです。

環境と社会貢献を切り口にました。また、それまでは「女工さんの学校」と自己卑下していましたが、私は逆に社会人として認められた人たちの学校と見て尊重しました。学生は「弟は4年制大学に行かせたい」とか「親にはこれ以上の負担をかけたくない」といった心優しい人たちでした。事実、30年近い歴史がありながら、建物は傷んでいないし、トイレはしゃがみ込み式でしたが、きれいに保たれていた。さまざまな助言が功を奏し、さまざまな改革を円滑に運ばせました。

 

たとえばトイレ。理事会は「近ごろのことだ。ボツボツ、ウォシュレットを」と言いだしましたが、私は反対。全学生を一堂に集めてもらい、相談しました。学校のお金は学生のお金、と認識している。そのお金が入学者減で激減しており、有効な分配策を考えないといけない。教職員の給与は上げない。教育経費は減らさない。こうして詰めて行き、掃除のために外部に支払っている経費や大学祭の経費などをクローズアップしたのです。教室の掃除は教員と学生が受け持とう。「なんとしても卒業してヨカッタ、と思ってもらえる学校にしたい」だから君たちがまず見本を示してほしい。

トイレは、ウォシュレット案も明かした上で、先輩から受け継いだトイレを自分たちで掃除をしながら用いよう、と提案。ブーイングが聞こえましたが、学生は見事でした。トイレ掃除を運動とする団体を一度受け入れましたが、「この学校は出る幕がない」との評価でした。

 

もちろん保護(会があった)の主だった人たちにも相談し、実施しています。「お嬢さん方も、いずれはご家庭をもつ」。教育の一環のごとく位置づけて「トイレ掃除にも当たっていただこうと思う」、と。中には、家庭で教えておくべきことだった、と積極的賛意の声もいただいた。気を強くして、全学清掃日も定め、午後は近隣一帯のゴミ拾いもした。近隣の温かい目に触れ、学生はその範囲を勝手に広げました。3年度目には、段取りが良くなって、学生は教務課と組んで、全学綱引き大会を挟み込み、まるで運動会のように賑わいました。

 

大学祭は、すべて学生主体で、教職員が助成する運営に切り替えた。私は隣にあった幼稚園を訪れ、共催する段取りをつけました。学科の1つが幼児教育であったからです。見学者が一変です。大勢の園児の両親や祖父母を迎え、逆に、くわえタバコの若い男など来なくなりました。私は「親にも恋人にもいえない仕事に就けば、高給がとれそうだが、気をつけなさい」とも叫びました。

 

要は、学長就任時の「一隅を照らす人になろう」に始まる呼びかけを11つ現実化したわけです。歯科衛生科や音楽科もあったので、学科の壁を取り払い、他学科の講義の聴講を自由化し、全人的な人間「小さな巨人になろう」と呼びかけました。ビブキオール・カラ―を頭に描いていたわけです。学長就任2年目で全学としての定員を超え、3年目には全学科の定員を超えたわけです。学長定年はありませんでしたが、人格面や学識面で尊敬する先輩に倣い、65歳で引きました。

 

短大での任務も含め、常に「未来がほほ笑みかけてくるに違いない」と信じる運営の仕方を心掛けました。それがよかったのだと思います。個人としては;「古人の知恵」と「近代科学の成果物」を組み合わせる「生き方」で、バイオロジカル・エコロジーと呼んでいますが、この体験や経験が心底から自然の摂理の大切さを気付かせたわけです。要は、規制に追い詰められ、強制される前に、個人に出来ることは進んで取り組んだのがヨカッタわけでしょう。短大では「学長は本気や」とささやかれはじめましたが、それがフォロ-の風になりました。

 

このやり方を支持する人が飛躍的に社会で増えつつあるように思います。小さな企業は、そうした人たちの増加率と歩調あわせて伸び得るのではないでしょうか。たとえば、A社の廃棄物をB社が原料にする。B社の廃棄物がC社の原料になる。もちろん単純に行きませんが、業界全体で循環させるシステムを早晩構築しなければならなくなります。江戸時代はみんなやっていたことです。今度は近代科学の成果物を活かしてやればよいのです。これをインダストリアル・エコロジーと呼んでいます。この二つ、バイオロジカル・エコロジーとインダストリアル・エコロジーを合体させ、個人のゆとり時間を編み出し、各人が持って生まれた潜在能力の発露を可能にする社会を構築するのです。

私は「第4時代」の夢を見続けて来ましたが、次第に確かな手ごたえを感じ始めています。

 

わが国は資源小国だし自然災害の危険性の高い国です。だが、勤勉さと誠実さが定評の人材に恵まれた国です。豊かできれいな水だけでなく、太陽の恵み、地熱、風力、あるいは海洋エネルギーなど天の恵みにも恵まれています。率先して「第4時代」を創出し、移行して見せ、世界をけん引するべきです。少なくとも、この生き方は、本気でやれば個人を清豊に導きます。また、率先して組織の運営に提要すれば、未来がほほ笑みかけてくるような結果に結び付けるに違いありません。

その一環として、自衛隊も、隊員と予算を活かし、世界の「自然災害救援隊」に改組してはどうでしょうか。世界のどこであれ自然災害が起れば、どこよりも早く何処なりと駆けつける救援隊です。軍隊は、世界一強くなれても不意打ちなどを怖れざるを得ないのです。この改組の方がよほど優れた安全保障でしょう。9条を有している国です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


関西中小企業研究所 第93回研究会

2018-09-21 11:48:43 | 中小企業

関西中小企業研究所 第93回研究会

「庭宇宙」から見えた未来

~「エコライフ」と「人と地球にやさしい企業」がつくる「第4の時代」~

 

「庭宇宙」アイトワは、京都嵯峨野の常寂光寺の横にあります。広い庭には200種類、

1000本以上の木が育てられ、鳥や小動物、昆虫たちが息づいています。
中に人気の喫茶アイトワがあります。

森孝之さんは、ここで半世紀以上にわたって自然と共生する循環型生活を送ってきました。
伊藤忠商事等に勤め、アパレル分野で経営手腕を振るうかたわら、人形工房とカフェを
併設したエコライフガーデンをつくり、企業社会のあり方についてアメリカの先進例や
日本の古人に学びながら、深く思索をめぐらせてきたのです。

数多くの著作では、消費社会の行き詰まりを予測し、新しいくらしと新しい経営の両面
からエコ社会を求める理想を展開されています。
多くの皆様のご参加をお待ちしいたします。

日 時 2018年9月21日(金)午後6時~8時

場 所 ティグレ大阪会議室
    〒540-0012
    大阪市中央区谷町2-6-4谷町ビル8F
    TEL.06-6966-1866

テーマ 『「庭宇宙」から見えた未来
    ~「エコライフ」と「人と地球にやさしい企業」がつくる「第4の時代」』

講 師 アイトワ 森 孝之さん

森 孝之(もり たかゆき)さんプロフィール ●1938年兵庫県酉宮市生まれ。44年京都に疎開、以後定住。●62年京都工芸繊維大学卒。同年伊藤忠商事㈱入社、繊維開発室配属。●71年伊藤忠ファッションシステム㈱設立・出向。78年企画開発部長で同社依願退職。●79年㈱ワールド入社、社長室室長。●87年㈱アイトワ設立。企業顧問、講演、執筆活動開始。●92年大垣女子短期大学デザイン美術科教授。2000年同大学学長。03年同大学名誉教授。●著書に『ビブギオール・カラー―ポスト消費社会の旗手たち』(朝日新聞社)、『人と地球に優しい企業』 (講談社)、『このままでいいんですか―もうひとつの生き方を求めて』(平凡社)、『「想い」を売る会社―こんなモノづくりが消費者を動かす』(日本経済新聞社)、『京都嵐山エコトピアだより―自然循環型生活のすすめ』(小学館)など多数。

会 費 2,000円(正会員は1,000円)

主 催 一般社団法人関西中小企業研究所

お申込 下記までeメールでご連絡ください。
    kanchuken@estate.ocn.ne.jp