綿花栽培と参加体験による価値創造
~地域に人を呼び込むコトづくりマーケティング~
講 師 大阪府産業経済リサーチセンター主任研究員 松下 隆さん
2015年5月19日、ティグレ会議室に於いて、大阪府産業経済リサーチセンター主任研究員の松下隆さんに「綿花栽培と参加体験による価値創造~地域に人を呼び込むコトづくりマーケティング~」と題して講演をしていただきました。以下に要約します。
綿花栽培プロジェクト
松下です。よろしくお願いします。
みなさん綿についてご存知でしょうか?綿栽培は明治の29年頃までは河内や泉州を中心に行われていました。綿花栽培は統計上なくなっていますが、全国的には栽培が広がってきています。私も綿花栽培に携わって5年になりますが、洋綿は一本の綿の木から上を向いて60個ぐらいの綿花が採れます。高さは120cmから2mぐらいで、横幅は1mぐらいです。和綿は下を向いて咲きますので、同じ綿でも品種によって違います。綿の原種は茶色をしています。それを品種改良して白くしました。それは服に色を染めるときに白いほうが染めやすいからです。綿花は繊維の綿の部分と繊維の短いリンタ(注:実の周囲の短い繊維)と綿実に分けられます。綿は糸などにして使います。リンタはキュプラ―(ベンベルグ)などの繊維の原料として使います。綿実は絞って綿実油をつくります。柏原の岡村製油などが有名で高級な油です。絞った油粕は有機肥料として利用されています。綿花は捨てる所がありません。
日本工業統計によりますと、綿の織物、綿の帽子、綿のニットなどの綿関連製品等の出荷額は大阪が一番多く、種類も多岐にわたります。タオルの出荷額は愛媛県の今治と抜きつ抜かれつ競っています。
色染めが大阪の問題点になっています。泉大津と堺で染めが行われていますが、住工一体化が進み、染めた廃液を川に捨てられないことがコスト増につながります。川に捨てれば処理費はかさまないのですが、下水に流す場合には処理費がかかり競争力をなくし、泉大津では染色業者が激減ました。泉佐野は川に流すことができますし、地下水を使うことができますので水道代がいりません。都市整備と染色事業の生存はトレードオフの関係にあります。
これまで、国産綿花の製品化は無理だと言われてきました。やっても高くて売れないと言われてきました。しかし、かつては原料をつくり、生産していました。市場環境も変化してきました。高くても売れるという時代ですし、メイドイン・ジャパンのいいものは売れるということになってきました。綿花原料の99%は輸入に頼っています。繊維原料は輸入するというのは常識になっています。そこをひっくり返して取り組んでみようというのが綿花栽培プロジェクトです。
コットンサミット
綿は糸偏になっていますが、昔は木偏(棉)が使われていました。幕末から明治にかけて綿作りが行われていました。綿作りがサツマイモ、ジャガイモ作りに変わり、明治18年ごろ米作に凌駕されたと言われています。合成繊維は「石油が枯渇すれば再生不可能の限りある資源」であること。一方、綿糸は再生可能な綿花を原料にしていることから、資源枯渇の恐れがないことに加えて、綿を生産するのに要するエネルギー量は合成繊維の5分の1程度の省エネルギー型の素材であることなどから、綿花が繊維素材として見直されてきています。
江戸時代は麻が主流で衣服をつくっていましたが、綿は麻よりも糸にする工程が少なく労力がかからないということで、綿花栽培が盛んになりました。大阪での綿花栽培の要因は、肥料として油粕を大阪の海運で調達できたことがあげられます。大阪での綿花栽培は大正5年までおこなわれていました。作付面積は約5反でした。その内、中河内(現在の八尾)の割合が91%を占めていました。その理由は泉州に紡績機械が導入され、海外から紡績機械ににかけやすい輸入綿花が入ってきたためだと思われます。中河内の綿作りが最後まで残っていたので「河内木綿」と呼ばれるようになりました。
有機栽培や無農薬栽培による純国産の綿製品づくりのためにコットンサミットに取り組んでいます。このサミットは2011年から始まりました。全国に綿花栽培をしている仲間がいます。2010年には栽培地が10ヶ所でしたが、2014年には21ヶ所に増えています。綿は温かい所が好きなので南の方が多いです。栽培面積は2014年には18haに上っています。この広さは、甲子園球場の5倍の面積に相当し、USJの半分ぐらいの面積になっています。作った綿花をすでに製品化している方が12件、製品化を検討している方が5件おられます。綿栽培者を10年間みていますと、綿栽培者たちに変化が見られます。栽培者が個人から企業に変化しています。産業や文化を学ぶことが目的でしたが、現在は地域振興が目的になってきています。3つ目は、栽培面積が一箇所当り1反か2反になり、多いところでは1haも栽培し面積が大きくなってきています。私はコットンサミットの事務局をしていますので、全国の栽培者の方とお会いしています。栽培面積が一番大きいのは東日本大震災の被災地である、宮城県仙台市荒浜です。津波が来た後に、被災地新興ということで綿花を植えに行きました。そこでは8ha栽培しています。
東北コットンサミット
綿の種類はいくつもありますが、アジア綿、陸地綿、海島綿が3大種と呼ばれています。
アジア綿は日本綿と言われているもので、綿の長さは短く、枕や布団に使われています。陸地綿はアメリカ綿と呼ばれていて標準的な綿です。海島綿は赤道直下で栽培されている綿で毛足が長いものです。世界の綿花生産量は1位が中国、2位がインド、3位がアメリカです。天然繊維には綿、麻、絹、カシミアなどの毛があります。その反対に化学繊維があります。石油が高騰してくれば、環境の面から考えても、天然素材を作り出すことを迫られます。そこから全国コットンサミットの活動が注目されています。コットンサミットの目的は、「全国で綿花が栽培され、地域、人々が活性化していくことを願う」というもので、過去4回のサミットを開催しました。2011年に第1回全国コットンサミットが大阪府の岸和田市で開催、2回目が2012年に鳥取県境港市、3回目が2013年に奈良県広陵町、4回目が2014年に愛知県蒲郡市で開催しました。のべ参加者は4~5000人を数え15事業者の栽培・事業化が報告されました。参加者のなかには、収穫した綿花を製品化し、販売するものが多いです。
サミット活動(綿花栽培の実践)の目的と役割は天然素材への要望が高まることに応えることだと言えます。人口減少社会の出現で、「プレミアム感の高い商品の要望」が高まります。オ―ガニックやエコを意識した倫理感の高い消費、つまり「エシカル・コンシューマリズム」に結び付きます。土から衣服ができる工程を見える教材として提供できます。農家は高齢化が進み、我々の食を担う農地が荒れ果て、「遊休地」や「耕作放棄地」が増加することが予想されます。大阪府内だけで「耕作放棄地」が1000haあります。そこを利用して新しい産業を生みだす可能性を秘めています。
2011年3月に津波が東北を襲い農地が塩害にさらされます。米は農地に10%以上の塩分を含みますと発芽しなくなります。綿花は塩分濃度が高くても発芽しますので、塩分を吸収し土壌改良に役立ちます。東北の農家が米栽培できるように、2011年5月に5人の仲間とともに綿を植えに行きました。これが東北コットンサミットの始まりです。東北コットンプロジェクトも大きくなってきまして、バスタオルやタオルの製造を始めています。パートナーがすごくて、全農、高島屋、JALなどが支援しています。「服を着ることで、農家の支援になる」というキャッチコピーで活動を表現しています。
人口減少と時代価値の変化
人口減少は2007~8年から始まっています。今からその減り具合が急激に加速します。重要なのは人口減少社会を経験した人はいないということです。江戸時代から見ましても天明の大飢饉のときに人口が少し減少した経験はありますが、それ以降、人口は増加しています。人口が増える社会の経験から、人口が減る社会の経験をすることになります。人口減少社会を山登りと下りに例えると分かりやすいと思います。山登りの場合は頂を目指してみなの意識が収束していきます。下る場合は目的を達成したので、途中で花を見る、温泉に行く、次の山を目指して動くなどと次の目的に向かって多様化します。価値観の再構成が必要になり、多様化と豊かさを追求することになります。
2013年に野村総合研究所が出した報告書によりますと、とにかく安いものを買いたいという傾向から、多少高くても品質のいいものを買いたい、自分のライフスタイルにこだわって商品を選ぶという傾向に変化してきています。 綿栽培を例にとれば、今までの時代は綿花を栽培して糸をつくり、その糸から衣服を作ったり雑貨をつくってきました。これからの時代は、綿花栽培を実習し、綿花をつくる喜びを体験します。田舎暮らしを仲間と楽しみながら、綿花を収穫し、糸づくりを経験し、ジーンズや衣服に仕上がる工程を学び、新しい喜びを生活の中に取り入れるという時代に転換するといったことを強く意識することが求められると考えます。