『苦海浄土』石牟礼道子さん=私が描きたかったのは、海浜の民の生き方の純度と馥郁たる魂の香りである

2018-02-18 | 文化 思索

産経ニュース 2018.2.18 12:00更新
【モンテーニュとの対話 「随想録」を読みながら〈19〉】「義によって助太刀いたす」
■組織人の誰もがアイヒマンに
 隅田川のほとりで暮らしている。狭いマンションだが、ベランダから穏やかな川の流れと、行き交う屋形船や水上バスを眺めることができるので、住み心地にはそこそこ満足している。いまでこそ人々の暮らしに潤いを与えてくれる隅田川だが、半世紀前は正真正銘のドブ川だった。真っ黒の川面では、川底で生まれたガスの気泡が浮き上がってははじけ、えも言われぬ臭いが漂っていた。当時は冷房車が少なかった。夏、常磐線の普通列車がこの川を渡るときには、乗客は車窓を閉めて悪臭の侵入を防いだものだった。東京だけではない。関西では、阪神電鉄に乗って淀川を渡るときにもかなり臭った。隔世の感である。
 高度経済成長の時代、日本人は欧米の人々から「エコノミック・アニマル」と揶揄(やゆ)されたが、そんな生やさしいものではなかった。「エコノミック・デビル」と呼んだほうが適切ではなかったか。カネを効率よく稼ぐためなら、企業は環境や人間の健康を犠牲にしても、何の痛痒(つうよう)も感じなかった。人間はときに天使にもなるが、それよりもずっと容易に悪魔的行為に手を染めることがある。そう、数百万のユダヤ人を強制収容所へ移送する指揮的役割を担ったナチスのアイヒマンのように。
 戦後、アルゼンチンに逃亡していた彼は、イスラエル諜報特務庁(モサド)によってイスラエルに連行され裁判にかけられた。これを傍聴したユダヤ人哲学者のハンナ・アーレントは、彼はけっして悪魔的な人間などではなく、上からの命令に忠実に従うだけの凡庸な小役人にすぎないと喝破、思考を停止した凡庸な人間ゆえに、結果的に悪魔的な犯罪を遂行するに至ったと考えた。高度経済成長期の日本の企業でも、それと同様のメカニズムが働いていたのだ。現在でも組織に属する人間の誰もが「小さなアイヒマン」になる可能性がある。
 脇道にそれすぎた。軌道修正しよう。隅田川がドブ川の時代はしばらく続いた。もちろん、公害は大きな社会問題となり、小学校の社会科の教科書でも「四大公害病」が大きく取り上げられていた。日常的に光化学スモッグの被害を受けていた当時の小学生なら、「四大公害病とは何か」と問われたら、すぐに答えられただろう。念のため答えを書いておく。有機水銀による水質汚染を原因とする水俣病(熊本県水俣湾)、同様の新潟水俣病(新潟県阿賀野川流域)、亜硫酸ガスによる大気汚染を原因とする四日市ぜんそく(三重県四日市市)、カドミウムによる水質汚染を原因とするイタイイタイ病(富山県神通川流域)-である。
■『苦海浄土』は石牟礼さんの天職
 前置きが長くなった。ここから本題である。
 石牟礼(いしむれ)道子さんが亡くなった。90歳だった。お会いすることはかなわなかったが、石牟礼さんが昭和44年に発表した水俣病をテーマにした『苦海(くかい)浄土』は、高度経済成長の恩恵をたっぷりと享受してきた人間として、どうしても読んでおくべき作品だと思い続けてきた。そして2年ほど前、藤原書店から全3部(「苦海浄土」「神々の村」「天の魚」)を1冊にまとめたものが刊行されたのを機に、やっと熟読した。
 世界レベルのすごい作品である。告発のルポルタージュにとどまるものではなく、清澄な詩情に貫かれた重層的で壮大な散文詩だった。石牟礼さんは同書のあとがきにこう記している。
 《拙(つたな)いこの三部作は、我が民族が受けた希有(けう)の受難史を少しばかり綴(つづ)った書と受け止められるかも知れない。間違いではないが、私が描きたかったのは、海浜の民の生き方の純度と馥郁たる魂の香りである》
 美しい風土に育まれたもの言わぬ海浜の民の魂を、天性の詩人である石牟礼さんが口寄せをする巫女(みこ)のように綴ったのが『苦海浄土』なのだ。
 私の印象にもっとも強く残ったのは、新聞に「魂のないミルクのみ人形」と名付けられた女性(当時17歳)の両親の嘆きだ。娘の魂が有機水銀によって溶かされてしまったのなら、死後浄土で再会することがかなわないと悲嘆するのだ。ところが、その両親に「いつも新聞雑誌にのせてもろうてスターよな。親孝行ばい、全国各地から供え物の来て」という言葉を浴びせる近隣の人もいた。魂を溶かされているのは、この言葉を発した人、冷酷に「魂のないミルクのみ人形」と名付けた新聞、水俣病と自分は無関係と思い込み、文明を享受している私たち自身の方だと感じたのだ。
 石牟礼さんにとって『苦海浄土』を書くことが天職だった。そう思わざるをえない。昭和2年に熊本県河浦町(現天草市)で生まれ、間もなく水俣市に移り住む。国民学校の代用教員を経て主婦となり、家事や子育ての傍ら執筆活動を始めた。水俣病が公式確認されたのは31年のこと。石牟礼さんはお天道さまの意思に導かれるように水俣病に深く関わってゆく。
 「文学の素養も、学問も、医学の知識もないただの田舎の主婦が、身辺の異常事態にうながされて、ものを書きはじめた」と石牟礼さんは当時を振り返り、父から「深み」に足を踏み入れる覚悟を問われると、「義によって助太刀いたす」という言葉でそれを表現した。「義」とはお天道さま(神)の意思を自らの行動規範とすることだ。天性の詩情と「義」の精神、この2つが美しく希有な作品を生み出したのだ。
 さて、モンテーニュである。彼は第3巻第10章「自分の意志を節約すること」の中でこんなことを書いている。《この世には足をとられるような深みがたくさんあるから、最も安全であるためにはいささか軽めに・浅く・世を渡るべきである》
 水俣病に深く関わろうとした石牟礼さんに覚悟を問うた父も、自身の人生経験から同じように考え、娘に翻意を促したのだ。しかし娘の返答は、先に記した通りだ。
 こんなことを書いたモンテーニュだったが、その晩年、同じ章に次の言葉を書き加えている。
 《少しも他人のために生きない者は、ほとんど自分のためにも生きていない》
 《いささか軽めに・浅く・世を渡るべき》と書いたものの、現実の彼は、旧教派、旧教過激派、新教派に分かれて殺し合いを繰り広げる宗教戦争を調停するために、命がけで3派の間を奔走した。その彼が晩年に書き加えた後者の一文は、たとえようもなく重い。それは石牟礼さんの「義によって助太刀いたす」という言葉と時空を超えて共鳴するのである。
 ※モンテーニュの引用は関根秀雄訳『モンテーニュ随想録』(国書刊行会)によった。=隔週掲載(文化部 桑原聡)

 ◎上記事は[産経新聞]からの転載・引用です
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