『絶望の裁判所』瀬木比呂志著  一人の学者裁判官が目撃した司法荒廃、崩壊の黙示録

2014-02-14 | 本/演劇…など

一人の学者裁判官が目撃した司法荒廃、崩壊の黙示録!『絶望の裁判所』著者・瀬木比呂志氏インタビュー
最高裁中枢を知る元エリート裁判官による衝撃の告発。
 現代ビジネス 2014年01月28日(火)瀬木比呂志
 2月18日に現代新書より、裁判官たちの精神の荒廃と堕落を描いた『絶望の裁判所』が刊行される。著者の瀬木比呂志氏は、明治大学法科大学院専任教授で元裁判官。民事訴訟法のスペシャリストとして知られ、専門書のみならず、小説や芸術論の著作も多い。最高裁中枢を知るエリートでもあった瀬木氏はなぜ法服を脱ぎ、日本の司法に警鐘を鳴らす問題作を執筆したのか?
 背景には、「司法制度改革」導入と相前後して進行しつつある、司法の腐敗と堕落に対する危機感があった。出世や権力ゲームにうつつを抜かす裁判官たちの精神の荒廃と堕落はもはやとどまることがない。一人の学者裁判官が目撃した司法荒廃の黙示録とは?
--過去に裁判所の中枢にいたことのある元裁判官が、このように苛烈な司法批判、裁判所・裁判官批判をされたのは、なぜなのでしょうか? なぜこのような本を書かれたのでしょうか?
瀬木: 本は、一言でいえば、意識よりも無意識、直感や一種の本能、論理や感受性についてもより根源的な部分で、書くものと思っています。僕の本は、専門書も一般書もすべてそうですね。
 33年間裁判官を続けて、ことに最後の10年余り、「これではもうこの制度はだめだ、根本的改革しかない」と思うようになっていきました。『絶望の裁判所』の前の本である『民事訴訟の本質と諸相』(日本評論社)の中の制度批判の部分は、そういう思いを抱きつつ自然発生的に補筆を重ねる中で、形を成していったのです。
 ですから、その本がきっかけとなって本書の企画が生まれたとき、既に、頭の中では、内容はできあがっていました。あとは、どのように書くかという方法の問題が残っていただけです。苛烈な司法批判になったのも、自分で意図したというよりは、自然にそのようなものとなっていったのです。むしろ、自分としては、もっと穏やかなものにしたいという気持ちもあったのですが、書くときは、自分の中の深い部分の声に従って書くほかないですから。
--このような根源的、包括的、徹底的な司法批判、裁判所・裁判官批判の本を出すことに対する恐れの気持ちはありませんでしたか? 裁判所当局は、本書に対してどのようなリアクションをとると考えられますか?
瀬木: 恐れというより、やはり、自分の属していた組織を批判するわけですから、痛みはありました。一気呵成に書いたのは、長く抱えていることがつらい書物であったということもあります。もっとも、大部の専門書が書けるだけの内容を興味深くコンパクトに凝縮するわけですから、推敲は十二分に行いました。
 裁判所当局は、普通に考えれば、黙殺し、頬被りを決め込むでしょうね。もしも反論を行えば、当然僕の再反論も認めなければならず、そうするとさらに都合の悪いことになっていくことは目にみえていますから(笑)。 あと、裁判官を始めとする法律家の中には、ことに匿名で、人格攻撃や中傷を行う者は出てくるかもしれません。そういう人間の存在は、本書第5章の記述からも、容易に想像されることと思います。
--社会的地位が高く、年収2000万円という高収入の仕事を捨てて、学者になられたのはなぜでしょうか?
瀬木: 本にも書いたとおり、三つの評価の高い大学から声をかけてもらったわけですが、二つ目の有力国立大学については、本当をいえば、既にその時点で移りたかった。しかし、収入低下に加え、半単身赴任とそれに伴う年間数百万円の出費があっては無理でした。
 明治大学は、私立の中で最も意識していた大学の1つです。大手の中でも、学風が自由で、研究環境や給与水準を含め、総合的な諸条件も比較的いいのです。それでも収入は下がりましたが、別に半単身赴任などが伴うわけではないですから、あまり大きな問題ではないですね。
 考えてもみていただきたいのですが、旧ソ連や昔の中国から自由主義社会に亡命してきた知識人が、「こっちのピロシキはまずい」とか、「中華が偽物だ」などといった不平を漏らすでしょうか?(笑) 裁判所における僕の最後の7、8年間の生活は、精神的にみれば、全体主義的共産主義国家にあって亡命の機会を待っている知識人のそれに近いものだったのです。
--最高裁事務総局による徹底的な裁判官支配、統制の実態には驚きを禁じえないのですが、なぜ誰も異を唱えないのでしょうか?
瀬木: 第一に、多数派の裁判官は、感覚が麻痺していて、いかに異常な状況に置かれているかということを直視できなくなっているからでしょう。
 第二に、現在の裁判所組織の中にいて異を唱えるのは、それこそ、全体主義国家や全体主義的共産主義国家の中でそれを批判するに等しい部分があるからです。
 こうした支配、統制のメカニズムについては、第3章に詳しく記したとおりです。
--憲法で身分保障されている裁判官が、かくも出世に敏感とは驚きました。なぜなのでしょうか?
瀬木: まず、身分保障といいますが、新任裁判官の数は1つの期で昔は60名くらい、今は100名くらい、裁判官全体で現在3000名弱。それで、10年に1度の再任で毎年5名程度拒否される者が出て、事実上の強要に近い肩叩きも、少なくとも同じくらいはあるわけですから、この身分保障は、かなり危ういものになっています。つまり、1年間で10人くらいは裁判所を追われているわけですからね。大学、一般公務員はもちろん、大企業よりもはるかに危うい。ただ、やめても弁護士ができるというだけのことです。
 出世に敏感なのは、第3章にも書いたとおり、そのように条件付けられ、それが習い性になって、自分を客観的に見詰める目を失ってしまっているからで、これも、行政官僚や一部の企業と何ら変わりません。というより、先輩の元裁判官たちにも、「霞ヶ関や大企業よりもさらに陰湿なのではないか?」と言っている人はかなりいますね。
--現在は刑事系裁判官が枢要ポストの相当部分を占めているようですが、これに対して民事系裁判官の反発はないのですか?
瀬木: 潜在的な反発は、ないではないのでしょう。しかし、本に書いたとおり、かつて裁判官支配、統制の形を完成させたといわれる矢口洪一長官時代に比べても、面従腹背の人すら少なく、上に対して見境なく尻尾を振る人が多いという嘆かわしい状況ではありますね。
 また、これも本に書いていますが、刑事支配の一時期が重要ということではない。腐敗がはなはだしいからそのことを強調しましたが、やがてそれが終わっても、後に続くのは同様のメンタリティーの人たちなのであって、刑事支配の時代が終わったら何かが変わるという幻想を抱くべきではありません。現在の裁判所上層部は、矢口時代に比べても問題が大きく、それは刑事系に限ったことではないのです。
--第2章の最高裁判事の性格類型別分析が秀逸でした。詳しい説明はそれを読んでいただくとして、そのエッセンスを教えて下さいませんか?
瀬木: エッセンスと言われても難しいのですが(笑)・・・・・・。要するに、人間味のある人と怪物的な人が若干、ただし後者のほうが多い。残りの半分が純粋出世主義の俗物、半分が比較的知的だが本質的には型通りの官僚ということです。この二者の違いは、後者には少なくとも良心の片鱗はあるだろうということです。
--第1章、ブルーパージ、大規模な左派裁判官排除工作に、ある時点の裁判官出身最高裁判事の少なくとも半分が関与していたというのはショッキングでした。「法の番人」たる裁判官の、しかもそのトップのやることとは思えない。なぜ、このような人間がトップに昇り詰めるのでしょうか?
瀬木: この本でさまざまな側面から論証していますが、日本の裁判官は、実は、裁判官というより、法服を着た「役人」、裁判を行うというより事件を処理している制度のしもべ、囚人です。裁判官という職業名や洋画などからくる既成のイメージは捨てて下さい。
 事実、本書第5章でも論じたとおり、トルストイは、短編『イヴァン・イリイチの死』において、帝政ロシアにおける官僚裁判官の本質を、非個性的で基盤の脆弱な浮動的インテリ、ないしは疑似インテリとして、きわめて的確にとらえています。まあ、天才だから大昔にそういうことができたのだとは思いますが、いずれにせよ、そういう曇りのない眼で本質をみて下さい。ブルーパージに貢献し、そのことを公言して恥じないような人物だからこそ、最高裁判事になれたのです。
--「司法制度改革」はうまくいったのでしょうか?
瀬木: 日本の改革の常ですが、問題の本質を見極めてそれに応じた改革を行うのではなく、「改革のための改革」になってしまった面があります。
 成功したのは、たとえば法テラスのような公的な法的扶助、情報のネットワーク、これはいいです。
 裁判所・裁判官制度については、本書のいくつかの章で詳しく分析したとおり、裁判所当局によって悪用された側面が大きく、そのために、たとえば裁判員制度についても、制度の趣旨がゆがめられています。被告人による選択制の制度とし、裁判員辞退事由をよりゆるやかに認め、守秘義務の対象も限定すべきです。また、早急に、選択制の陪審員制度に移行すべきです。これも、詳しくは書物第4章のとおりです。
 法科大学院については、『民事訴訟の本質と諸相』に書きましたが、政治的な駆け引きなどもあって、絶対やってはいけない乱立を許し、司法試験合格者数よりも1学年の学生数がはるかに多いという状況でスタートさせてしまった。そんなことをすれば合格率が低くなるのは、小学生でもわかることです。はっきりいえば、官僚と政治家の責任が大きいと思います。司法試験合格者が一気に増える場合に従来の法学部教育ではたして十分かという問題はあり、その点では法科大学院制度に正当性はあるでしょう。ただし、資力のない家庭の学生が排除されないよう、優秀な学生については、奨学金や学費貸与、一部免除を、公的制度としても充実させていくべきだと思います。
--本書を読むと、裁判官には、決して友人にはしたくないタイプの人間が多いように感じます。典型的な裁判官像を教えていただけませんか?
瀬木: うーん、僕は、一貫して、少数派にはなったが良識派の裁判官も存在すると書いていますが、読んでみると、第2章、第5章などの印象が強いのでしょうね。
 今年も、かなりの数の裁判官、ことに後輩から年賀状をもらっていて、書物が先のような印象を与えるとしたら、彼らにはすまないと思っています。ただ、ここ十数年の間に、裁判所の荒廃に伴い、問題の大きい裁判官が徐々に増えてきたという印象は否定できません。
 典型的な裁判官像については、最高裁判事の類型からも推測できると思いますが、まあ、ごく普通の裁判官は、トップほど生臭くはないでしょう。しかし、血の重みがないというか、血が薄いというか、個人としての存在感に乏しい、感受性にもやや欠ける、鈍重な職人的役人が多数派になってきていることは、残念ながら間違いないと思います。
--裁判所のセクハラ、パワハラ等について、本書に記述されていることをも含めていかがでしょうか?
瀬木: これは、第5章の記述の中に含めざるをえないので書きましたが、あまり書きたくない部分ではありました。個人の問題もありますが、それ以上に裁判所という「精神的収容所」、「見えない檻」の中にいてストレスを被っている人間に不可避的に生じる問題という部分もあります。不祥事が2000年代以降に多発していることをみて下さい。裁判所の荒廃、退廃の影響は明らかだと思います。
 また、大学に移って驚いたのは、各種ハラスメントについての対処がすごく進んでいることですね。比べると、裁判所はひどいです。表と裏の使い分け、二重基準(ダブル・スタンダード)の弊害もありますね。
--裁判所の自浄作用は働く可能性があるのでしょうか?
瀬木: もはやそれは難しいのではないかという認識が、この書物を書かせたということです。
 「刑事の時代が終わればまたよくなるよ」などといった幻想は、学者にも根強いですからね。「おそらくそうではないですよ」ということは、かなり綿密に論証したつもりです。
--国政選挙における1票の格差問題などでは最高裁はかなり思い切った判断を出しているようにみえるのですが?
瀬木: そうした部分でも幻想が根強いですね。第4章を特に詳しくかつ綿密に書き込んだのは、そうした幻想を払拭するためです。
 1票の格差判例における最高裁の論理は、国会に大きな裁量権がある、また、時間の面でも猶予を与えてあげるといった、政治家たちにものすごく配慮した内容なのですよ。アメリカの上院のように州の連合という国の成り立ちが根拠になっている場合には、各州平等に2人ということで、格差が出ても仕方がありません。しかし、日本で都道府県を単位にして選挙区を決めることに何の合理性、必然性があるのでしょうか?
 英米における「1人1票の原則」は、せいぜい1対1.1とか1.2くらいまでを格差として許容するものだと思います。事実、アメリカ上院のような制度的な例外を除けば、そのような原則が貫徹していると思います。選挙権は、まさに人権の基盤ですから、それが当然ではないでしょうか?
 メディアのみならず、憲法学者の中にさえ、衆議院1対2、参議院1対5などといった最高裁がガイドラインとしてきた数値を既定のものとして論じる傾向はありますが、英米法的常識からいけば、理解に苦しむものではないかと思います。
--最後に、裁判官になってよかったこと、悪かったことを、それぞれ教えていただけませんか?
瀬木: 僕は、最初から、社会科学・人文科学あるいは法学の学者になっていた可能性も高い人間なので、それとの比較になりますね。
 社会・人文科学にいっていたらもしかしたらもっと独創的なことができたかもという気持ちはありますが、まあ、それはわかりませんからね(笑)。
 法学者のほうは、可能性としてはかなりありましたね。法学部に進みましたから。
 裁判官になってよかったと思うのは、やはり、人間、制度というものを長い間リアルに見詰められたということです。元々学者の眼をもっていましたから、平均的な裁判官とはかなり異なった眼で、裁判も、実務も、人間も見つめられた。鶴見俊輔氏にお会いして、プラグマティズムからも多くを学びましたし。書いてきた書物についても、やはり、このような体験に基づくところが大きいですね。
 最初から学者になっていたら、理論をも制度をも、今ほど醒めた眼で客観的に分析することはできなかったでしょう。もちろん学者の言葉(ターム)にはより通じたに違いないですが、その利害得失は微妙で、学者の中にも、「最初から学者になっていたらもっとよかったのでは?」と言って下さる人と、「それだとかえって小さくまとまってしまったのでは?」と言って下さる人と、両方いますね(笑)。
 それは、僕が決めることではなく、僕の学者生活、執筆生活が終わったあとで、人が決めることでしょう。僕としては、『民事訴訟の本質と諸相』のはしがきに書いたとおり、運命に従うだけです。基本的に唯物論者なのに運命論者なのですね。
 いや、唯物論者というのも本当はどうなのか? 唯物論者が、『映画館の妖精』(騒人社)のようなファンタジーを書くかは疑問かもしれない。いずれにせよ、人生いろいろありましたから、運命論者になりました(笑)。
 悪かったことは、本に書いたとおりです。が、それは、基本的に、もう過ぎ去ったことだと思いたいですね。もちろん、すべてが過ぎ去ることはありえませんが。
--それでは、これは質問ではなく、元裁判官の学者、そして、子どものころからの自由主義者、個人主義者(はしがき、あとがき)として、平均的な日本国民に対するアドバイスをいただけませんか?
瀬木: そうですね。これは司法に限りませんが、あとがきに書いたとおり、制度を、虚心に、客観的に、また、主体的に見詰める眼を養っていただきたいと思います。イデオロギーや教条によってではなく。何事もイデオロギーによってしか判断できない(奴らか俺たちか、ゼム・オア・アスの論理)、そして、自分を正当化するために、気に入らない者を批判、非難する、そうした正義派のやり方や言葉は、もはや行き詰まっており、その方向では、本当の変化は起こらないと思うからです。
 僕は、クリスチャンではないのですが、新約聖書は若いころに何回も読んでいて、知恵に満ちた、深い書物だと思います。その言葉を借りれば、「蛇のごとくさとく、鳩のごとく素直に」自分の眼で見据えていただきたいと思いますね。
 瀬木 比呂志(せぎ・ひろし)
 一九五四年名古屋市生まれ。東京大学法学部在学中に司法試験に合格。一九七九年以降裁判官として東京地裁、最高裁等に勤務、アメリカ留学。並行して研究、執筆や学会報告を行う。二〇一二年明治大学法科大学院専任教授に転身。民事訴訟法等の講義と関連の演習を担当。著書に、『民事訴訟の本質と諸相』、『民事保全法〔新訂版〕』(ともに日本評論社、後者は春ごろ刊)等多数の専門書の外、関根牧彦の筆名による『内的転向論』(思想の科学社)、『心を求めて』『映画館の妖精』(ともに騒人社)、『対話としての読書』(判例タイムズ社)があり、文学、音楽(ロック、クラシック、ジャズ等)、映画、漫画については、専門分野に準じて詳しい。
 ◎上記事の著作権は[現代ビジネス]に帰属します
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『絶望の裁判所』著者・瀬木比呂志氏インタビュー第2弾
最高裁中枢を知る元エリート裁判官はなぜ司法に〝絶望〟したのか?
 現代ビジネス 2014年02月13日(木)瀬木比呂志
 2月18日に現代新書より、裁判官たちの精神の荒廃と堕落を描いた『絶望の裁判所』が刊行される。発売を記念して、1月28日現代ビジネスに著者である瀬木比呂志氏のインタビュー記事を公開したところ、直後より反響が相次ぎ、予約段階にも関わらずAmazonに注文が殺到した。法曹界のみならず、一般の人々の司法に対する関心が窺える。外部には知られることのない「法服の王国」で、現在何が起きているのか。最高裁中枢の暗部を知る元裁判官 瀬木比呂志氏(明治大学法科大学院専任教授)に再度インタビューを行った。

--先日のインタビュー記事公開直後、予約段階であるにもかかわらず注文が相次ぎ、Amazonの「本」総合売上ランキングで、一時は本書が70位台になりました。人々の本書に対する関心が非常に高いことが読み取れますが、このあたりをどのように自己分析されますか?
瀬木:法律家の世界については、僕の場合、弁護士を中心に、学者なども含め、常に興味をもって下さっている固定読者が一定数ありますので、その人たちが核になったということは、あるのかもしれません。ただ、それだけでは、先のような順位はありえないでしょうね。一般読者が興味をもって下さったということでしょうから、うれしいと思います。
--好意的な反応が多いのですが、一部には、「かつて所属していた組織について、問題はあるにせよ批判するのはどうか」という反応もありました。このような反応についてどのようにお考えになりますか?
瀬木:そうですね。そういう考え方もあるだろうと思います。
 しかし、そのような考え方、感じ方については、僕は、あとがきに引用したボブ・ディランの言葉で間接的に答えたつもりです。
 「つまり我々の誰からも声が上がらなかったら、何も起こらず、〔人々の〕期待を裏切る結果になってしまう。特に問題なのは、権力を持った者の沈黙による『裏切り』。彼らは、何が実際起きているかを見ることさえ拒否している」というものです。
 裁判所と裁判官の抱えるさまざまな問題について、重層的、構造的な分析を行うには、裁判官としての経験と学者の視点の双方、また社会科学一般に関する一定の素養も必要ですが、そうしたいくつかの条件を満足する人間は、おそらく、僕のほかにはあまりいないでしょう。そうであれば、「所属していた組織を批判すべきではない」という倫理観と、ディランのいう「沈黙によって人々を裏切るべきではない」という倫理観の、どちらを優先すべきかという問題になります。僕は、一人の学者として、後者を優先すべきだと思っています。
--第1章にもあるとおり、田中耕太郎第二代最高裁長官が、米軍基地拡張反対運動のデモ隊が境界柵を壊し数メートル基地内に立ち入ったとして起訴されたいわゆる砂川事件大法廷判決が出る前に、その見込み、内容を駐日米大使、公使にリークしていたという事件が、昨年、紙面をにぎわせました。「法の番人」たる裁判官の長である人間とは思えない行為ですが、このようなことは現在でも行われているのでしょうか? また、田中長官は、なぜこのような問題の大きい行為を行ったのでしょうか?
瀬木:規模や態様は異なるとしても、これに類したことが現在でも行われている可能性は否定できません。詳しくは第1章等に書いていますが、僕が自分の眼で見ただけでも、談合裁判的な行為等これに類した事実はいくつかあったわけですからね。日本の司法に一般的に存在する根深い問題の一つだと思います。
 「元東大法学部長」で「商法、法哲学の学者」であった人間が、最高裁長官になると、こういうことをやっている。これが、日本の司法の現実、実像なのですが、僕も、この報道にはすごくショックを受けました。本来なら、各紙の一面、テレビのトップニュースを飾るべき重大な事柄ではないかと思います。
 なぜ田中長官がこのような行為を行ったかについては、元学者、そして裁判官の長として当然従うべき正義の要請よりも、アメリカと国粋的保守派の政治ないし政治家に対する忠義のほうを優先させる、そうした、法律家としてはあるまじき倫理観によるところが大きいでしょう。しかし、こうした倫理観、価値観は、彼だけのものではなく、裁判所のリベラル派を排除することを意図して選ばれたといわれる石田和外(かずと)長官以降の多くの長官にも、おそらくは共有されているものではないかと思います。
 もう一つは、表と裏の使い分け、行動と倫理に関する二重基準(ダブル・スタンダード)という問題です。これについては、本書の各所で繰り返し論じています。
--本書を読むと、日本社会の従来の予定調和的なあり方に異議を申し立てるような事件については、個別事例の性格やテーマとされている法律問題の検討が満足に行われないまま、初めに結論ありきで判決が下されているように感じられます。私たちが授業で学んだ三権分立の相互チェックは、絵空事のように思われるのですが・・・・・・。
瀬木:裁判所と裁判官の問題は、彼らだけの問題ではなく、判決や裁判所における和解等々を通じて、国民、市民の生活と人権に深く関わってきます。 ごく簡潔にまとめれば、「統治と支配の根幹に関わる事柄はアンタッチャブルで絶対に動かさない。必ずしもそうでない部分では、可能な範囲で一般受けをも指向する」というのが、現在の最高裁の路線といってもよいかもしれません。しかし、残念ながら、そうした事態を見抜けるほどに広い視野と司法に関するヴィジョンを備えたメディアは、わずかであるように思います。
 裁判所・裁判官制度の根本的な改革が行われない限り、三権分立はかなり絵空事に近いでしょう。苦い真実ですが、僕は、本書が生まれるきっかけになった僕の研究の総論『民事訴訟の本質と諸相』(日本評論社)で書いているとおり、学者は「政治」など行うべきではなく、ただ真実のみを語ればよいのだと思っていますから、そう言わざるをえません。
--先の質問と関連しますが、日本の裁判官の判断回避傾向、和解の強要、押し付けについて、ビジネスマンにも貴重な情報であると思いますので、少し教えていただけませんか?
瀬木:これについては、日本の裁判官が、本質的に、法服を着た「役人」であり、裁判所当局の、また、制度の「しもべ、囚人」という傾向が強いことに根本的な原因があります。
 困難な判断、言葉を換えれば重要な判断であればあるほど、判断を回避したい、つまり、棄却や却下ですませたい、和解で終わらせたい、そういう傾向が強く出てきます。
 日本の司法にきわめて特徴的な傾向であるにもかかわらず、これまで、法学者も、法社会学者も、実務をあまり知らないこともあって、こうした事態を見過ごしてきました。
 個人の訴訟はもちろんですが、会社の訴訟でも、これはぜひとも理非の決着を付けてもらいたい、判断を求めたい、そういう事件は必ずあるはずです。損得勘定だけのことなら弁護士等を交えた裁判外での話合いが可能な場合が多いでしょうから、企業についても、あえて裁判に訴えるという場合には、それ相応の事情があることが多いでしょう。
 ところが、日本の裁判官は、そうした期待を裏切って、ともかく、早く、また判断をしないで事件を終わらせるという方向に走りやすい。
 もちろんアメリカでも和解は多いのですが、それなりに手続的な正義が尽くされており、日本のように、裁判官が、当事者の一方ずつに対し、別々に、延々と和解の説得を行うなどといったことはありません。
 これは、裁判官が、相手方当事者のいないところで秘密裏に情報を採っている可能性があるということで、国際標準からすれば、手続的正義の基本原則に反するのです。「裁判官はそういう正しくないことはしないはずである」という幻想の上に成り立っているやり方ですが、実際には問題が大きい。裁判官がかなり自覚的な良識派でない限り、危険なことになりやすいのです。
 一般にはあまり知られていない問題ですが、国民、市民、企業のいずれにも関係する重要な事柄なので、本書第4章等で詳しく論じています。
--瀬木さん御自身のことに移ります。瀬木さんは、ある時期までは順当にエリートコースを歩んでこられたようにみえます。ネットでは、「絵に描いたようなエリートコースを歩む裁判官だった」、あるいは、「超エリ-トと目されていた」などと評している人もいました。仮定の話ですが、最高裁事務総局の意向を汲み取り、出世コースを邁進することも可能だったのではないでしょうか? なぜそのような選択肢を採られなかったのでしょうか?
瀬木:これは、本書を読んでいただければ、あるいはさらに僕の筆名の書物を読んでいただければよくおわかりになることだと思いますが、そもそも、僕に関する先のような類型的なイメージと、僕の内面、本質との間には、大きな溝がありました。
 40歳の時に一時的なうつで倒れた前後から、その溝を自覚するために、あるいは埋めるために、筆名の執筆、実名の研究と執筆、それもかなり先鋭な側面の大きいものを続けてきましたが、それによって、僕は、当然のことながら、一枚岩の組織の中で少しずつ浮き上がっていき、排除されるようになってもいったわけですね。
 いずれにせよ、質問にあるような選択肢を採ることは、僕にはおよそ無理でしたし、ありえないことです。
--今のお言葉どおり、最高裁判所調査官時代に「うつを伴う神経症」になられていますが、それほどまでに耐え難い日々だったのでしょうか? 何か直接的なきっかけはあったのでしょうか?
瀬木:それまでに蓄積してきた無理が一挙に噴き出したという感じでしたね。ですから、主観的にはすごく苦しかったけれども、熟練の医師は、「うつは重くない。神経症的な機制と絡み合っているから苦しいのだ」と正しく診断していました。
 実際、しばらくの間入院して、人生というのは、一本のロウソクがしばらくの間輝き、やがて燃え尽きるのと何ら変わりのない、単純なものなのだと悟りました。それだけで、うそのようになおってしまったのです。
 つまり、心の中にある機制や矛盾こそ問題だったということなのでしょう。このことは、『心を求めて――一人の人間としての裁判官』(騒人社)などの筆名の書物の中でも詳しく書いています。
--書物の中では、エリート裁判官たちの自殺などその挫折についても書いていらっしゃいますが、そうした人々は、どのようなきっかけで挫折に至ったのでしょうか?
瀬木:挫折の原因は、多くの場合、先に述べたような表と裏の使い分け、二重基準の欺瞞に耐えられなくなったということであると思います。ある意味、その使い分けに徹することができなかった、そうした正直な人々が挫折していきやすいということなのでしょうね。
 ただ、そうした人々を端から見ていると、何といったらいいのでしょうか、やや酷な言い方になるかもしれませんが、中身が乏しい、内容がないといった印象を受けることが多かったのも事実です。空洞、空虚を内に抱え込んでいるという感じでしょうかね。
 本書で論じている、トルストイの短編から採ったイヴァン・イリイチタイプの裁判官には、多かれ少なかれそういう雰囲気があります。常に自分の内にある矛盾から目をそらし、みずからの良心からも目をそらしているという感じですね。
--業績という形で「神の見えざる手」による調整が働く企業などと違って、官僚機構は、いったん人事がよどみだすと、とどまるところを知らないことになるという印象をもちました。おりしも今年7月は最高裁判所長官の交代期ですが、今後の人事はどのように変わっていくでしょうか?
瀬木:これも書物に記したとおりですが、基本的には路線は何ら変わらないと思います。司法制度改革を悪用して支配、統制のシステムを徹底的に固め、末端の人事にまでその方針を貫徹させている現在の最高裁長官や最高裁事務総局のやり方は、長い時間の間に必然的に積み上げられてきたものであってそう簡単に変わるわけがなく、おそらく、そのまま受け継がれていくでしょう。
 もしも、変わった、変わったなどという人がいたら、眉唾で聞いたほうがいいですね。日本のメディアに現れてくる論調には、本質的な問題から目をそらすことによって、意識的にか無意識的にか権力のお先棒をかつぐ傾向が否定できませんが、残念なことです。
 また、第6章にも記したとおり、本当をいえば「システム」こそが主人なのであって、最高裁長官等のトップもまた歯車にすぎない、ということもいえます。フランツ・カフカが、『流刑地にて』という短編で語っているのは、まさに、そういう「権力としてのシステム」なのではないかと思います。
--ただ、正直、裁判官の人事は、一般の人々にとっては「コップの中の嵐」にすぎないようにも思えるのです。「コップの中の嵐」では、私たちの受ける判決内容にさしたる変化は生じないのではないでしょうか? こうした考え方は甘いでしょうか?
瀬木:そのように裁判制度の問題を小さく考えることが、結局、本書で論じたような種々さまざまな問題を生じさせる大本、少なくともその一つになっているということを考えていただきたいのです。
 サン=テグジュペリの『星の王子さま』の最初のほうで、王子さまが「バオバブの木」についてこんなふうに語りますね。
 「大きくならないうちに抜いておかないと、小さな星なら破裂させてしまうよ。最初はバラとそっくりだから、よく気をつけてね」
 テグジュペリがここでファシズムを寓意していることは明らかだと思いますが、すぐれた表現は意図された寓意を超えてしまうというのが、文学のすごいところです。
 僕も、小さな王子と全く同じことを言いたいですね。
 つまり、権力というものは、ほっておけば必ず腐敗するということです。その芽は、常に、小さなところから始まります。
 ちなみに、アメリカでは、州裁判官の全員に関する弁護士たちの事細かなアンケート調査の結果が一般の新聞に掲載されます。これは市民が常に監視しておかなければならない情報だということが、共通の理解事項になっているのです。
--第3章の「見えない檻」のレトリックはきわめて秀逸で、裁判所のみならず、日本のさまざまな「部分社会」に共通する病理であるように思われます。本書は、単に司法の荒廃、腐敗を告発した問題作という以上の、日本社会の病理とその構造に深く迫った書物ではないかという印象をもちました。この表現は、どのようにして思い付かれたのでしょうか?
瀬木:自分自身の体験からですね。定められた領域に安住している限りその檻は見えないが、いったん自分の眼で見、自分の頭で考えるようになれば、たちまち、見えなかった檻にぶつかることになる。
 旧ソ連の全体主義的共産主義や、さらにさかのぼればアウシュヴィッツの恐怖について考察した多くの書物から得た考察も、それを補完しています。アウシュヴィッツも、旧ソ連等の強制収容所も、その存在については取沙汰されていながら、その真実は、長い間明らかにされませんでした。これもまた、見えない「ゾーン」、「檻」だったのではないでしょうか?
--現在の司法は既に自浄能力を失っており、司法の根本的な改革のためには、弁護士等を相当期間務めた人々の中から透明性の高い形で裁判官を選出する「法曹一元制度の実現」しかないとのお考えですが、弁護士の質の劣化が叫ばれているいま、有効な手段とはなりえないのでないかとの意見もあるようです。また、法曹一元制度提言はポピュリズム的で無責任だとの意見さえ一部にはあります。いかがでしょうか?
瀬木:はい、そのような意見があることは重々承知しています。ある意味で、「やっぱり自民党でなければ」という意見と似ていますね。
 一理ありますが、僕は、まず現実性の有無というところから判断して思考放棄してしまうのは、やはり適切ではないように思います。
 また、司法の場合には、弁護士という受け皿があり、それは、司法の担い手たりうる、そしてそれをめざすべき集団ではないかとも考えています。
 『民事訴訟の本質と諸相』では、厳しい弁護士批判をも行い、その上で、やはり法曹一元制度をめざし、その基盤作りに着手すべきではないかと書いています。本書を読んでさらに司法に興味を抱かれた読者には、そちらもお読みいただければ、司法制度、裁判と裁判制度、人々や法律家の法意識、学問のあり方と方法等に関する僕の考え方やヴィジョンの全体像がよりよく理解していただけるのではないかと思います。
 これは、裁判官でも、弁護士でも、あるいは学者、ジャーナリスト、医師等ほかの専門職でも同じことなのですが、その中で本当にすぐれた部分の割合は、職種によってある程度の差はあるものの、それほど大きいわけではありません。
 そして、その部分を比べるとき、裁判官については、もはや良識的、自覚的な、独立した裁判官と呼べるような人々の層はかなり薄くなってきており、また、現在の官僚機構の中では残念ながら絶対上には行けない。したがって、改革の力にはなりえないのです。僕の経験からもわかりますが、何とか孤塁を守るのが精一杯でしょう。
 一方、弁護士については、上から下までの落差が大きいことはもちろんどこの国でも同じです。しかし、僕の知る限り、その中の上層部は、人権感覚にすぐれ、能力も謙虚さもある人が比較的多いと思います。ですから、弁護士の中の本当にすぐれた部分が裁判官になるなら、全体として今よりもよい裁判が行われるし、その質も落ちたりはしない、そのことは、僕は、かなり自信をもって言えます。
 第6章にも記したとおり、良識派の元裁判官には、弁護士をやっている人を含め、そういう考えの人々は結構多いのですよ。つまり、元裁判官だからこそ、現在の問題の大きさがよくわかるのです。元良識派裁判官たちは、裁判所や裁判官に対する幻想をもっていませんからね。
 ただ、それでは、現在の弁護士全体、弁護士会全体が以上のような状況に十分自覚的であるかといえば、答えは否かもしれません。だからこそ、『民事訴訟の本質と諸相』では、「弁護士全体、弁護士会全体が本気になって取り組めば」という留保を付しています。
--古巣の批判は、精神的にもかなりの御負担だったと思います。執筆に当たられた際の心境をお聴かせ下さいませんか?
 また、これと関連しますが、今日のお話からも明らかなとおり、裁判所当局による裁判官支配、統制が徹底した今日、裁判官が個人の矜持を貫き通すのはかなり難しくなっているように思われます。瀬木さん御自身は、みずからの理想を最後まで貫き通すことがおできになりましたか?
瀬木:厳しい問いかけですね。
 実務は決してきれいごとではありません。リアルに描写するなら、むしろ、泥まみれの戦場に近いでしょう。そして、そこにおいて「ささやかな正義」を実現するのも、実際には容易なことではない。最近読んだ岩明均の漫画(『雪の峠・剣の舞』〔講談社〕のあとのほうの作品)に出てきた身につまされる言葉を借りれば、結局のところ、一人の人間の力では、「城一つ、女一人」守れない、守ることは容易ではない、そういうことなのかもしれません。
 僕は、裁判官として、本書でも触れたようないくつかの悔いを残す事件を除けば、まずまず適切な訴訟指揮、和解、判決を行ってきたと思いますが、しかし、「おまえは自分が司法にかけた理想を守り切れたのか?」と問われれば、胸を張って守り切ることができたと答えるほどの自信はありません。
 ただ、先の作品の中に出てくる剣士にとって、竹刀が真剣と何ら変わりのない必殺の武器であったように、僕も、常に、真剣勝負の気概で、残された期間、研究、教育、また、各種の執筆に打ち込んでいきたいと思います。それが、せめてもの償いであり、自分自身に対する責任の取り方でもあるということです。
 ◎上記事の著作権は[現代ビジネス]に帰属します
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◇ 最高裁判所長官 竹崎博允氏が主導した司法制度改革の“利権″「裁判員制度が司法をダメにした」 
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名張毒ぶどう酒事件/「司法官僚」裁判官の内面までゆがめ、その存在理由をあやうくしているシステム  
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『司法官僚』新藤宗幸著--裁判とは社会で周縁においやられた人々の、尊厳回復の最後の機会である 

      

 『司法官僚』〔裁判所の権力者たち〕新藤宗幸著(岩波新書・819円)
 ---評者・梓澤和幸=弁護士(中日新聞読書欄2009/9/13Sun.)---
 秩序維持へ判決に影響力
 最高裁の建物の中には裁判を担当せずに司法行政に専念する裁判官が23名、その予備軍である事務総局付判事補が20余名いる。現場の裁判官も、どこか上(人事)を気にしながら仕事をしている。その空気をつくっている司法官僚の真実に迫った。実証的でしかも知的好奇心を誘う文体である。
 最高裁長官、事務総長、人事局長などの人々は(法律の建前とは別に)結局申し送りという官僚システムで選ばれていく。現場と事務総局を往来するこのコースに乗るか否かは、司法試験合格後1年半の司法修習の間に決まる。頭がよく、素直で、上司に従順な人が選ばれる傾向だという。
 司法官僚は全国の判決や訴訟指揮の情報を集める。それをもとに行使される人事権は全国3500名の裁判官たちに絶大な影響力をもつ。10年ごとの再任の有無、昇級、転勤を司法官僚が決める。事務総局が召集する「合同」と呼ばれる研究会も下級審の裁判内容を遠隔操作する結果を生む。労働事件や水害事件の事例が指摘される。次の指摘は本書の白眉である。「司法官僚として訓練された調査官が、最高裁判決に大きな影響力をもつとされ、しかも最高裁判事のうちの職業裁判官も司法官僚トップ経験者であるとき、(最高裁の)判決が秩序維持に力点をおくものとなるのも当然といえよう」
 裁判とは社会で周縁においやられた人々の、尊厳回復の最後の機会である。必死の訴えをする人々に遭遇したとき、裁判官は全人格的判断をもって救済に当たるべきだ。しかし、人々の目にふれぬところで、裁判官の内面までゆがめ、その存在理由をあやうくしているシステムがあるのだとすれば大問題である。
 政権交代とは闇を打破る時代のことであろう。本書の提言にかかる裁判所情報公開法などによって司法の実態にも光が当てられ、真の改革が着手されるべきだ。
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関連: 「広島女児殺害事件」司法官僚によって行使される人事権は全国の裁判官たちに絶大な影響力をもつ
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◇ 奥西死刑囚は“村社会”を守るための生贄にされた!? 名張毒ぶどう酒事件の闇に迫る再現ドラマ『約束』  
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