桑田真澄さんに「俺は400勝しているが、300敗している。おまえの負けなんてたかが知れている」 金田正一さん死去 2019/10/6

2019-10-08 | 野球・・・など

 2019年10月8日
 中日春秋
 不振に陥った巨人の投手桑田真澄さんが「こんな苦しい野球人生は初めて」と嘆いたことがある。一喝された。金田正一さんだった。「俺は400勝しているが、300敗している。おまえの負けなんてたかが知れている」。桑田投手を立ち直らせることになるひと言は、十七年前のスポーツ紙にある
▼正しくは298敗。金字塔とされる400勝、4490奪三振などとともに記録だ。多くは国鉄スワローズ時代に喫している。打力で見劣りし、守備力も弱い。Bクラスの常連である。失策で点を失いたくないから、三振を取る投球術を磨いたそうだ
▼積み上がった敗戦の数は反骨心の源であっただろう。剛速球と落差抜群のドロップで、だれもまねのできない安定感あふれる投球を完成させた原動力も、そこにあるだろう
▼球団の経営難を機に移籍するまで、国鉄には十五年間在籍した。離れることに無念もあったようだ。最後の五年間を巨人で過ごしたが、ロッテの監督時代を含め、常に強い者を倒そうと狙う側に身を置き続けた人だ。八十六歳で亡くなった
▼全盛期の心境を書き残している。<ワシの上にはもう誰もおらんのや…充実した感慨…限りない淋(さび)しさも感じましたよ>
▼だれも達したことのないような境地に達したプロ野球史上最高の左腕がいて、巨人には若きONがいて。二度と訪れない輝かしい時代を残した。

    ◎上記事は[中日新聞]からの転載・引用です
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昭和のエース・金田正一さん 繊細なるマウンドの大将
 日本経済新聞   2019/10/7 15:50
 400勝投手、金田正一さん(国鉄=現ヤクルト、巨人)の死去を受け、ソフトバンク球団の王貞治会長は巨人に入って初めて対戦したときの印象を「別格以上の、それこそ大別格の投手だと感じました」と語った。「大別格」でありえた理由は理想的なフォームと、豪放磊落(らいらく)な振る舞いの陰にあった繊細さだろう。
 長嶋茂雄さんのデビュー戦で4三振を奪ったときの動画を見ると、ゆったりしたワインドアップモーション、やわらかい腕の振り、下半身の体重移動にいたるまで、どこをとっても力みがない。
 巨人移籍後、初めての投球練習に立ち会ったブルペン捕手、淡河弘さんは「『じゃあ、カーブ』といって投げた球が、空に向かって飛び出したので、思わず腰を浮かせたら、ベース直前で曲がり落ちて足に当たった」と証言する。無理のないフォームから繰り出される球は直球、変化球とも切れ、その肩肘は何百球投げてもへたらなかった。
 体のケアにも細心の注意を払った。キャンプでの朝一番の仕事は買い出しで、市場で肉、魚、野菜を求めて、練習後、全ての栄養が整った鍋を作り、みんなに振る舞った。ミネラルウオーターを調達し、プロ球界で初めて飲み水にお金をかけたのは金田さん、ともいわれる。
 1951年から14年連続20勝。55年のシーズン34完投は2リーグ分立後の最多記録として今も残る。
 59年には南海(現ソフトバンク)・杉浦忠投手が日本シリーズで4連投4連勝。61年には鉄腕・稲尾和久投手(西鉄=現西武)が年間42勝を挙げている。エースが中1日、2日で回転し、勝機があれば救援も、という時代に、金田さんのフル回転も異例ではなかったが、その長寿は理想のフォームと「細心」を抜きにしては語れない。
 体のケアという点では静養先のハワイで佐々木主浩さん(横浜=現DeNA、メジャーで抑えとして活躍)とばったり会ったときに「何かにけつまずいて、ケガをしたらどうする」と、サンダル履きを叱ったという話がある。体が資本という徹底したプロ意識。そこからくるいたわりのまなざしは球団に関係なく、野球のすべての後輩たちに注がれていた。
 「(ビクトール)スタルヒンが300勝を挙げたとき、おれはまだ100勝足らずだったかな。300勝なんて無理かなと思ったのを覚えているよ」。400勝を報じる新聞にこんなコメントが残っている。レジェンドたちが競演していた時代が、確かにあった。
 勝ち投手の権利がかかった場面では、自分からマウンドに乗り込むこともあったという金田さん。頼りになるが、ちょっぴり我は強いという昭和のエース像は多分に金田さんのイメージに拠(よ)っていたとも思われる。監督に交代といわれれば素直にマウンドを降りる投手ばかりになった今、日本中が「我」にまみれてギラギラしていた時代が、妙に懐かしい。(篠山正幸)

 ◎上記事は[日本経済新聞]からの転載・引用です
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2019.10.7 05:05

さらば不滅の400勝左腕…「カネやん」金田正一氏が死去

  国鉄(現ヤクルト)、巨人のエースとして通算400勝を挙げ、1974年にロッテ監督として日本一に輝いた金田正一(かねだ・まさいち)氏が6日午前4時38分、急性胆管炎による敗血症のため、東京都内の病院で死去した。86歳。通夜・告別式は近親者のみで行われ、後日「お別れの会」を開く予定。「カネやん」の愛称でも親しまれた大投手が、天国へ旅立った。
 伝説の400勝投手も病には勝てなかった。金田氏が86歳で天に召された。
 東京都内の自宅前で会見した金田氏の長男で俳優の賢一氏(58)は「最期はスーッと。穏やかな顔でした。意識もなかったので、最期の言葉もないのですが、生きようという本能、人間の生きざまをみせられた」としのんだ。
 金田氏は体調を崩して8月上旬に入院。集中治療室(ICU)に入った時期もあったが、容体が回復し、近日中に一般病棟に移れる状況にあった。病に伏しても野球、特に原辰徳監督が復帰し、5年ぶりの優勝を果たした古巣の巨人のことを気にかけていたという。
 「まだしゃべれるときに病院の人に食べたい物を聞かれ、『ふぐ』と言ったそうです。名前を聞かれると『長嶋です』って。これは定番(の冗談)らしい。でも、だんだんと意識混濁というか…。最後は名前を呼び続けるだけの生活でした」
 入院後は鼻から栄養を取る状況が続き、ここ数日間は賢一氏が病院に泊まり込んでいた。前日5日は日本がサモアを破ったラグビーW杯のテレビ中継を病室で流し、6日午前3時40分、家族にみとられながら逝った。医師による確認は4時38分だが「妹が『脈がない。亡くなった』と言った時間が3時40分。(背番号と同じ)34にしたかって…」。この日の午後、生前を知る関係者が金田氏の自宅を訪れ、故人に別れを告げた。
 1950年に愛知・享栄商高(現享栄高)を中退して17歳で国鉄(現ヤクルト)入り。左腕で長身から投げ下ろす速球と大きなカーブを武器に活躍し、2年目から14年連続で20勝以上を挙げた。
 51年の大阪(現阪神)戦で無安打無得点試合、57年の中日戦で完全試合を達成。58年の開幕戦では立大から巨人に入団した黄金ルーキー、長嶋茂雄のデビュー戦で4打席連続三振の洗礼を浴びせた。
 「最高のコンディションで仕事に臨む」という哲学で徹底して体の手入れを行い、お金も惜しまなかった。飲料水はプロ入り間もない頃からミネラルウオーター。布団と枕は最高級品で、アンダーシャツは特注のカシミヤ製、自家用車は事故のことを考えて丈夫な外国製だった。また、自分の子供さえも左腕で抱くことはなかった。賢一氏は「父の左腕を引っ張ったら、母親に怒られた」と回想した。
 弱小球団だった国鉄で過ごしながら球界最高の投手として君臨し、強烈な存在感で「天皇」とまで呼ばれた。65年に巨人へ移籍。厳しい鍛錬で自らを追い込む姿はナインの模範となり、同年からの9連覇の礎になった。69年に前人未到の400勝に到達して引退。背番号34は巨人の永久欠番となった。
 勝ち星や4490奪三振など、数多くのプロ野球記録を樹立。開幕投手は史上最多の14度務めた(国鉄で10度、巨人で4度)。打撃にも優れ、通算38本塁打、177打点を挙げた。
 引退後はタレントとしても活動。“カネやん”の愛称で親しまれた。73年にロッテの監督に就任すると、自ら三塁コーチスボックスに立ち、「カネやんダンス」などの派手なパフォーマンスで、パ・リーグの観客動員に貢献。判定に不服があると審判を蹴飛ばすこともあった。74年には日本一に輝いた。
 実弟の金田高義、金田星雄(ともに元国鉄)、金田留広(東映など。2018年に死去)も元プロ野球選手で、おいに金石昭人(元広島など)がいる。78年に日本プロ野球名球会を設立し、2009年まで初代会長、代表幹事を務めた。今後は天国から、球界の発展を見守る。

 ◎上記事は[サンスポ]からの転載・引用です
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