【伊良部秀輝 哀しき最速エースの肖像】生き別れた父を探して 父との対面と突然の別れ 田崎健太

2014-06-11 | 相撲・野球・・・など

感動読み物 この男がいたからダルビッシュ、田中はメジャー入りできた  伊良部秀輝 哀しき最速エースの肖像 前編 生き別れた父を探して
 現代ビジネス 2014年06月11日(水)「週刊現代」 田崎健太ノンフィクション作家
 何かあるとすぐ、ふてくされた。GMにも噛みついた。でも、誰よりも速かった。日本最速エースは周囲と衝突しながらメジャーを目指し、道を切り拓いた。だが、夢見た舞台で待っていたのは—。

*人生最後のインタビュー
 ロサンゼルス市内の和食屋に現れた伊良部秀輝を見て、ぼくは想像していた人間とはずいぶん印象が違うと思った。
 190㎝を超える身長、大きな上半身、顔つきはテレビで何度も見てきた伊良部だった。ただ、顔色が青白く、マウンドで打者と対峙していたときのようなふてぶてしさはなかった。
 日付は'11年5月26日。引退後、ロサンゼルスで暮らしていた伊良部への取材は4時間にも及んだ。
 一般的に伊良部は扱いづらい男と思われており、事実、資料集めをしていても、彼のインタビュー記事は数が限られていた。
 千葉ロッテ・マリーンズからニューヨーク・ヤンキースへの移籍で揉めた際の、ふてくされた顔を思い出す人もいるだろう。ヤンキース時代にはオーナーだったジョージ・スタインブレナーから、緩慢なプレーを指して「太ったヒキガエル」と呼ばれて、臍を曲げたこともあった。
 「勝手に俺の写真を使うな」
「お前、名刺を出せ。その裏に実家の連絡先も書け」
 そう報道陣に食ってかかり、差し出された名刺を破ったり、ペンを奪い取って真っ二つに折って捨てたりした。ボールを投げつけたこともあった。
 ところが、実際の彼は穏やかで饒舌だった。
 「どうして軽く投げて、あんなに速い球が投げられるんですか?」
 伊良部は帽子を飛ばし、腕をちぎれんばかりに振って投げるという感じではない。軽やかに投げているように見えるのだが、腕から放たれた球は時速150kmを超えていた。
 ぼくの問いに伊良部はフフフと声を殺して笑った。
 「途中までは軽く投げてますよ。力を入れるのは最後、ボールを放すときだけです。それ以外は力を入れても意味がないというか、腕のスイングが遅れたらいけないんで。技術的な話をしますと、できるだけ腕が見えないように、腕を隠す」
 伊良部は右腕を背中の後ろから素早く振った。
 「球の速さよりも球の出所が見えないほうがずっと大切ですよ」
 野球の話は尽きなかった。少々、元気がないことが気になったが、頭の回転が速く、愉快な男だった。
 ただ、一度だけ、彼が不機嫌になった場面があった。それは実の父親に関する質問をしたときだ。
 彼は子どもの頃、実の父親と生き別れている。父親はアメリカ人だった。伊良部がロッテと激しく揉めてもアメリカ行きにこだわったのは、父親を探すためだと報じられていた。
 「誰がそんなことを言ったんですか?」
 伊良部の剣幕にぼくはたじろいだ。
 「そういう報道が沢山ありましたが……」
 「それは事実ではないです」
 きっぱりと言い切った。
 「だってぼくは本当の父親が名乗り出てくるまでは、自分の父親がアメリカ人だと知らなかったんですもの」
 知らなかったんです、ともう一度繰り返した。
 「アメリカに行って初めて知ったんです」
 「どうやって本当のお父さんがアメリカ人だと知ったんですか?」
 「いきなり父親だと名乗り出てきたんです。ぼくは確認しようがないから、母親に連絡したら、そうだって。ぼくがアメリカに行ったのは父親を探しに行くためではないです。誰がそんなことを言い出したのか分かりませんけれど」
 「全く違うんですね」
 「……面白いですね、ぼくがアメリカに行きたかった理由が父親に会いたかったからだなんて」
 冷たく笑った。
 伊良部の姿形は子どものころから周りと違っていたと聞いていた。この答えには納得できなかったが、話題を変えることにした。
 翌日は撮影のために、西海岸らしいビーチへ行き、その後、野球用のグラウンドで、ぼくとキャッチボールをすることになった。
 「本当に投げるんですか?」
 彼は最初、乗り気ではなかった。それでも球の感触を確かめるように、ゆっくり投げ始めると、止まらなくなった。グローブから鋭い音がした。ずっしりと重い、鉛の感覚が手に残った。
 カメラマンが「もういいですよ」と言ってからも、伊良部はしばらくキャッチボールをやめようとしなかった。ボールを投げることが楽しくて仕方がないようだった。
 別れ際、「またロサンゼルスに来ます。話を聞かせてくださいね」とぼくは声をかけた。
 「いいですよ。連絡ください」
 伊良部はにこっと笑った。しかし、その約束は果たされなかった。この取材から約2ヵ月後、伊良部は自らの命を絶った。ぼくは彼にきちんと話を聞いた最後の人間となった—。
*「大リーグで親父を探す」
 伊良部は少年時代を、兵庫県尼崎市で過ごしている。ボーイズリーグ『兵庫尼崎』でバッテリーを組んでいた高島正春は、中学1年の時、伊良部の家へ泊りに行ったときのことをはっきりと覚えていた。6畳ほどの小さな部屋が二間あるだけのアパートだった。食事の前に一緒に銭湯へ行くことになった。服を脱いで裸になった伊良部は「見てみ」と股間を指さした。陰毛がきらきらと光っていた。透明に近い金色だった。
 「実は俺のホンマの親父はアメリカ人やねん」
 高島は一緒に住んでいる「父親」と伊良部が似ていないことは気がついていた。
 「金髪のアメリカ人らしい。将来大リーグへ行って、親父を探すつもりや」
 伊良部は中学生時代から、メジャーリーグの舞台に立つことを考えていたのだ。
 その後、伊良部は野球留学で香川の尽誠学園高校に進む。一つ下の学年で、寮で同じ部屋だったのが、佐伯貴弘だった。
 佐伯は後に横浜ベイスターズで活躍し、現在は中日ドラゴンズの二軍監督を務めている。
 佐伯も高校時代、伊良部が「大リーグでやりたい」と言っているのを耳にしている。しかし、当時の高校球児にとってメジャーリーグは遠い世界だった。どうやって行くのだろうと佐伯は思っていた。
 伊良部は高校2年生、3年生と連続して夏の甲子園に出場。'87年のドラフト会議でロッテ・オリオンズから1位指名を受けた。
 しかし、伊良部は浮かない顔をしていた。
 「ロッテに行くんですか?」
 佐伯が尋ねると、「行かなしゃーないやろ」とぶっきらぼうな答えが返ってきた。ロッテは意中の球団ではなかったが、拒否すればメジャーリーグへの道が遠くなる。アメリカに行くためにロッテに入るのだと佐伯は理解した。
 しかし—メジャーどころか、伊良部はプロでなかなか結果を出せなかった。160km/h近い速球を投げようが、プロの打者はストレートが来ると予測できれば、どれだけ速くともバットに当てることはできる。伊良部は変化球でストライクを取れず、ストレートを狙い打たれた。
 プロ入り5年め、'92年シーズンは1勝もできず、0勝5敗で終わった。伊良部は野球を辞めることさえ考えるようになっていた。
 転機が訪れたのは、'93年8月のことだった。香川県で行われた日本ハム戦で、伊良部は先発の牛島和彦に代わってマウンドに上がった。伊良部は牛島から球を受け取ると「ウシさん、ぼくのどこが悪いか見ていてくれませんか?」と頼んだ。
 伊良部より8歳も年上だということもあって、二人に接点はなかった。ほとんど口を利いたことのない自分に話しかけてくるというのは、よほど切羽詰まっているのだなと牛島は思った。
 その試合以降、伊良部は牛島の自宅に通い、酒を飲みながら野球の話をした。ときに、窓ガラスを鏡代わりに、シャドウピッチングをすることもあった。
 「なんでウシさんの133km/hに詰まるのに、ぼくの155km/h、156km/hが打たれるんですか?」
 伊良部の問いは直截的だった。体重移動、ボールを放すタイミングがすべて合うと「一番いいところでピチッとボールに指がかかって力が入る」のだと牛島は表現した。そのためには、フォームを一定にする必要がある。
 「スムーズなフォームで投げると、体重移動が巧くいく。そうすると気持ち良く腕が触れる。違和感がない」
 こうしたやり取りは毎晩2時、3時まで続いた。やがて伊良部は牛島の家を訪れる時に、パジャマを持参するようになった。伊良部が登板した試合のビデオを見ながら、打者の心理を解説することもあった。
*ヤンキースの黄金時代に
 牛島の助けを借りて、伊良部は覚醒した。
 翌'94年シーズンに15勝10敗、最多勝と最多奪三振のタイトルを獲得。'95年、'96年はそれぞれ11勝、12勝を挙げて、2年連続最優秀防御率を獲得。日本を代表する投手となった。そして'97年シーズン、念願のニューヨーク・ヤンキース入りを果たす。
 このとき、ヤンキースは黄金時代を迎えようとしていた。特に、'98年シーズンのヤンキースは圧倒的な強さを見せつけた。2位のボストン・レッドソックスに22ゲームもの大差をつけ、114勝48敗というアメリカン・リーグ記録となる勝率で優勝したのだ。
 ヤンキースの力の根源は盤石の投手陣だった。デビッド・コーン、アンディ・ペティット、デビッド・ウェルズ、オルランド・ヘルナンデス、そして伊良部。クローザーにはマリアーノ・リベラがいた。ワールドシリーズでもサンディエゴ・パドレス相手に4連勝、無敗でワールドチャンピオンに輝いた。
このシーズンのヤンキースは史上最強のチームと称えられている。経験ある選手と若手選手、パワーとスピード、登録選手25人が自分の役割を理解している、完璧に近いチームだった。
 伊良部は投手のリーダーであるコーンからこんな言葉をかけられたことがある。
 「俺たちは車で言えば、タイヤみたいなものだ。一本でも空気が抜けていたら優勝できない」
 先発投手陣を自動車のタイヤにたとえたのだ。最強チームで、1年間を通して伊良部は先発ローテーションを守り13勝を挙げた。アメリカで最も人気のある球団、ヤンキースの中心選手となった伊良部の名前は、広く知られるようになった。
 〈伊良部はアメリカの軍人だった実の父親と生き別れになっている〉
 そんな新聞記事がアメリカで掲載されて以降、何人か「自分が伊良部の父親である」という男が名乗り出てきていた。
 遠征先のデトロイトで、通訳の石島浩太はクラブハウスの職員から「『伊良部に渡してくれ』と頼まれた」と厚い封筒を渡されたことがあった。ある老婦人が持ってきたものだという。
 封筒には英文の手紙が添えられており、〈私の兄があなたの父親だと思います。二人が会える場所を作りたい。外で待っているので出てきてもらえますか〉と書かれていた。封筒にはモノクロ写真がいっぱい詰まっていた。伊良部はちらりと手紙を見てから、写真を見た。背格好、顔つきが伊良部によく似た大柄の男性が写っていた。
 「似ているね」
 のぞきこみながら、石島が感想を漏らした。
 「くりそつですね」
 伊良部は、けらけらと笑った。
 「どうする?会ってみる?」
 「いいです。これ、返しておいてください」
 その後、ニューヨークポストの記者を通じて「私の弟が伊良部の父親かも知れない」という人物も接触を図ってきたが、名前と写真を一瞥しただけで会おうともしなかった。
*5月5日の記憶
 石島の後を受けて伊良部の通訳となったジョージ・ローズは伊良部から父親の話を聞いたことがあった。
 母が沖縄で暴力事件に巻き込まれたときに助けてくれたのが父だった。父はアメリカの軍人で、困っている人を放っておけないやさしい人だった—母から聞いたという話から、伊良部が父を尊敬している様子はうかがえたが、「会いたい」と口にしたことはなかった。
 そして'99年春—フロリダ州タンパで行われていた春季キャンプにも、父親を名乗る人物から手紙が届けられた。球団職員から手渡された手紙を一読すると、伊良部は、何かが爆発したような、はっとした顔になった。
 差し出し人は〈スティーブ・トンプソン〉。
 母親から実の父親だと教えられていた名前だった。
 伊良部はすぐに日本の母親に電話して、手紙の内容を確かめ、トンプソンと会うことにした。
 トンプソンはボビー・バレンタインのインタビュー記事で伊良部秀輝という投手の存在を知った。
 かつてバレンタインはロッテの監督を務めており、伊良部のことを名投手、ノーラン・ライアンになぞらえて「ジャパニーズ・ノーラン・ライアン」と評していた。一体、どんな投手なのだろうと思っていたのだ。
 '97年7月10日、トンプソンはいつものように大好きなヤンキース戦にテレビのチャンネルを合わせた。アナウンサーが、この日が初登板となる伊良部の経歴を説明していた。
 —5月5日。
 その誕生日を聞いて、トンプソンの記憶が蘇った。
 アメリカ軍の気象予報士だったトンプソンは、'66年から沖縄に駐屯していた。'68年から'69年に掛けてベトナム戦争に派遣されている最中に、沖縄で付き合っていた日本人女性が子どもを産んでいた。その子の誕生日が5月5日だった。
 あわててテレビに顔を近づけて、マウンド上の投手の顔をまじまじと見た。アナウンサーは伊良部が兵庫県生まれだと続けた。
 「違う」
 トンプソンは思わず声をあげていた。
 (沖縄のコザで産まれたんだ)
 伊良部の顔つきは、若き日の自分に似ていた。
 「ジャパニーズ・ノーラン・ライアン」は99パーセント、沖縄で生き別れになった息子だ。トンプソンは思い悩んだあげく、キャンプ地に伊良部を訪ねることにしたのだった。
 しかし、血を分けた実の親子の再会はとても劇的とは言えなかった。その再会は伊良部の心をかき乱し、思わぬ騒ぎを引き起こすことになる。(以下次号)
<筆者プロフィール>
 たざき・けんた/'68年、京都生まれ。'99年に小学館を退社後、ノンフィクション作家に転身。伊良部の最後のインタビュアーとして彼の実像を伝えるべく日米各地で取材。『球童』(講談社)を上梓した
 「週刊現代」2014年5月31日号より

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感動読み物 この男がいたからダルビッシュ、田中はメジャー入りできた 伊良部秀輝 哀しき最速エースの肖像 後編 父との対面と、突然の別れ
 現代ビジネス 2014年06月12日(木)週刊現代 田崎健太ノンフィクション作家
周囲と衝突を繰り返しながらも、念願のメジャーの地を踏んだ。移籍先は史上最強とうたわれたヤンキース。「父を探す」という中学時代からの目標も3年目で達成。だがそれが最速王の絶頂だった。

*果たされなかった約束
 北緯60度に位置するアンカレッジは9月初旬でも、すでに冬の匂いがしていた。
 スティーブ・トンプソンはぼくが泊まっているホテルまで来てくれることになった。ロビーで待っていると、冬服を着込んだ客がぽつりぽつり現れた。何人目だったろうか、足に鉛をつけたようにゆっくりと歩く、白髪の老人が入ってきた。目が合った瞬間、この人が伊良部秀輝の父親だと思った。かすかに伊良部の面影があったのだ。
 トンプソンは1935年4月16日、シカゴで生まれている。生後3ヵ月で一家はオレゴン州ポートランドへ移った。そこで父親のデビッドから野球の手ほどきを受けた。自動車整備士のデビッドはかつて野球選手となることを夢見て、ボストン・レッドソックスの入団テストを3度、受けたことがあった。
 ところが、捕手だったトンプソンは本塁に飛び込んできた走者と衝突して、肩を脱臼、野球を早々に諦めた。その後、18歳で空軍に入隊。1958年に羽田の空軍基地に赴任している。横田基地勤務を経て、1962年にアメリカへ帰国した。再び日本に戻ることになったのは1966年のことだった。日本を含めた東アジア地区はアメリカにとって重要な軍事拠点となっていた。1960年から始まったベトナム戦争が激化していたのだ。今度の赴任地は沖縄—そこで伊良部の母親、和江と知り合うことになる。出会った場所を尋ねるとトンプソンはこう答えた。
 「コザのレストランだ。そこで彼女は働いていた」
 第二次世界大戦後、アメリカ軍は沖縄本島中部の越来村に駐屯した。通称「キャンプ・コザ」である。周囲にはアメリカ軍の兵士を当て込んで、ホテル、飲食店が立ち並んでいた。
 「焼き鳥や餃子のような料理を出す店だった。客には日本人もいた。多くはアメリカ人だったけれどね。コザのメインストリートから少し外れた、飲み屋街にあった」
 店へ通い、親しくなったのだと付け加えた。
 その後、1968年からトンプソンは気象予報士としてベトナムへ向かった。飛行機、あるいはヘリコプターの操縦士のために様々な情報を集めて天候を予想するのが気象予報士の職務である。
 トンプソンは自分の息子、伊良部秀輝が産まれたことを沖縄からの手紙で知った。
 「和江はあまり英語を話せなかった。和江の友だちのノリコという女性が代わりに手紙を書いてくれたようだ。ノリコは多少英語が出来た」
 約1年のベトナム駐屯の後、トンプソンは沖縄に戻った。すぐに和江に会いに行き、伊良部を抱いて散歩に出かけた。伊良部は年の割に大きく、ずっしりとした重みがあった。トンプソンが指を突き出すと、強く咬んだ。その痛みがトンプソンには嬉しかった。
 伊良部を抱きながら、公園でぼんやりとしていると、中学生ほどの子どもたちがユニフォームを着て試合をしていた。その姿を伊良部は興味深そうに見ていた。野球に興味があるようだった。その顔を見て、父親のデビッドを思い出した。
 1964年に亡くなったデビッドは息子と同じ5月5日生まれだったのだ。
 (この子は父さんの生まれ変わりだ)
 そう思うと愛しさが増した。1969年末、トンプソンはアメリカに帰国することになった。
 「すぐに沖縄に戻って来る」
 トンプソンは和江に約束した。しかし、約束は守られなかった—。
*テレビの中に「息子」がいた
 帰国後の話になると、トンプソンの口は極端に重くなった。
 当時、アメリカでは反戦運動が盛んになっていた。アメリカの空港に着くと、フラワーチルドレンたちが待ち構えており、兵士たちに向けて唾を吐いた。
 反戦運動はアメリカ全土に広がっていた。アメリカのために戦ったのに国全体を敵に回しているような気分だった。やがてトンプソンは酒に溺れるようになった。ウィスキーで頭を麻痺させないと眠れなかったのだ。酒量はどんどん増えて行った。
 「テレビからベトナムの映像が流れてくるとすぐに消した。戦争映画など一度も見ていない。ベトナムではたくさん人に会ったのに、一人の名も覚えていない」
 一人もだ、と繰り返した。
 「私は何度も拳銃を頭に突きつけて死のうと思った。母が気づいて止めた。自殺をするのは臆病者だとね」
 このことを話すのは君が初めてだと小さな声で言った。
 「一年ぐらいは和江と連絡を取り合っていたし、お金を送っていた。それからしばらく記憶が飛んでいる。私は心を失ってしまった。精神状態が落ち着いてから平仮名と片仮名を使って和江に手紙を書いた。しかし、返事はなかった」
 実はトンプソンにはアメリカに別居中の妻がいた。妻とは1972年に離婚。その翌年に除隊し、軍の食糧関係の職に就いた。'93年にはタイ出身の女性と再婚している。
 息子・秀輝との再会がかなったのは、'99年春のことだった。
 その2年前の7月、ヤンキースファンだったトンプソンは伊良部の初登板をテレビで観ていた。マウンド上の「ジャパニーズ・ノーラン・ライアン」は自分によく似ていた。そしてアナウンサーが読み上げた彼の誕生日—5月5日を耳にして、「99パーセント、あの大きな赤ん坊だ。自分の息子だ」と確信した。
 思い悩んだすえ、トンプソンはヤンキースが春季キャンプを張っていたタンパ(フロリダ州)へ向かった。
 しかし、伊良部と会ってみると話は全くはずまなかった。
 伊良部の顔は強ばり、目は泳いでいた。トンプソンをまともに見ることもできなかった。
 伊良部は何を話していいのか分からないようだった。伊良部は突然、トンプソンにたずねたことがあった。
 「ここまで来るのにどれくらいおカネがかかったんですか?飛行機代とかレンタカー代とか、かかってますよね」
 トンプソンは質問の意味が分からなかったが、アンカレッジとタンパの往復運賃を聞かれたのかと思い、その金額を答えた。すると、伊良部は財布を取り出して、札を数えはじめた。
 「おカネは必要ない。私はそんなつもりで来たんじゃない」
*トンプソンは激しく首を振った。
 「君を見捨てたことは悪かったと思っている。すまない」
 伊良部は「分かりました」と答えた。
 「しかし、どうしてしばらく連絡が途切れてしまったのかを説明できなかった。自分の頭がさまざまなことを受け付けなくなったこと、戦争によるPTSDに苦しんでいるんだ、とね」
 PTSDとは、心的外傷後ストレス障害のことだ。強いストレスを受けた後に起きる精神障害を意味する。戦争から30年以上経っても、戦争の夢を見た。戦闘の場面が頭に急に蘇り、苦しむこともあった。
 二人の壁となったのは言葉だった。伊良部はほとんど英語を話すことができず、ヤンキースの通訳、ジョージ・ローズを通じて会話するしかなかった。
 「ジョージはヤンキースに雇われた野球の通訳だ。私の心の深い部分まで通訳してもらうことは気が引けた。だから秀輝は私に捨てられたと思っただろう」
 トンプソンは哀しそうな顔で下を向いた。
*燃えつきてしまった
 実の父親と会ったことは、伊良部の心に強い影響を与えていた。トンプソンがタンパを去った後、伊良部の目から力が失われ、ぼんやりすることが多くなった。集中力の欠如はプレーに影響した。そして「事件」が起こる—。
 春季キャンプ終盤に行われたオープン戦で伊良部が一塁のベースカバーに入らなかったのだ。
 そのプレーを見て怒ったのが、ヤンキースの名物オーナー、ジョージ・スタインブレナーだった。緩慢なプレーに怒り、「太ったヒキガエル」と罵倒した。
 伊良部は臍を曲げて、次の遠征先に同行しなかった。そのため、'99年シーズン開幕直後の先発ローテーションからしばらく外れることになった。
 '99年8月、伊良部はシアトル・マリナーズとの試合のためシアトルを訪れている。シアトルとトンプソンの住んでいるアンカレッジは頻繁に飛行機が飛んでいる。そこで伊良部はトンプソンに試合のチケットを送ったのだ。マリナーズとの4連戦で、伊良部が登板することはなかったが、親子はシアトルのシーフードレストランで一緒に昼食をとることになった。
 伊良部はほとんど話をせず、通訳のローズが気を遣って様々な話題を振った。二人の距離が近づいたのは、煙草を吸うために外に出た時だった。煙草を切らすことができない二人は、並んで煙草をふかした。しかし、ぎこちない、途切れた会話しかできなかった。
 このとき、トンプソンは日本語をきちんと勉強しようと決意した。彼の心を解きほぐすには自分が日本語を覚えるしかなかった。翌年からトンプソンは地元のアンカレッジ大学の日本語講座に通うことにした。
 このころから、伊良部の妻・京淑と電話やメールで連絡を取るようになった。結婚式の写真や孫の写真を送ってもらった。トンプソンの子どもは伊良部だけだった。孫の写真を大切にアルバムに貼って、時間があれば眺めた。
 一方、トンプソンと会って以来、伊良部の成績は下降線を辿った。出会った年、'99年シーズンこそ11勝7敗、防御率4・84とまずまずの成績を残し、ヤンキースのワールドシリーズ制覇に貢献した。しかしその後、あれだけこだわったヤンキースとの4年目の契約を破棄してモントリオール・エクスポズへ移籍。新天地には2年間在籍したが、わずか14試合の登板に終わった。2勝7敗、防御率6・69という成績だった。次の移籍先のテキサス・レンジャーズではリリーフに転向するも、3勝8敗16セーブ、防御率5・74と調子は上がらず、シーズン終了後に自由契約となった。
 その後、帰国して'03年に阪神で13勝を挙げたが、活躍は長続きせず2年で戦力外。独立リーグに籍を移しても、輝きは取り戻せなかった。「大リーグへ行って、親父を探すんや」。中学時代から公言していた目標を達成して、燃え尽きてしまったかのようだった—。
 そして'11年7月。
 トンプソンは伊良部が自殺したことをテレビのニュース速報で知った。レンジャーズのキャンプを訪ねた際に言葉を交わしたのが最後となった。トンプソンはぼくの顔を見た。
 「涙がボロボロと止まらなかった。秀輝の死は私の身体に影響を与えた。私は体調を崩した。肺がんを患い、手術を受けた。ただ、君から秀輝のことを調べているというメールをもらった時は嬉しかったよ。彼のことを話せるなんて光栄だ。これまで秀輝に話していなかったことまで君に話そうと決めたんだ」
 自殺の約2ヵ月前、最後のインタビュアーとなったぼくが伊良部に話を聞いたとき、こんなやり取りがあった。普段、何をしているのか訊ねると、「時々、近くに住んでいる子どもに野球を教える程度で何もしていない」と答えた。
 「悠々自適なんですね。伊良部さんはこれまで何十億も貰っていますし、一生働かなくてもいい……」
 「どうなんでしょう」
 伊良部はぼくの言葉を遮った。
 「どうなんでしょう、働きたいと思っていますよね」
 動揺した声だった。
*「日本に帰りたい」
 「ミッドライフクライシスになっちゃった。なんていうのかな、虚無感。心に穴が空いたみたいな。それが最近つらいですね。何もしないで、ぼうっとしているでしょ。何もしない自分に罪悪感を感じる。何もしないと世の中から取り残されていってしまうみたいな」
 ミッドライフクライシスとは中年になり精神的、肉体的に衰えを感じた人間が精神の安定を崩してしまう症状だった。
 「朝5時から6時ごろ起きて、パソコンに向かってメールを見たり。音楽聞いて、日本のテレビ番組をユーチューブで見たり……。引きこもりですかね。毎日、何もしていないですよ」
 伊良部は自嘲気味に笑った。
 「このままアメリカに住むつもりですか?」
 「家族がこちらの生活がいいと言っているんで。ぼくとしては日本に帰りたいです。英語も話せないし。もし話せたとしても日本がいいですね。日本が好きですから、テレビ番組も面白いし、四季もあるし。
 人と会わないといけないという気持ちはあるんです。心理学者によると人間の本能の中に集団を求めるものがあるらしいですね。二人以上の集団を求めるらしいです。それが叶わなかった時は、もやもやしてしまう」
 引退後、ロサンゼルスに住んでいた伊良部は酒に浸ることが多くなっていた。妻が家で酒を飲むことを嫌がったため、リカーショップでビールをケースごと買い込み、カラオケボックスへ一人で入り、酒を飲むこともあった。
 酔っぱらうと、日本にいる知人に国際電話をかけて、弱音を吐いた。
 「奥さん、家を出ちゃったんですよ」
 「酒飲むなって言われてたのに、飲んで家に帰ってな。飲んだでしょと言われたんで、うるさいんじゃと怒鳴ってしもうた。もう怖いから出て行くって」
 泣いて電話することもあった。「日本に帰ってこい」と友達に諭されても、家族とのつながりが切れるのが怖いのか、
 「死ぬほうがましや」
 と何度も死と言う言葉を口にしたという—。
 ぼくとのやりとりで印象に残っている言葉がある。温暖なロサンゼルスでは、若くして財産を作り仕事を辞めて、悠々自適の生活を送っている人間も少なくない。しかし、自分はそんな生活はできないと伊良部は首を振った。
 「人生のチャプター・ツー(第二章)がある人は羨ましいですよ」
 伊良部は野球のなくなった「第二章」の頁をうまく開けず戸惑っていた。
 「いずれ日本に帰ります。それは頭の中で決めています。ここに永住する気はないんで」
 伊良部が念願の日本に帰国したのは、死後、遺骨となってからだった。
  <筆者プロフィール>
たざき・けんた/'68年、京都生まれ。'99年に小学館を退社後、ノンフィクション作家に転身。伊良部の最後のインタビュアーとして彼の実像を伝えるべく日米各地で取材。『球童』(講談社)を上梓した
「週刊現代」2014年6月7日号より

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◇ どんなにか野球をやりたかったことだろう。伊良部よ、伊良部秀輝よ。2011.07.30
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「煙の中から投げたい」追悼・伊良部秀輝 2011-08-03 

    

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◇ (動画)入団、結婚…http://www.youtube.com/watch?v=3D36
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