世相と心の談話室

世の出来事に関する話、心理学的な話、絵と写真をもとにした雑談などのコーナーがあります。

愛国心=その原点

2005年04月09日 12時29分20秒 | 世の出来事放談
歴史作家司馬遼太郎氏は、歴史作家になった動機について次のように語っていた。敗戦直後のことである。浜辺に跪き、首をうなだれて泣きながら、心でこう叫んだ。「いつから日本人はこんな馬鹿な民族になったのだ。昔はもっとすばらしい日本人がいたはずだ!」「これが、私が歴史を目指すきっかけになった出来事です」と司馬氏は語っていたように記憶している。私はこの言葉に「愛国心」の原点を感じる。
日本の敗戦から60年。当時の身を裂かれるような虚無感を体感している人は少なくなっている。亡国の念。これを強烈に感じた人にしか、真の愛国心は感じられないのではないかと思う。司馬氏の言葉を奇異に思う人がいるかも知れない。「それまでの国粋主義に嫌悪を示しながら、日本の歴史に価値を見出そうとするのは、変形ナショナリズムである」と。しかし、司馬氏の歴史観は、一貫して主義主張を退けた客観的な歴史眼をもって、生身の日本人、生活に根ざした風土、等身大の歴史を描いている。私は、司馬氏の小説によって、日本人を見直し、日本の歴史と風土・文化を愛することができたように思う。
そこには、国粋主義も反国粋主義も、天皇制崇拝も反天皇制もない。それらを超えたところに、日本という国を思う心が残る。愛国心とは、国粋主義や反国粋主義といった、国を規定するあらゆる概念を超越したところに存在するものだと思う。

愛国心についての色々な意見を読んでいると、愛国心=国粋主義の図式から1歩も出ていない。いまだ戦前の図式に我々は洗脳されているように思う。国粋主義について、ある定義を紹介しておく。
 《ナショナリズム(国粋主義)とは、1つの文化的共同体(国家・民族など)が、自己の統一・発展、他からの独立をめざす思想または運動である。国家・民族の置かれている歴史的位置の多様性を反映して、国家主義・民族主義・国民主義、場合により国粋主義とされる場合もある。》丸山眞男は「イデオロギーの政治学」のなかで、「民族意識が文化的な段階から政治的な、したがって『敵』を予想する意識と行動にまで高まったときにはじめて、出現する」と言っている。要するに、国粋主義には「敵」が必要だということ。その「敵」の存在に対抗するためには、自国の民衆を結集させる必要がある。そこに登場するのが愛国心である。しかし、それは国粋主義者が自らの理念を浸透させるために使用する道具にしか過ぎない。この場合の「敵」は、国外ばかりでなく国内の敵をも意味している。
愛国心について、いろいろなサイトを読んでいたとき、「ネットで百科」のなかに次のような表記があったので紹介しておきたい。私が感じている愛国心とほぼ同じものである。《愛国心とは,人が自分の帰属する親密な共同体,地域,社会に対して抱く愛着や忠誠の意識と行動である。 愛国心が向かう対象は,国 country によって総称されることが多いが,地域の小集団から民族集団が住む国全体までの広がりがある。この対象が何であれ,それはつねにそこに生活する人々,土地,生活様式を含む生活世界の全体である。また愛国心の現れ方は,なつかしさ,親近感,郷愁のような淡い感情から,対象との強い一体感あるいは熱狂的な献身にいたるまで,幅がある。すなわち愛国心は,本来は愛郷心,郷土愛,あるいは祖国愛であって,地域の固有の生活環境の中で育まれた心性であり,自分の属している生活様式を外から侵害しようとする者が現れた場合,それに対して防御的に対決する〈生活様式への愛〉である。どの時代どの地域にも見られるこの意味の愛国心に対して, 19 世紀に成立したナショナリズムは,個人の忠誠心を民族国家という抽象的な枠組みに優先的にふりむけることによって成立する政治的な意識と行動である点において区別される。しかしながら世界が国家を単位として編成されるようになると, 愛国心も国家目的に動員されたり,逆に国家に抵抗する働きを見せたりすることで,国家との関係を深めた。そのうえ日本では,愛国心は近代において権力によって促成栽培された歴史的経緯があるから,日本語の〈愛国心〉には国家主義的な意味合いがつきまといがちである。》

さて、国粋主義に傾いた人々の意見を聞いてみると、一部頷ける部分があるにせよ、大筋の主張は、ほとんど受け入れ難いものばかりである。私の立場は、「個人の自由と責任が国家より優先する」というものである。個人は国家や社会との関係のなかで存在していることは自明の理である。大切なことは、国のために忠誠を尽くすことでなく、忠誠を尽くしたいと思える国家の指導者が現れるかどうかである。個人の自由と責任において、自らの存在を脅かす国家指導者が出現すれば、躊躇なく戦うであろう。母国のためという大義名分をもって・・・・・。個人は日本の歴史との関係のなかでも存在している。その歴史から個人が何を受け取るかは、個人の自由である。しかし、それを未来志向のなかで展開するには、歴史的事実が示す暗部も光明も、全てを自分と世界の関係のなかで租借するという謙虚さは持ちたいと思っている。けだし、国粋主義者は全くと言って良いほど、戦前の暗部には言及しない。そんな謙虚さを欠いた意見を信じる気にはなれない。
この立場は、反国粋主義者の人たちにも当てはまる。歴史的事実の暗部ばかりに固執して、それを突き抜けたところに光明を見出そうとしない。この反国粋主義者への批判を展開することが、自分の愛国心を明確にするのに適しているので、しばらく反国粋主義者への批判を述べてみたい。
これらの人々は、相変わらず、国旗の掲揚・君が代斉唱反対、天皇制反対を唱えている。天皇制について言うと、私は天皇が日本国の「象徴」であることで良いと思っている。それでは、「象徴」とは何か。心理学辞典を見ると、次のように記述されている。
「象徴(シンボル)とは,対象を代理し,表象するものであり,意味を伝えるもの(能記と言う)の一つである。その特徴は,指し示される対象(所記という)と何らかの点で類似性は残しながらもすでにそれからは分化しているということである。したがって,直接的・具体的な現実に拘束されず,仮想的な対象や眼前に存在しない対象を表象することも可能である。ただし,象徴は,しばしば対比される記号(サイン)と比較すると,社会的な慣習や規約への立脚度が必ずしも高くなく,個人的な色彩が相対的には強い能記の体系であるといえるので,相手によっては象徴が表象する対象が何であるのかということが十分に伝わらないこともありえる。」
 従って、「象徴」に反映される意味は様々である。その様々な意味から、「指し示される対象」像が浮かび上がってくる。それは時代や社会の変化とともに違ってくるはずである。
 「日の丸・君が代」は日本の象徴だと思う。戦後教育はそれを否定してきたが、それに代わる象徴を何ら示すことができていない。教育現場のこんなぶざまな姿が目に浮かぶ。卒業式か入学式で、日の丸を掲げる校長と、それを引き摺り下ろそうとする教員、君が代を歌っている式場で、「国歌斉唱反対」の怒号を発する教員、それをしらけたムードで見ている生徒たち。生徒は置き去りになっている。「どうでもいいけど、ぶざまな大人」という態度で関わろうとはしない。価値観が揺れている。だけでなく、どの大人も自らの信念に自信がない。「こんな大人がいる日本って何だろう?」こんな感想を抱く子どもたちは多いのではないだろうか。そしてそんな子どもたちは、やはり自らの存在の拠り所を見失ってゆくのだろう。このような教育を戦後になって行ってきた罪は大きいものがある。なぜか?そのような子どもは、成人しても安易に国粋主義のような煽動勢力に組するからである。
「国歌斉唱反対」を唱える人々に言いたい。サッカーのワールドカップ予選が始まる前、君が代を皆が歌っている前で、その主張を大声で叫ぶことができるかと…。国歌とは、君が代に反対する人々が、偏狭な考えで「国粋主義の復活」と主張する次元に存在するものではないだろう!日の丸掲揚に反対する人々に訊きたい。国際マラソンで力走している日本人選手に日の丸を振って応援している人々の前で、「日の丸掲揚反対」を叫ぶことができるのかと…。こんな質問をすると、それと政治の次元とは違うと言うかも知れない。しかし、愛国心を問題にするとき、それは違わないのである。
政治の次元で質問しよう。「国歌斉唱反対」を叫ぶ人は、なぜ君が代を歌いながら、元首の靖国神社参拝に反対を唱えないのか!「日の丸掲揚」に反対するする人は、なぜ日の丸を掲げながら、憲法改正反対を叫ばないのか!私の質問を、非常に奇異に思う人も少なからずいると思う。それだけ国粋主義に毒されているのである。
国粋主義を非難しながら、国粋主義=君が代、国家主義=日の丸、国粋主義=愛国心の図式から脱せられないので、元首の靖国神社参拝や憲法改正反対の批判をしても、多くの国民が今1つ同調できない気分を持っているように思われる。「国粋主義に毒されている」と表現したのは、国粋主義者の思う壺にはまっているということである。国粋主義者は、反国粋主義者が天皇制や靖国神社参拝、憲法改正反対をいくら唱えても、君が代、日の丸、愛国心を蔑視する限り、有事の際(国の危難の際)には、我が方に国民はなびくということを薄々感じているのではないだろうか。それだけ、反国粋主義者が国旗と国歌、愛国心に見せる嫌悪感は、国民の感覚と大分ズレがあるように思われる。要は、なぜ、「国歌は平和尊重の歌であり、日の丸は平和憲法の象徴である。我々は愛国心をもってこの国と自分達の生活世界を守り切る」と声高らかに言えないのかと主張したいのである。そう言えないところに、反国粋主義者が国粋主義に毒されている(麻痺させられている)所以がある。「君が代、日の丸の象徴性と、捏造された愛国心を国粋主義者の手から奪い返せ!」――そう言いたいのである。

ここからは、私の考える愛国心について述べたい。愛とは、(精神分析によると)そもそも自己愛に由来するものである。人は自分を愛する以上に、他人を愛することができない。できると言う人は、自覚のないナルシストだと精神分析は言う。これが国という概念に向けられたとき、それは国家を構成する国民をコントロールしたいという欲望につながり、時には激しい攻撃性の原因にもなる。
それゆえ、愛国心に言及するとき、まずそれが自己愛に由来していることを謙虚に受け止めることである。そして、その自己の内容が問題である。国という枠組みと自己との関わり合いの内容を知る必要がある。その内容によって、愛国心の色彩もかなり違ってくる。従って、様々な愛国心が生まれるのは当然のことと言える。
自己に目を向けたとき、国家権力や一部の勢力に傾いてしまう弱さを見るときもある。そんな自分があることを知っておくことは大切だと思う。私の創作詩「僕の名前は日本です」のなかで、黒い細胞の力が増したとき健全な細胞がそれに染まっていくふりをするというのは、そんな自分の弱さを表している。同時に、それは自分だけの特異なものなのかを思ってみる。日本人一般の気質というものに目を向けると、全体勢力といったものに容易に迎合しやすい気質が見えてくる。皆ベタベタに一丸となるところがある。それがこうじると、「個性が大事」と言いながら、他と異なる個性を潰すといった類の現象が起きる。自分の弱さや日本人のこういった気質に警戒心を持っておくことは大事である。
国という枠組みと自己との関わり合いの内容を知るとき、イデオロギーや煽動的言論に染まったものでないかどうかを知る必要がある。それらのオブラートを取り除いてもなお残るもの、そんな心情が確かに存在する。それを愛国心と呼びたい。その過程をエポケー(判断停止)と言ってもよい。国粋主義や反国粋主義といった価値判断で愛国心を考えることを停止するのである。その中心に存在する動かしがたい情感というものがある。それが愛国心である。創作詩「僕の名前は日本です」のなかに出てくる「僕の母」とは、そのような存在のことである。
それでもなお国歌は存在する。それでもなお日の丸は残る。それでもなお天皇制は存続する(それらが善い事か悪い事かの判断抜きで)。そして、自分にとってそれらの存在がどのような意味を持つのか、それを静かに感じてみる。そこに佇む愛惜の念を思ってみる。それらに何も感じないのなら、それらは自分にとって愛国心とはなり得ない存在である。しかし、それらは容易に煽動的行動の道具に使われる。他者がそれに同調し、自分を攻撃する小道具となってしまう。それらは、時代とともに、自分との関わり合いの意味を変えてくる。ある時は、自分に何も語りかけてくれない存在でありながら、ある時は、愛惜の念や自己の存在意義に気づかせてくれる存在にもなる。だから、それらをエポケーしたまま守っておきたいと思う。それは国粋主義とは無関係な次元での自己愛(愛国心)である。
愛国心とは、自己と国家との関わり合いを言う前に、「自分が生まれたこの国」という事実と、そこに「自らが安住できる地」を求めることができるかという、心性に関わることである。しかも、国家と決別することがあっても、人は、生誕の地によって物理的・精神的制約を受けながら、安住の地を求めようとする。例え異国で暮らし、そこに安住の地を見出したとしても、生誕地のある母国への思いは残る。そのように、国の枠組みを超えたところに生じる、心性における自己への回帰が愛国心となるのである。

数十年後、近隣の東アジア諸国が、軍事色を強めた日本に対して激しい反日感情を抱いたとしよう。自分はそんな日本に対して、君が代、国歌斉唱をことごとく反対していたとする。しかし、軍事国家に傾き始めた日本に住むのが嫌になり、単身韓国に移住をする。ソウルの街を歩いていると、路上で日本の国旗を高々と上げながら奇声を発する群衆を目にする。1年以上日本を離れている自分は、ふと日本に置き去りにして来た家族のことを思う。あるいは、愛しい恋人のことを思う。日本の行末を思う。帰りたいが帰ることのできない自分を思う。気がつけば、日の丸を掲げていた群衆は日本国旗に火を点け始める。メラメラと燃える国旗を見つめる。その旗に家族や恋人の像を投影する。涙が出る。―――こんなとき、涙を出さない反国粋主義者って何だろう?そんな人間がいるのだろうか?このどうしようもない感情、それは、郷愁や望郷といった甘酸っぱい情感とは違うはずである。これこそが愛国心の原点だと思う。
天皇陛下の一般参賀や皇族の地方行脚などで、一般市民が国旗を振りながら笑顔で皇族の方々を迎え入れる。この光景って何だろうと思う。私には、それを国粋主義に傾く危ない傾向と非難することは到底できない。また、それを利用して国粋主義に国民を煽動しようとする動きを到底容認できない。天皇陛下と握手ができて、「(この国に)生きていて良かった」と心から思う人もいるのである。日本国民が、他界する間際、「この国に生まれて良かった、この国で死ぬことができて良かった」と思えるような日本、そんな日本にするためだけに愛国心というのは存在しているはずである。
 愛国心は、教育によって植え付けられるものでもなければ、圧政によって強要されるものでもない。それは誰の心にも奥深く存在し、個々人の状況に応じて感じ取るものである。

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1 コメント

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英国、離脱から・・・ (市村貞夫)
2016-06-25 10:07:47
昨日(6/24)の英国がEUからの離脱を決定し、本当の(真の)先進国、愛国心とは何だろうと考えてしまいました。決して自分(自国)さえ良ければイイんだ!とは考えてないだろうと天下の良識あるUKの国民を評価していたので今回の離脱には正直目を疑いました。米国のトランプ然り、移民たちを目の敵にして感情的に成りどうして今やグローバルな世界を築けるのだろうか!?いやそんな事を考えていないのだろう!!又それを熱狂的に指示する奴らが多いからこんな悲惨な事に成ってしまったのだ。英国は却って経済問題のみならず自分の首を絞めたことに成ります。スコットランドや北アイルランドも英国から離れEUに加盟するでしょう。後で後悔しても間に合わない選択をしてしまった・・・。