言葉 

言葉  2012.7.20.  金森正臣

 言葉にはいろいろの問題があり、「言葉通り」には受け取れないのが現状である。最近大津市の中学生の自殺についての報道を見ていると、改めて日本の現状を考えさせられる。現在の日本では、言葉の内容よりも、いかに言い訳をするかに重きが置かれている。テレビが普及し始めたころに、評論家の大宅壮一氏がテレビは「一億総白痴化」を招くと言ったが、現在その通りになっていると思うことが多い。テレビ(マスコミ全体がそうであるが)はそもそも見せるだけで、現実の役にはほとんど立っていない。今回の地震などの件では、大いに役に立っているとの見方もある。しかし実際には、マスコミに踊らされている部分が多く、現実の援助には様々な歪を生みだしている。マスコミは様々な問題を取り上げて、大いに支援が進んだように見えるが、実際の生活者は黙々と自分の道を進むしかない。もともとマスコミは、地道な生活には馴染まないものである。目立たない普通のことは、マスコミの対象にならないのが現実である。

 今回の中学生の自殺は、学校や家庭の様々な問題を浮き上がらせた。しかしその報道の内容は、言葉が真実を伝えにくいことを無視している。心理学者のユンが述べているように、言葉は経験による相違を生み出し、使う人と受ける人の経験が違うと、内容は十分に伝わらない。宮沢賢治が「春と修羅」の最後に述べているように「まことの言葉はここになく、修羅の涙は土におつ」、言葉が真実を伝えないのは今に始まったことではない。今回の事件では、その上にいずれの発言も自分の身を守ることに終始し、真実は何であったのか、また如何にしたら子どもたちが安心して生活できるかには、考えが及んでいない。マスコミは単に正義の味方の様な顔をしてつつき回すだけで、何の解決策も生み出さない。見つけ出したように見える解決策は、問題の全体を見ていないために、ある側面をとらえているだけである。それに踊らされている教育関係者や家庭は、解決には程遠い道に進んでいる。中学生の自殺があった最初の頃から、何の進歩もない。教育界にも家庭にも問題があるのだが、正義の味方は、白黒をつけたがり、どちらかが正しいようになる。課題はそんなに簡単な問題ではない。

 この現象は、マスコミが大きくからんでおり、多くの人々の関心が、「見せるための人生」に移行してしまった結果であろう。自分がどのように自分の人生を切り開くかではなく、自分の人生が人から如何に見られているかに関心が移ってしまっている。特にテレビの影響は大きく、日本人の本来持っていた「不言実行」などの価値観は、ほとんど影を潜めている。もともと禅宗では、自分の修業した分しか進まない世界であるから、ほとんど無言の世界に近い。無言であっても相手によっては、言葉を使うよりははるかにお互いに理解を深めている。

 皆さんも、言葉や見かけに惑わされること無く、自分の本当に必要な道を進もう。私も若い頃には、人から評価を受けなければ仕事も進まないのではないかと思っていた時期がある。今考えてみると、他から言葉などの評価を受けなくても、自分に必要なことをしていれば、自然に仲間にも入れてもらえ、道が開けてくる。自分の必要と思うことをすることこそ人生で、他には何もない。人生は自分のもので、した様にしか死ねない。死こそは人生の終着点で、その時をいかに安心して、満足して迎えられるかである。
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