プノンペンの風景 22 勤めているところ 

プノンペンの風景 22 勤めているところ    金森正臣(2006.9.22.)

写真:大きな石版6枚を使って、勤めているところの看板がある。正門の右手にあるのだが、この正門は開かずの門で、今までに開いた所を見たことは無い。ワットプノンから南下する、官庁街とも言える大きな通りに面しているのだが、使われない門である。
写真を見ていただくと、勿論中央はクメール語表記であるが、左に英語、右側にフランス語で表記されている。旧宗主国の貫禄であろうか。

 勤めているところは、そのまま訳すと国立教育研究所になる。しかし実際は、研究はされておらず、高等学校・地方の小・中学校の教員養成所の教員養成をしている。日本の戦前の高等師範学校と言ったところで有ろうか。異なるのは、教員養成期間が1年間で、大学の卒業者が入ってくる点である。小中学校の教員養成は、高卒者が入ってきて2年間であるから、日本の短大並みである。

 カンボジアではまだ、研究が行われる段階には無く、彼らが知識の基礎を学ぶ段階である。簡単な事実を認識できない場合が多いし、論理的なことになるとほとんど小学生段階である。これか見ると日本の教育は、なかなか立派なものだと思うが、教育に偏りすぎて、実践の力が弱いのは、大問題である。如何に生活科などを唱えてみても、教える先生が実践的な鍛え方をされていないから、持っていない物は教えられようが無い。

 先日、あまり見ないテレビで、偶然にノーベル賞受賞者の小柴さんが話しているのを見た。彼は、理解には2つの種類があり、能動的理解と受動的理解であると言っていた。20年来私も学生たちに、直接的知識と間接的知識と言う知識の違いを説いてきた。小柴さんの受動的理解は、教えられて得たもの。私の間接的知識は、教室で覚えたり本から知ったり、テレビなどから理解したこと。同じ意味だったことに驚きながら、実際に使えることは能動的・直接的体験による知識しかないことを改めて痛感した。間接的理解が役に立たないと言っているのではない。直接的理解と関連しないと役に立たない。即ち、基礎になるのは能動的理解・直接的知識であって、その基礎が無くたくさん本を読んだだけでは、使い物にならないように思われる。勿論人間が体験できることには、時間的・労力的に限界があるから、間接的知識も重要ではある。

 カンボジアの先生達は、直接的体験は豊富であるが、その論理的整理がほとんど行われていない。そのため研究を行う段階には至っていないと思われる。簡単でもいいから、如何に論理的に考えてもらうかが、私が最も大切と思っている支援である。

 話は逸れたが、フランスは旧宗主国である。現在公用語はクメール語で次いで使われるのは英語になっているが、フランス人は何とかフランス語を残そうとかなり努力している。様々なところに、フランス語の支援をしているし、夏休みにはフランスの先生たちが、フランス語を使ってする様々な科目のワークショップを開いている。必ずしも普及著しいとは言えないが、なかなかな根性である。
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