きのむくままに

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映画「ひろしま」

2017-10-29 | Weblog

 

1953年3月制作の「ひろしま」が映画館で上映されるとのことで観に出かけました。

                        

下記はパンフレット記載の文章です

“広島の市民ら約8万8千人が出演し、原爆が投下された直後の惨状を再現した・・・”

“自らも広島で被爆した教育学者・長田 新(おさだ・あらた)が編纂した文集「原爆の子~広島の少年少女のうったえ」を、日本教職員組合が映画化を決定し、八木保太郎の脚色により映画化された
本作は広島県教職員組合と広島市民の全面的な協力の下で製作され、多数の広島市の中学・高校と父母、教職員、一般市民等約8万8500人が手弁当のエキストラとして参加した。
その中には、原爆を直接経験した者も少なくなかった。
映画に必要な戦時中の服装や防毒マスク、鉄カブト等は、広島県下の各市町村の住民から約4000点が寄せられた。
「ひろしま」で描かれている原爆投下後の圧倒的な群衆シーンの迫力は、これらの広島県民の協力なくしてはあり得なかっただろう。
東宝出身で戦後独立プロに転じた関川秀雄は、原爆が投下された直後の地獄絵図の映像化に精力を傾け、百数カットに及ぶ撮影を費やして、克明に原爆被災現場における救護所や太田川の惨状等の阿鼻
叫喚の修羅場を再現した。そして、被爆者たちのその後の苦しみを描いた。それはひとえに被爆者の声でもあった。
被爆国ニッポンは、すべての核を否定すべきであった。唯一の被爆国だというのに、私たちは、核の恐ろしをもっと大きな声で訴えてこなかったのか・・。
原発も核開発に他ならない。”

 

この映画が一般に公開されなかった3つの訳
①アメリカ軍で広島に原爆を落としたB29爆撃機「エノラ・ゲイ号」のパイロットの言葉

 「日本の真珠湾攻撃」とフィリピンでの「死のバターン行進」への憎しみと共に、広島に近づくにつれ、

 一瞬にして広島を「大量殺戮」の場とすること心の傷みとの葛藤が語られ、
 その上で、日本に原爆を落とすことの正当性を、自ら納得させる言葉につながります

②「ドイツではなく日本に原爆が落とされたのは、日本人が有色人種だからだ」

③米兵に売るために、ピカ(原爆)で死んだ人間の頭骸骨を米兵が喜んで記念に買う。
 おそらく、戦後の広島では、一方では生活のため(と、アメリカへの復讐の想いも入れて)、

 かなり行われていたのではないかと想像します。

上記の①②③点が、「反米的」として、配給元に成る筈の松竹からカットを要望されます。
しかし、監督の関川(と製作スタッフ)は、カットを拒否します。
そのため、一般公開は出来なくなり、ごく限られた上映の後に、いわゆる「お蔵入り」になってしまいました。

日本では上映がされずに、外国の映画祭では絶賛され「1955年ベルリン国際映画祭・長編映画賞」を受賞されるにいたります

制作から64年経過した今この映画を観る事が出来たことに感無量

映画は広島に生まれ育った 原爆の事も見聞きしている私にも

切なく 辛く 正視できないほどの心の苦しさを 感じる映画でした。

最後 原爆で死んだ大勢の人々が 立ち上がり蘇るシーンには ドキッとしました。

胸が締め付けられるシーンの連続でした。

しかしこれに目を背けず しっかり観て 感じなくてはならないと思います。

戦争を 原爆をよく知らない若者達にも是非観て欲しいと思います。

 

  

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