聖母マリア様、み子イエス様が亡くなられた時、不思議な現象がいろいろ現れましたね。神殿の垂れ幕が上から下まで二つに裂けたり地震が起こったりしました。
しかし、私が不思議に思うことがもうひとつあります。それは亡くなられる直前にイエス様が大声で「成し遂げられた」と叫ばれたことです。
その体力はいったいどこから来たのでしょうか。イエス様は前夜から長時間にわたり侮辱され痛めつけられていました。心身共に衰弱しておられた筈です。それなのに最後には大声で叫ばれたのです。ヨハネの福音を除いて福音史家はみなイエス様の最後の言葉は「大声だ」と書いています。
イエス様の「成し遂げられた」こととは何を指しておられたのでしょうか。イエス様の反対者たちの企んでいたよこしまな計画がイエス様の死により「成し遂げられた」ということも考えられます。
ご自分の苦しみが終わったという意味でしょうか。それとも旧約時代の預言が全部成就されたということでしょうか。それははっきりとは言えませんが、しかし、日頃イエス様は御父のみ心を行い、その業を果たすことを何より大切になさっていたのですから、ご自分の死によって御父のご計画が完全に「成し遂げられた」ということを指しておられたのでしょう。それはあたかも芸術家が作品を完成した時のような気持ちだったのかもしれません。
イエス様の「成し遂げられた」というみ言葉を聞いてマリア様は何をお思いになりましたか。イエス様の死は悲しい出来事でしたが、イエス様の宣言により、これもまた、天の御父のみ旨であることを確信なさったのではないでしょうか。そして、
やっとイエス様の苦しみが終わったとほっとした気持ちもあったと思います。
話は変わりますが、考えてみれば私たち人間の生き方は千差万別です。同じ人間でもそれぞれの人生は決して同じパターンとは言えません。
経済的に恵まれた環境の中で生まれる人があれば、貧しい家庭の子として生まれる人もいます。オリンピック大会に出場できそうな強い体で生まれる人があれば、心身共に弱い人もいます。本当に人それぞれです。
こういう点では人間は平等だとは思えませんね。しかし、人の本当の価値や貴さはどのようにして、この世に生まれてくるかということにあるのではなく、むしろ、どのように生き、そして、どのようにして死んでゆくかというところにあります。
人生の素材というものは五タラントン、二タラントン、一タラントンのようなものです。神様が与える人生の「設計図」も多様なもので、人間は自分に授かった「設計図」に従っていかに上手に人生の素材を使いこなすか、それによって評価されることでしょう。
マリア様、あなたはかつて「わたしは主のはしためです。お言葉通りこの身になりますように」と言われました。そして、神様のお望みの通りに生き抜かれました。この世から去られた時、イエス様にならって悔いなく「成し遂げられた」と言われたことでしょう。
聖パウロはかなり複雑な人生を送ったようですが、その晩年、彼は次のように書きました。「世を去る時が近づきました。わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます。」
マリア様、どうか私たちひとりひとりが人生の終わりに、イエス様と同じように「成し遂げられた」と言えるように「今も死を迎える時も祈って下さい」。
愛を込めて、 ペトロ神父
しかし、私が不思議に思うことがもうひとつあります。それは亡くなられる直前にイエス様が大声で「成し遂げられた」と叫ばれたことです。
その体力はいったいどこから来たのでしょうか。イエス様は前夜から長時間にわたり侮辱され痛めつけられていました。心身共に衰弱しておられた筈です。それなのに最後には大声で叫ばれたのです。ヨハネの福音を除いて福音史家はみなイエス様の最後の言葉は「大声だ」と書いています。
イエス様の「成し遂げられた」こととは何を指しておられたのでしょうか。イエス様の反対者たちの企んでいたよこしまな計画がイエス様の死により「成し遂げられた」ということも考えられます。
ご自分の苦しみが終わったという意味でしょうか。それとも旧約時代の預言が全部成就されたということでしょうか。それははっきりとは言えませんが、しかし、日頃イエス様は御父のみ心を行い、その業を果たすことを何より大切になさっていたのですから、ご自分の死によって御父のご計画が完全に「成し遂げられた」ということを指しておられたのでしょう。それはあたかも芸術家が作品を完成した時のような気持ちだったのかもしれません。
イエス様の「成し遂げられた」というみ言葉を聞いてマリア様は何をお思いになりましたか。イエス様の死は悲しい出来事でしたが、イエス様の宣言により、これもまた、天の御父のみ旨であることを確信なさったのではないでしょうか。そして、
やっとイエス様の苦しみが終わったとほっとした気持ちもあったと思います。
話は変わりますが、考えてみれば私たち人間の生き方は千差万別です。同じ人間でもそれぞれの人生は決して同じパターンとは言えません。
経済的に恵まれた環境の中で生まれる人があれば、貧しい家庭の子として生まれる人もいます。オリンピック大会に出場できそうな強い体で生まれる人があれば、心身共に弱い人もいます。本当に人それぞれです。
こういう点では人間は平等だとは思えませんね。しかし、人の本当の価値や貴さはどのようにして、この世に生まれてくるかということにあるのではなく、むしろ、どのように生き、そして、どのようにして死んでゆくかというところにあります。
人生の素材というものは五タラントン、二タラントン、一タラントンのようなものです。神様が与える人生の「設計図」も多様なもので、人間は自分に授かった「設計図」に従っていかに上手に人生の素材を使いこなすか、それによって評価されることでしょう。
マリア様、あなたはかつて「わたしは主のはしためです。お言葉通りこの身になりますように」と言われました。そして、神様のお望みの通りに生き抜かれました。この世から去られた時、イエス様にならって悔いなく「成し遂げられた」と言われたことでしょう。
聖パウロはかなり複雑な人生を送ったようですが、その晩年、彼は次のように書きました。「世を去る時が近づきました。わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます。」
マリア様、どうか私たちひとりひとりが人生の終わりに、イエス様と同じように「成し遂げられた」と言えるように「今も死を迎える時も祈って下さい」。
愛を込めて、 ペトロ神父
聖母マリア様、十字架の上でイエス様は七回ほど話されましたが、今日考えるみ言葉はその中の一番短いものです。それはただの一言、「渇く」というものです。
イエス様は「渇く」とおっしゃった時、何を指しておられたのでしょうか。かつてサマリアのある女と話された時には、「生ける水」という表現を使われ、「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」と言われました。
しかしこの時、永遠の命に至るその水の泉であるイエス様ご自身が「渇く」とおっしゃいました。この時のイエス様の渇きは身体的なもの、つまり喉の渇きでした。喉が渇いていて水を欲しがられたのです。
その前の晩、イエス様は過越祭を行って最後の晩さんを弟子たちと共にされました。その時イエス様は種なしパンや杯を何回か回されてから、最後の杯を御手にしてこう言われました。
「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。言っておくが、わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」
これがイエス様の最後の飲み物だったと思われます。その後、彼らはオリーブ山へ出かけ、そこから主のご受難が始まりました。そして、このご受難というものは何とむごいものだったでしょう!
イエス様は裏切られて逮捕され、民の尋問や裁判を受け、一晩中牢で過ごされました。翌朝、ピラトの元に引かれ、また尋問や裁判が行われました。むち打ち、茨の冠、死刑の宣告と続き、十字架を背負いながらカルバリオ山を登られたのです。
そして、そこで十字架に釘づけられました。イエス様はもはや心身共に衰弱して死を待つだけです。その時、「水!一滴の水でも飲ませて!渇く」と言われたのです。
しかし、イエス様の渇きは身体的なものよりも、精神的な意味合いの方がはるかに大きかったでしょう。「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう」とおっしゃっていました。
イエス様の言われた火とは御父のみ心が行われ、そのご計画やみ業が成し遂げられることです。「み国が来ますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように」という念願と渇望です。
イエス様の渇きは、また、人々の救いへの望みでもあります。彼の福音宣教が終わりに近づいた時、「イエスは立ち上がって大声で言われた。『渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」
イエス様が「大声で言われた」と福音に記されているのは、イエス様ご自身が人々の救いを激しく望んでおられたことを強調しているのです。きっとマリア様も同じような渇きを感じられたことと思います。
かつてカナの婚礼で、マリア様は召し使いたちに言われました。「この人(イエス様)が何か言いつけたら、そのとおりにしてください。」このようにマリア様の願い事は一種の渇きであり、それを満たす方法を私たちに教えてくださるものでした。
聖パウロがこう言っています。「あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから上にあるものを求めなさい。・・・上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。」
どうかマリア様、私たちが絶えずこのような霊的な渇望をもってみ旨と天にあるものを求めて生きますように助け導いてください。
感謝と祈りをこめて、 ペトロ神父
イエス様は「渇く」とおっしゃった時、何を指しておられたのでしょうか。かつてサマリアのある女と話された時には、「生ける水」という表現を使われ、「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」と言われました。
しかしこの時、永遠の命に至るその水の泉であるイエス様ご自身が「渇く」とおっしゃいました。この時のイエス様の渇きは身体的なもの、つまり喉の渇きでした。喉が渇いていて水を欲しがられたのです。
その前の晩、イエス様は過越祭を行って最後の晩さんを弟子たちと共にされました。その時イエス様は種なしパンや杯を何回か回されてから、最後の杯を御手にしてこう言われました。
「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。言っておくが、わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」
これがイエス様の最後の飲み物だったと思われます。その後、彼らはオリーブ山へ出かけ、そこから主のご受難が始まりました。そして、このご受難というものは何とむごいものだったでしょう!
イエス様は裏切られて逮捕され、民の尋問や裁判を受け、一晩中牢で過ごされました。翌朝、ピラトの元に引かれ、また尋問や裁判が行われました。むち打ち、茨の冠、死刑の宣告と続き、十字架を背負いながらカルバリオ山を登られたのです。
そして、そこで十字架に釘づけられました。イエス様はもはや心身共に衰弱して死を待つだけです。その時、「水!一滴の水でも飲ませて!渇く」と言われたのです。
しかし、イエス様の渇きは身体的なものよりも、精神的な意味合いの方がはるかに大きかったでしょう。「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう」とおっしゃっていました。
イエス様の言われた火とは御父のみ心が行われ、そのご計画やみ業が成し遂げられることです。「み国が来ますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように」という念願と渇望です。
イエス様の渇きは、また、人々の救いへの望みでもあります。彼の福音宣教が終わりに近づいた時、「イエスは立ち上がって大声で言われた。『渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」
イエス様が「大声で言われた」と福音に記されているのは、イエス様ご自身が人々の救いを激しく望んでおられたことを強調しているのです。きっとマリア様も同じような渇きを感じられたことと思います。
かつてカナの婚礼で、マリア様は召し使いたちに言われました。「この人(イエス様)が何か言いつけたら、そのとおりにしてください。」このようにマリア様の願い事は一種の渇きであり、それを満たす方法を私たちに教えてくださるものでした。
聖パウロがこう言っています。「あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから上にあるものを求めなさい。・・・上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。」
どうかマリア様、私たちが絶えずこのような霊的な渇望をもってみ旨と天にあるものを求めて生きますように助け導いてください。
感謝と祈りをこめて、 ペトロ神父
聖母マリア様、あなたは十字架のもとに立っておられた時、キリスト様の最後のみ言葉をひとつひとつ心に刻んでおられたことでしょう。主は十字架の上から七回ほど話されましたが、その中で一回だけあなたに語りかけられました。それは彼が亡くなる直前でした。
きっと主は随分弱っておられたに違いありません。あなたはみ子の様子を見ながら自分に話し掛けられたみ言葉は何ひとつ逃さないように注意深く耳を傾けておられたことと思います。目を半ば開き、あなたとそばにいる弟子ヨハネとをご覧になった主は、くちびるをふるわせて苦しそうな息づかいのもとで話しかけられます。そのみ言葉はとぎれがちだったのではないでしょうか。
「婦人・・・婦人よ、ご覧なさい。・・・あなたの子です。」それから弟子ヨハネに目を移されて、「見なさい・・・あなたの・・・母です。」「その時から、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った」と聖書に書かれています。
「この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、『渇く』と言われた。それから酸いぶどう酒を受けると「『成し遂げられた』と言い、頭を垂れて息を引き取られた」と締めくくっています。
救い主がこの世に来られたのはマリア様を通してであり、そしてこの世を去って行かれた時にもマリア様と共におられました。
最後の時、キリスト様が弟子ヨハネに頼まれたのは、マリア様のことを心配しておられたからでしょう。自分が去ったあとにひとり取り残されるお母様の心細さ、まただんだんと年老いて行くなかでのいろいろな不安や困難な出来ごとなどに思いをはせられたと思います。そこで最後まで頼りになっていた弟子ヨハネに面倒を見て貰うことを望まれたに違いありません。
しかし、キリスト様はマリア様を弟子ヨハネだけではなく、私たちキリスト信者ひとりひとりの母として下さいました。それは人間の信仰には母が必要だと分かっておられたからです。
思えば、こうしてキリスト様はマリア様を私たちの母として下さり、そしてマリア様はイエス様を私たちの兄弟として下さいました。そればかりか、マリア様は「何でも、彼の言うとおりにしてください」と加えて勧めてもくださいました。
一方、弟子ヨハネはどのような気持ちでマリア様を迎えお世話なさったのでしょうか。救い主キリスト様の母として選ばれ、何の罪もなく恵みに満ちた清らかな聖母マリア様を迎えるに当たって、きっと彼は恐れを感じたことでしょう。そして、マリア様を「自分の家に引き取る」前に「自分の心に引き取った」のではないでしょうか。
このことを通して彼は私たちによい手本を示してくださいました。つまり私たちもマリア様の暖かい母性愛を身近に感じることはあっても、決してマリア様の偉大さと貴さを忘れてはならないということです。
弱い私たちを天国に導くことは決して容易ではありません。聖パウロが当時のある信徒たちへ書いた手紙を思い出します。「私の子供たち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、わたしはもう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます」(ガラテヤ4:19)。きっとマリア様も同じような気持ちでいらっしゃったことでしょう。
マリア様、あなたはあらゆる母親の中でも最も優れたお母様です。どうか私たちひとりひとりを優れたみ子イエス様のように育て導いてください。
では、この次またお手紙を差し上げます。
愛をこめて、 ペトロ神父
きっと主は随分弱っておられたに違いありません。あなたはみ子の様子を見ながら自分に話し掛けられたみ言葉は何ひとつ逃さないように注意深く耳を傾けておられたことと思います。目を半ば開き、あなたとそばにいる弟子ヨハネとをご覧になった主は、くちびるをふるわせて苦しそうな息づかいのもとで話しかけられます。そのみ言葉はとぎれがちだったのではないでしょうか。
「婦人・・・婦人よ、ご覧なさい。・・・あなたの子です。」それから弟子ヨハネに目を移されて、「見なさい・・・あなたの・・・母です。」「その時から、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った」と聖書に書かれています。
「この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、『渇く』と言われた。それから酸いぶどう酒を受けると「『成し遂げられた』と言い、頭を垂れて息を引き取られた」と締めくくっています。
救い主がこの世に来られたのはマリア様を通してであり、そしてこの世を去って行かれた時にもマリア様と共におられました。
最後の時、キリスト様が弟子ヨハネに頼まれたのは、マリア様のことを心配しておられたからでしょう。自分が去ったあとにひとり取り残されるお母様の心細さ、まただんだんと年老いて行くなかでのいろいろな不安や困難な出来ごとなどに思いをはせられたと思います。そこで最後まで頼りになっていた弟子ヨハネに面倒を見て貰うことを望まれたに違いありません。
しかし、キリスト様はマリア様を弟子ヨハネだけではなく、私たちキリスト信者ひとりひとりの母として下さいました。それは人間の信仰には母が必要だと分かっておられたからです。
思えば、こうしてキリスト様はマリア様を私たちの母として下さり、そしてマリア様はイエス様を私たちの兄弟として下さいました。そればかりか、マリア様は「何でも、彼の言うとおりにしてください」と加えて勧めてもくださいました。
一方、弟子ヨハネはどのような気持ちでマリア様を迎えお世話なさったのでしょうか。救い主キリスト様の母として選ばれ、何の罪もなく恵みに満ちた清らかな聖母マリア様を迎えるに当たって、きっと彼は恐れを感じたことでしょう。そして、マリア様を「自分の家に引き取る」前に「自分の心に引き取った」のではないでしょうか。
このことを通して彼は私たちによい手本を示してくださいました。つまり私たちもマリア様の暖かい母性愛を身近に感じることはあっても、決してマリア様の偉大さと貴さを忘れてはならないということです。
弱い私たちを天国に導くことは決して容易ではありません。聖パウロが当時のある信徒たちへ書いた手紙を思い出します。「私の子供たち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、わたしはもう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます」(ガラテヤ4:19)。きっとマリア様も同じような気持ちでいらっしゃったことでしょう。
マリア様、あなたはあらゆる母親の中でも最も優れたお母様です。どうか私たちひとりひとりを優れたみ子イエス様のように育て導いてください。
では、この次またお手紙を差し上げます。
愛をこめて、 ペトロ神父
聖母マリア様、これまで喜んでお手紙を差し上げてきましたが、今回は非常に気が重くて書きづらいです。それは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という十字架上のイエス様のみ言葉について考えようと思うからです。
このみ言葉はあまりにも神秘的なもので自分の言葉では何と言ったらいいのか分かりません。私の本心を申し上げれば、ただマリア様と共に十字架のもとに立って黙っていた方が賢明だと思います。
キリスト様は人生途上で、度々父なる神様の励ましを受けられました。洗礼を受けられた時に「天が開け・・・『あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者』という声が天から聞こえた」とあります。
ご変容の時もそうでした。「これはわたしの愛する子。これに聞け」と父なる神様のみ言葉がありました。このご変容の時にはモーセとエリヤも現れてイエス様を励まされました。
荒れ野で断食をなされた時には、天使たちが仕えていました。ゲッセマニ園で祈っておられた時も「天使が天から現れて、イエスを力づけた」と書いてあります。
しかし十字架の上で苦しんでおられた時には、父なる神様のみ声も聞こえず、天使の姿も現れませんでした。イエス様は孤独の暗い雲に包まれて全く一人となってしまいました。裸、無力、寂しい、見捨てられたのか・・・。
自分が何の役にも立たないのではないかという堪えられない苦しみでした。「アッバ父よ!お父様!わが神!聞こえないのか。見えないのか。構わないのか?どうしたの?なぜ?」
イエス様の叫びにも天は黙っていました。慈しみ深い神様が急に冷たくなり、遠い存在にも思えました。これは本当に気味の悪い沈黙、天使も現れてきませんでした。このような苦しみは茨の冠の痛みよりも釘の痛みよりもはるかに辛かったでしょう。
それなのに、マリア様、み子イエス様は失望なさいませんでした。苦しみのどん底に陥っていても、イエス様は気力を奮い起こして「わが神、わが神」と呼び続けます。自分が見捨てられた気持ちになっても決してあきらめません。小さな子どもが父親の手にしがみついているように、イエス様は父なる神様にしがみついて、最後まで揺るぎない信頼を持ち続けられました。
ですから亡くなる直前、イエス様は再び大声で叫ばれます。『父よ、わたしの霊をみ手に委ねます』と。こう言ってイエス様は息を引き取られました。そしてこの最後の叫びこそはイエス様の素晴らしい愛と信頼、勝利の宣言となりました。
マリア様、主の叫び声はきっと鋭い剣のようにあなたの心を刺し貫かれたことと思います。あなた自身がその叫び声を聞いて、「そうです、父よ!どうしてこの苦しみ、この孤独・・・?」と思われたでしょう。
しかし、マリア様はかつてお告げの時におっしゃった言葉を肝に銘じておられました。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように。」これこそがマリア様の信仰と生き方でした。
聖パウロはこう言っています。「これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって、輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。・・・どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマ8:37-39)
聖母マリア様、私たちは試練に遭って様々な悩み苦しみのために時として自分が見捨てられたような気持ちになります。どうかこういう時こそ愛の手を差し伸べて支えてください。み子イエス様とマリア様に倣い、ゆるぎのない信頼を最後まで持ち育てることができますように祈り力づけてください。
では、この次またお手紙を差し上げたいと思います。 ペトロ神父
このみ言葉はあまりにも神秘的なもので自分の言葉では何と言ったらいいのか分かりません。私の本心を申し上げれば、ただマリア様と共に十字架のもとに立って黙っていた方が賢明だと思います。
キリスト様は人生途上で、度々父なる神様の励ましを受けられました。洗礼を受けられた時に「天が開け・・・『あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者』という声が天から聞こえた」とあります。
ご変容の時もそうでした。「これはわたしの愛する子。これに聞け」と父なる神様のみ言葉がありました。このご変容の時にはモーセとエリヤも現れてイエス様を励まされました。
荒れ野で断食をなされた時には、天使たちが仕えていました。ゲッセマニ園で祈っておられた時も「天使が天から現れて、イエスを力づけた」と書いてあります。
しかし十字架の上で苦しんでおられた時には、父なる神様のみ声も聞こえず、天使の姿も現れませんでした。イエス様は孤独の暗い雲に包まれて全く一人となってしまいました。裸、無力、寂しい、見捨てられたのか・・・。
自分が何の役にも立たないのではないかという堪えられない苦しみでした。「アッバ父よ!お父様!わが神!聞こえないのか。見えないのか。構わないのか?どうしたの?なぜ?」
イエス様の叫びにも天は黙っていました。慈しみ深い神様が急に冷たくなり、遠い存在にも思えました。これは本当に気味の悪い沈黙、天使も現れてきませんでした。このような苦しみは茨の冠の痛みよりも釘の痛みよりもはるかに辛かったでしょう。
それなのに、マリア様、み子イエス様は失望なさいませんでした。苦しみのどん底に陥っていても、イエス様は気力を奮い起こして「わが神、わが神」と呼び続けます。自分が見捨てられた気持ちになっても決してあきらめません。小さな子どもが父親の手にしがみついているように、イエス様は父なる神様にしがみついて、最後まで揺るぎない信頼を持ち続けられました。
ですから亡くなる直前、イエス様は再び大声で叫ばれます。『父よ、わたしの霊をみ手に委ねます』と。こう言ってイエス様は息を引き取られました。そしてこの最後の叫びこそはイエス様の素晴らしい愛と信頼、勝利の宣言となりました。
マリア様、主の叫び声はきっと鋭い剣のようにあなたの心を刺し貫かれたことと思います。あなた自身がその叫び声を聞いて、「そうです、父よ!どうしてこの苦しみ、この孤独・・・?」と思われたでしょう。
しかし、マリア様はかつてお告げの時におっしゃった言葉を肝に銘じておられました。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように。」これこそがマリア様の信仰と生き方でした。
聖パウロはこう言っています。「これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって、輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。・・・どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマ8:37-39)
聖母マリア様、私たちは試練に遭って様々な悩み苦しみのために時として自分が見捨てられたような気持ちになります。どうかこういう時こそ愛の手を差し伸べて支えてください。み子イエス様とマリア様に倣い、ゆるぎのない信頼を最後まで持ち育てることができますように祈り力づけてください。
では、この次またお手紙を差し上げたいと思います。 ペトロ神父
聖母マリア様、あなたは十字架のもとに立たれた時、イエス様が話された最後のみ言葉をひとつひとつ心に留めておかれたことでしょう。
その中でもイエス様がご自分と同じ十字架刑を受けた犯罪人に話されたみ言葉は強くあなたの心に響いたと思います。福音史家マタイはこのことを簡潔に記録しました。「イエスといっしょに二人の強盗がひとりは右に、もう一人は左に十字架に付けられていた」と。
一方、福音史家ルカはマタイと違って詳しく書きました。
「十字架に掛けられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。『お前はメシアではないか。自分自身と我々を救って見ろ。』すると、もう一人の方がたしなめた。『お前は神を恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。』そして、『イエスよ、あなたのみ国においでになるときには、わたしを思いだしてください。』するとイエスは、『はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる』と言われた」(ルカ23:39-43)。
マリア様、イエス様のこのみ言葉とその愛とはいったいどいうものなのでしょう?この犯罪人の罪は死刑に値するほど大きいのに、イエス様は一言でそれを赦すだけでなく、「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と約束もなさいます。これを聞くと人はだれでも驚きます。この出来事によってもイエス様の慈しみと愛は山よりも高く海より深く、まさしく限りのないものだと分かります。
日頃、イエス様はこのような寛大さや許容についてたびたび話され、また行動なさいました。そのさまざまな話の中でも放蕩息子のたとえ話はよく知られています。憐れみということを考えた時、この話の中に出てくる父親の姿は印象的です。
この父親は家に戻ってくる息子の疲れ果てた姿を見るや「堪忍袋の緒」ではなく、「憐れみ袋の緒が切れた」ように息子を迎えます。「(息子は)まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って、走り寄り、その首を抱いて接吻した」と書かれています。
イエス様の愛はこのようなもの、まさしく父なる神様の愛であり、また母なるマリア様の愛でもあります。マリア様、この犯罪人は「天国の泥棒」と一般に名付けられています。さまざまな失敗をし、罪に罪を重ねてきた彼でしたが最後に回心しイエス様に身を寄せ天国の約束を得ました。人は命がある限り時期遅れということは絶対ないということが、この「天国の泥棒」を通して教えられます。
もうひとつ彼に教えられるのは、人間はいかなる大きな過ちを犯したとしても取り返しのつかないことはないということです。ですからあきらめや失望などは全く不要なものです。イエス様に目を向けさえすれば赦しを受け救われます。
ところでマリア様、この二人の犯罪人の態度は本当に対照的ですね。同じ罪人でも、そのひとりはかたくなな心で自らの罪を悔いることができずイエス様をののしります。もうひとりの犯罪人は素直に自分の罪を認め、イエス様に目を向けて赦しを求めます。この二人の中にすべての人間タイプが示されているような気がします。
赦しは神様から来るのですが「ごめんなさい」という「回心」の心境は私たちだれにも重大なものです。それは神様の憐れみ深い心を開けるカギのようなものです。
聖母マリア様、私たちがいつか「あなたは、今日わたしと一緒に楽園にいる」というイエス様のみ言葉を聞くことが出来ますように、どうか回心の恵みを受けさせて祈り導いてください。
ではまたお手紙を差し上げたいと思います。 ペトロ神父
その中でもイエス様がご自分と同じ十字架刑を受けた犯罪人に話されたみ言葉は強くあなたの心に響いたと思います。福音史家マタイはこのことを簡潔に記録しました。「イエスといっしょに二人の強盗がひとりは右に、もう一人は左に十字架に付けられていた」と。
一方、福音史家ルカはマタイと違って詳しく書きました。
「十字架に掛けられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。『お前はメシアではないか。自分自身と我々を救って見ろ。』すると、もう一人の方がたしなめた。『お前は神を恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。』そして、『イエスよ、あなたのみ国においでになるときには、わたしを思いだしてください。』するとイエスは、『はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる』と言われた」(ルカ23:39-43)。
マリア様、イエス様のこのみ言葉とその愛とはいったいどいうものなのでしょう?この犯罪人の罪は死刑に値するほど大きいのに、イエス様は一言でそれを赦すだけでなく、「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と約束もなさいます。これを聞くと人はだれでも驚きます。この出来事によってもイエス様の慈しみと愛は山よりも高く海より深く、まさしく限りのないものだと分かります。
日頃、イエス様はこのような寛大さや許容についてたびたび話され、また行動なさいました。そのさまざまな話の中でも放蕩息子のたとえ話はよく知られています。憐れみということを考えた時、この話の中に出てくる父親の姿は印象的です。
この父親は家に戻ってくる息子の疲れ果てた姿を見るや「堪忍袋の緒」ではなく、「憐れみ袋の緒が切れた」ように息子を迎えます。「(息子は)まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って、走り寄り、その首を抱いて接吻した」と書かれています。
イエス様の愛はこのようなもの、まさしく父なる神様の愛であり、また母なるマリア様の愛でもあります。マリア様、この犯罪人は「天国の泥棒」と一般に名付けられています。さまざまな失敗をし、罪に罪を重ねてきた彼でしたが最後に回心しイエス様に身を寄せ天国の約束を得ました。人は命がある限り時期遅れということは絶対ないということが、この「天国の泥棒」を通して教えられます。
もうひとつ彼に教えられるのは、人間はいかなる大きな過ちを犯したとしても取り返しのつかないことはないということです。ですからあきらめや失望などは全く不要なものです。イエス様に目を向けさえすれば赦しを受け救われます。
ところでマリア様、この二人の犯罪人の態度は本当に対照的ですね。同じ罪人でも、そのひとりはかたくなな心で自らの罪を悔いることができずイエス様をののしります。もうひとりの犯罪人は素直に自分の罪を認め、イエス様に目を向けて赦しを求めます。この二人の中にすべての人間タイプが示されているような気がします。
赦しは神様から来るのですが「ごめんなさい」という「回心」の心境は私たちだれにも重大なものです。それは神様の憐れみ深い心を開けるカギのようなものです。
聖母マリア様、私たちがいつか「あなたは、今日わたしと一緒に楽園にいる」というイエス様のみ言葉を聞くことが出来ますように、どうか回心の恵みを受けさせて祈り導いてください。
ではまたお手紙を差し上げたいと思います。 ペトロ神父






