かみなり

心臓に人工弁を、耳に補聴器をしている昭和23年生まれの団塊世代です。趣味は短歌です。日々のよしなしごとを綴っていきます。

パソコンの送受信ができなくなっていますので

2018-12-31 06:38:57 | ブログ記事
いただいたコメントをアップできないだけでなく、私もコメント返しができなくなっています。

この記事はスマホから投稿しています。

ということで、コメント返し、少し待ってくださいね。

テレビを観ていた

2018-12-30 20:29:29 | ブログ記事
昔は年末というと頑張っていた。

おせち料理の材料の買い物は無論、お掃除もそれなりに頑張っていた。


が、最近は頑張らない。特に今年は。

それで押し詰まった今日もテレビを観ていた。

テレビを観ていると、テレビはテレビで面白いので、パソコンは観ない。

また新聞を読み始めると、新聞は新聞で面白いのでテレビもパソコンも見ない。

小説を読みだすと、小説が面白くなり、テレビも新聞もパソコンも見なくなる。

旅に出ると、外の景色が面白いから景色ばかりを見て、
テレビも新聞もパソコンも本も読まなくなる。

本当は、どれもこれもしたいのだが、時間が足りない。体力が足りない。

だから、絞らないといけない。

で、どれを一番除外したらいいのかということになる。

これが私にとっては非常に難しい。

いやいや、それより先に、家事をしなければならない。

が、これが一番したくないことかもしれない。

だから一番後回しになる。

主婦としては失格なのだろう。

が、子育てのさなかは家事もそれなりに楽しかったが、現在は楽しくない?

だから楽しいことを優先したい。

世の中には家事だけじゃなく、孫の世話を熱心にしている人も多い。

私には真似できない。

祖母としても、私は失格なのかもしれない。

明日は大みそか。

明日は少しは頑張るか、自分。

鯨肉の思い出・・・高知市内の魚の棚の思い出とともに

2018-12-30 09:44:03 | ブログ記事
と書いても、私が鯨肉を食べた思い出ではない。

好き嫌いの激しかった子供の頃の私は、肉類はいっさい口にすることができなかった。

皆がおいしいおいしいと食べるすき焼きでさえ、肉の横で煮られた野菜を食べるだけであった。

まして鯨肉など食べるはずもなかった。

が、思い出はある。

父方祖父の田舎は海沿いの丘の集落であった。

余談になるが、
場所的に、たぶん大昔の南海地震のあと津波が襲ってきて、住民が大勢亡くなってから、
平地を避けて丘に集落を作ったのではなかったと思っている。

そんな集落が祖父の故郷であったのであるが、

私が幼かったころは、まあ食べ物も十分あったわけではなかったので、
その田舎に行くとき、義理祖母は祖父の親戚に鯨肉を買ってお土産にしていた。

それを田舎の親戚の人たちが、たいそう喜んでいたことを覚えている。

あれは鯨肉の皮に近い部位だったのではなかろうか。

黒い皮に黄色っぽい脂肪のようなものがついている代物であった。

肉の嫌いな私は見るだけでも気持ちが悪かった。

それを親戚のお婆さんは喜ぶのである。

その鯨肉を買うのは実家の近くの「魚の棚商店街」であった。

当時の魚の棚商店街というのは高知市内で一番高級な食材のそろうことで有名な商店街で、
そこに鯨肉専門店もあったのだ。

これを書きながら、あの当時の魚の棚商店街の賑わいを思い出している。

小さな商店街なのだが、活気があって、常に大勢の人が歩いていた。

が、現在はさびれて、生鮮食品を商う店もほとんどなくなった。

歩いている人がいないわけではないが、買い物客ではなく、ただの通行人である。

県外に住んでいる私には、魚の棚の風景は思い出の原風景であるとともに、
鯨肉を買う義理祖母の姿も私の幼いころの原風景なのである。

義理祖母と書いているのは、この祖母は祖父の後妻だった人だったからだ。

当時は義理とは知らず、祖母だと思い込んでいた。

そのくらい私のことを可愛がってくれて、どこかに行くときはよく連れて行ってくれた。

祖父の田舎の親戚に泊まるときも、この祖母と一緒のことが多かった。

祖父の親戚というのは祖父の弟の家で、そこには私と同い年の”また従妹がいた。

それで義理祖母も私を連れて行っていたのかもしれないと今頃おもったりもする。

そういうふうによく泊りがけで行ったりしたから、その”また従妹”は従妹くらい親しかった。

ブロ友さんの捕鯨の話から昔の鯨肉を思い出して、
自分の幼かったころのことまで思い出してしまった。

こうして昔のことを思い出すのは私が年寄りになったせいだろう。

*

★義理祖母が土産に買ひゐし鯨肉の黒き鯨皮と黄色き鯨油と

★親戚の人ら歓びゐし鯨おさなきわれは食べたことなし

★土電とふ電車で赤野といふ村に泊まりし記憶きのふのやうに

★義理祖母と知らずにあちこち行きしかな田舎の親戚町の親戚

★魚の棚商店街も思ひ出の街でありしが今はさびれて


人生いいことも悪いこともあるからいい気にならないこと

2018-12-29 12:14:12 | ブログ記事
これは自戒を込めて書いています。

私も短歌を始めていいこともたくさんありました。

初めの数年はラッキーなことが目白押しでした。

それでちょっと天狗になっていたかもしれません。

最初のつまづきは、某メーリングリストでした。

私がいい気になって書いていたのを古参の人たちは苦々しく思っていたのでしょうね。

見事に足元をすくわれました。

それを恨みにも思い、悩みもしているうちに、大腸癌になりました。

人の身体は正直にできていますから、恨みが大腸に溜まって癌になったのでしょう。

それで反省すればいいのに、高慢な私はしなかったのですね。

それで、前よりひどい攻撃をされて鬱病になりました。

一口に鬱病と言いますが、私の場合は精神薬を飲んでしまったので、
薬のせいで地獄の苦しみを味わいました。

よく元に戻れたと、われながら感心しています。

こんな私でも神様は見捨てられなかったのです。

夫は私のことを悪運が強いと言いますが、そうかもしれません。

何度も死線をくぐって現在の私があります。

これだけ苦しんできたのだから、もういい加減悟ればいいのですが、
しかし、未だに高慢です。

これは治らないと思います。

私が高慢なのではなく、高慢が私だからです。(苦笑)

短歌の結社を辞めたのも高慢の私が辞めさせたのです。

だから反省などはしません。

私自身は辞めても一人で生きていける自信があります。

これは自信と言わないで自惚れと言うのもしれませんが・・・。(笑)

だけど自分のことは自分が一番よくわかっています。

お釈迦様も言いました。天上天下唯我独尊と。

私もそうなのです。(笑)

*

★自身とは自信でありて地震なり自信つよくて地震は起こる

★起こるとは起きてゐること起きてゐるのに野つぱらに置かれて怒る

*

人生いいことも悪いこともあるからいい気にならないこと

しかし、腐りもしないこと

それが肝要

特に何もしない年末年始

2018-12-29 03:52:30 | ブログ記事
今までは我が家に集まってお正月を祝っていたけれど、
今年1月に母が亡くなったから、一応喪中ということで来てもらうことは断った。

それだけじゃなく、私も70歳になり、大勢を接待するのもしんどくなったし、

その上、

頑張っておせち料理を作っても、
長男などが
「昔からお正月におせち料理ばかり食べさせられたことがトラウマになっている」
などと言うものだから、もうずっと作らないかもしれない。

いや作るけれども、私たち夫婦だけで食べるようにしたほうがいいと思っている。

私も夫も、おせち料理は好きだから。

が、年末には作らないで、お正月に作るかもしれない。

まあ誰も来る予定がないから、気が向いたときに作ろう。

70歳になったのだから、これからは自由にさせてもらう。

お掃除も、いつもいる食堂というか、リビングだけする。

2階の私の部屋は物置部屋と化しているが、寒いから冬の間はそのままにしておく。

誰も来ないお正月は暇だから、短歌の連作づくりでもするかもしれない。

こういうときは趣味があってよかったと思う。

これからは時間も(わずかな)お金も自分のために使って楽しい老後を送りたい。

*

★楽しみは好きな時間に好きなもの食べてぐつすり夜ねむること

★楽しみは好きな短歌を好きなだけ作りて誰にも褒められぬこと

★楽しみは独り短歌を楽しめる場所と時間を確保すること

★楽しみは下手な短歌を数つくり変な歌人と思はれること

★楽しみは人の短歌を批評して暇な時間に昼寝すること

★楽しみはブログのお題に応募してブログ世界を賑はせること

★楽しみは好きな時間に寝て起きてワインを飲んでまた眠ること

★楽しみは年末年始も寝て起きてふだんと変はらぬ顔でゐること

身近な人がたくさん亡くなった今年を最後に平成も暮れていく

2018-12-29 01:06:17 | ブログ記事

今年は身近な人をたくさん亡くした。

まず1月11日に母が亡くなった。

それから、亡くなったことは最近知ったが、夫の妹の連れ合いも3月に亡くなっていた。

9月には母の妹の連れ合い(私からは義理叔父)が亡くなった。

義理叔父の翌日は義姉のお父さんが亡くなった。

義妹の夫(義理の弟)は、
最近でこそ疎遠になっていたが、その家が比較的近くなので、以前はよく行き来していた。

義理叔父(叔母の夫)には、義理と思えぬほど親切にしてもらった。

義姉のお父さんもよくお目にかかった。

5年前の亡兄のお葬式の会場へも火葬場へも来ていただいた。

90歳を超えて義理息子に先立たれることは辛いことであったろう。

それ以外にも、辞めた短歌結社のやさしかった選者先生も亡くなられた。

いくつになられていても、今生のお別れをすることは悲しい。

平成という御代自体が、もうすぐ亡くなる。

平成の最初の年に母の妹の叔母が亡くなり、その次の年に義父が亡くなり、
平成24年には義母が亡くなり、平成25年には兄が亡くなり、
人が亡くなるときは立て続けということを実感した御代であった。

平成が暮れんとする今、亡くなった人たちのことを思い出して懐かしみたい。

*

★平成の最初の年に叔母亡くし最後の年に母を亡くせる

★平成の御代に義父義母最愛の母を亡くして叔母義理叔父も

★亡くなれば皆なつかしく義母さへも今は再会したく思へる

★平成が過去の時代になりたればなほ懐かしくならむ死者たち

★平成の御代に心臓手術受け大腸癌の手術を受けて

★平成の御代に何度も死にかけしわれがいまだに生きゐる不思議

★鬱になり精神薬で狂ひかけ死にかけ死なずまだ生きてゐる

★死ぬよりも苦しき苦節くぐり抜けいまだ生かされゐるを確かむ

★子や孫を残せるわれの幸福を神に感謝をして次の代へ

忘れやう(短歌です)

2018-12-28 09:18:19 | ブログ記事
★忘れやう悔しきこともありしかど今年のことは今年で終はり

★去年今年ことしが去年になるときに今年のことは今年で忘る

★人うらむことも今年のことなれば忘れて待たむわれの来年

★好意にてしたことわかつてもらへずに此の世に悔しきことは多かり

★親切はしつぱなしこそよろしくてよく思はれむと思ふは愚か

★親切を仇(あだ)で返せる人もゐる此の世に生きてゐるも幸せ

★誰にでも不調はありて不調こそ学ぶ機会であると思へる

★もし人を軽くみなして扱へば必ず神の仕返しやある

★仕返しは人がするにはあらざれば神のし返す仕返し怖し

★神の子であるを忘れて分け隔てする人達に天罰くだる

★人はただたんたんたんとゐればよし後の仕事は神に任せて

★自らの受けし屈辱苦にせずに神に任せて軽やかに生く

今年の死刑執行について&赤穂浪士の切腹

2018-12-28 07:48:37 | ブログ記事
昨日、また死刑が執行されたようである。

どんな犯罪であったかも記憶にない事件だが、凶悪犯であったなら、仕方ないか。

が、私は、今年処刑されたオウム事件の死刑囚たちの処刑は、いまだに宜えないでいる。

なぜだろう?

彼らがまだ若かったということもあるかもしれない。

オウムに入信さえしていなければ、前途有為な青年たちだったと思うせいかもしれない。

さきほどブロ友さんの記事に井上嘉浩のことが書かれてあった。

彼は、処刑されたけれども、その両親によって、
浄土真宗大谷派で密かに葬儀が行われたそうだ。

井上の母校の京都洛南高校は確か真言宗系の学校だったと思うから、
別ルートからのご縁での葬儀であったのだろう。

赤の他人のことではあるが、私はよかったと嬉しく思った。

写真か映像でしか見ることができなかったが、私には彼らが極悪人とは到底思えなかった。

しかし、してしまった犯罪のせいで死刑になるのは仕方なかったか。

年末になると、現代でも繰り返し話題に上る赤穂浪士達の切腹も、
義のためとはいえ、国の法に反することをしたのだから仕方なかったのだろう。

私は中でも痛々しく思うのは大石内蔵助の長男の切腹である。

まだ16歳だった主税は、若かったこともあり、
他の大人たちと比べても、その切腹で大量の血を流したと聞けば、
遠い昔の話なのに、私などはつい涙してしまう。

いつの時代のことであっても、あたら若い人を死なせるのは忍びない。

一方、

世の中には法に触れていなくても、
もっと悪いことをしている、または、した人はいっぱいいると思う。

表に出ない苛めなどは、人を苦しめるという点では極悪の部類に入ると思う。

たとえ虐められている人が死ななくても、殺すに匹敵するほどの重罪である。


母を亡くした今年も暮れる

2018-12-27 16:05:23 | ブログ記事
昨年の12月は2度も帰省した。

12月6日に例月の帰省をして、
12月28日には「朝一番の高速バスで帰省することに」なって帰省している。

そして年が明けた1月9日も帰省して、11日早朝に母は私の隣のベッドで亡くなったのだった。

ほんの昨日のように思うが、もう一年になる。

母が生きている間は、いつ帰省してもいいように心の準備が必要だった。

が、それが私の生きる生きがいにもなっていた。

亡くなられて帰省する義務はなくなったが、
待ってくれる人のいなくなった寂しさは身に沁みる。

もっと優しくしてあげればよかったと、そればかりが思われて後悔もする。

が、仕方なかったのだ。

私以外に母を叱れる人はいなかったのだから。

最後の最後まで、母は母であった。

決しておとなしい年寄りにはならなかった。

老いても子や孫に従うことはなかった。

だから、叱らなければならないことも多くあった。

母は最期まで父の長兄の家との境のことを悔やんだ。

実家が建て直しをするとき、隣の父の長兄が家の境でいちゃもんをつけてきて、
もともと細長い敷地だったのに、結局、実家は半間ほど父の長兄に譲り渡すような恰好で
家を建てた。

狭い間口の、そのたった半間が、あとあと母を悔しがらせた。

私は同情してあげればよかったが、
「そのとき言わないで後で言っても土地は返ってこないのだから」と母に言った。

そして「今さら言うだけ無駄」とも。

が、もっと母の気持ちを汲んでやったらよかった。たとえ土地は返ってこなくても。

その境界線の土地をとられたことは、母の痛恨の出来事だったのだから。

が、私は、それをしてやらなかった。まだ死ぬとは思っていなかったから?

人が見たら些細なことでも、本人にとっては、忘れがたい記憶はあるものだから、
もっと理解してやればよかった。

私も、若いころのことを繰り返し言うものだから、夫はもちろん、子供たちにも
「もういつまでもそのことを言って」と言われてしまうが、
私にすれば、若いころの辛かったことは忘れることはできない。

そんなものだ。人というものは。

*

★もう少し母の気持ちに寄り添ひて話を聞いてやればよかつた

★年取りてことさら昔のことを言ふ母を叱りしことを後悔

★わたくしも昔のことを繰り返し言ふ老人になりてゆくらむ

★母叱りゐしわたくしが母に似て繰り言を言ふ人になりゆく

★遺伝子はこんなところに現れてわれは老いたる母になりゆく

★壮年で死にし亡父は年下になりて久しく弟のごと

★楽しみは早く彼の世に逝き父や母に会ふこと此の世を離れ

「風邪を引いていない夫の咳が止まらない」と書かれているブロガーさんへ

2018-12-27 00:01:10 | ブログ記事
その方に直接コメントさしあげたいと思うのですが、
コメント欄を閉じていらっしゃるから、自分のブログに書きます。

風邪を引いていなくて咳が出る方は心臓も疑ってみてください。

なぜかというと、私がそうでしたから。

心臓弁膜症の手術を受けたのは、55歳のときでしたが、
風邪でもないのに咳が出ていたのは若いころからでした。

特にひどくなったのが、第三子を身ごもってからでした。

そのころフルタイムでお勤めしていたから過労もあったと思います。

その後、第三子である次男を出産してからも咳が出ていました。

その次男が小学2年からスイミングを習い始めて、私は付き添っていましたが、
プールサイドにあった付き添いの親用の見学室で、いつも私が咳込むので、
周りのお母さん方が私から離れて座ったりしていました。

どうして私だけ、こんなに咳が出るのかわからないまま、
薬局で咳止めの薬を買って飲んで治そうとしていました。

当時は自分のために病院に行く生活のゆとりなどありませんでしたから。

やっと末の子の次男が大学に入った翌年、咳はひどくなって、
一口食事をとると咳、また一口食べると咳という状態になってしまっていました。

そこで病院に行くことを躊躇っていた私も、ついに病院に行くことにしました。

が、大病院に行っても、すぐには原因がわからず、肺癌かもしれないと言われたりしました。

そのときは、長女の初めての出産を控えている時期だったので、
精密検査をしてもらうことはしないで、そのまま長女の住んでいる東京に向かいました。

が、娘に、「そんなにお母さんに咳をされたら、出産する病院に迷惑がかかる」と言われて、
やむなく大阪に戻ってきました。その後、娘のところには私の母が出向きました。

大阪に戻ってきた私は、もう一口も食事がとれない状態になっていました。

それで毎日のように検査通院するのですが、あちこちの科をたらいまわしされるだけで、
何が原因かがわかりませんでした。

で、最後の最後に循環器科で超音波を当ててもらって、やっと心臓弁膜症とわかりました。

3月から病院通いを始めて、見つかったのは7月9日の木曜日でした。

それですぐに手術をということになりましたが、スタッフがそろわないということで、
手術は翌週月曜日の14日に行われました。

ブロ友さんの夫さんが原因不明の咳で苦しまれている記事を読ませてもらって、
私は自分の体験を教えてさしあげたくなって、記事にしています。

そのブロガーさんの目に留まるとよいのですが・・・。

*

★何年も咳し続けしわたくしの病名心臓弁膜症で

★咳止めの薬飲みても治らざる咳を不思議に思(も)ひゐし歳月

★超音波診断なくば心臓の弁に異常があるとわからず

★昔なら疾うに死にたるはずなりし心臓弁膜症を助けてもらふ

★助かりし命たすからざればなど思ふことあるこの頃である

平和の祈り

2018-12-26 17:48:47 | ブログ記事

ブロ友さんのクリスマスにちなんだブログ記事に
「平和の祈り」が紹介されてあって、とても素敵だと思えたから、
ご紹介させていただく。

読みに来られた方々のために、何よりも自分のために。

「平和の祈り」

神よ、わたしをあなたの平和の使いにしてください。

憎しみのあるところに、愛をもたらすことができますように
いさかいあるところに、赦しを
分裂のあるところに、 一致を
迷いのあるところに、 信仰を
誤りのあるところに、 真理を
絶望のあるところに、 希望を
悲しみのあるところに、 よろこびを
闇のあるところに、 光をもたらすことができますように、
助け、導いて下さい。

神よ、わたしに
慰められることよりも、 慰めることを
理解されることよりも、 理解することを
愛されることよりも、 愛することを望ませてください。

自分を捨てて初めて  自分を見出し
赦してこそ  ゆるされ
死ぬことによってのみ  永遠の生命によみがえることを
深く悟らせてください。


イジーさん、素敵な祈りを教えてくださり、ありがとうございました。

来年は、教えていただいた上の祈りを胸に生きていきたいと思います。

辞めたら終わり?

2018-12-26 16:20:00 | ブログ記事
昨年末、さる短歌結社を退会した私に
夏頃、(なんの手違いからか?)歌集を贈呈くださった方がいた。

すぐに感想を書いて送らせていただこうと思っていたが、
私自身、母を亡くした今年は、人様の歌集を読ませていただく気力が湧かなかった。

歌集に対峙するには対峙するだけの気力も要するから。

それでも今年中には感想をお送りさせていただけなければと、
歳晩の今月になってやっと読ませていただいた。

すぐに感想を書き、ブログアップもしたし、そのブログ記事を
歌集を贈ってくださった歌人さんにもお知らせした。

該当の歌人さんからはすぐに返信いただいた。

が、
その私の感想に対する返信は3日ほど猶予くださいとのことだった。

それで、私は3日間待たせていただいた。

が、それっきりなしのつぶてである。

私は、その方の歌は好きで、感想も好意的に書かせていただいたつもりであった。

が、それっきりということは、
その方は、結社を退会した私とはお付き合いしたくないという意思表示かもしれない。

その人のことを信頼していただけに、少なからず失望したが、
しかし、世の中は、そういうものなのだろう。

これから、結社でも、短歌界でも売り出そうとされている、している人にとって、
結社を辞めた歌人の私など、ゴミのような存在なのだろう。

本当は、そうであってはならないはずだが、しかし、これが現実なのだろう。

悲しいけれど、この現実は自分が引き受けるしかない。

いや、悲しむこともない。

結社を辞めることを選択したのは私自身だったのだから。

人がどういう対応をしようとも、私は私である。

どういうふうに対応されても、私という人間の価値が下がることはない。

もちろん上がることもないけれども・・・。

*

★人は人おのれでなくばその人にそのやり方のあるを宜ふ

★名が売れてなんぼのものと思ふ吾(あ)は名を惜しむひと軽蔑すかも

★歌が好きただそれだけで歌を詠むわれに名声欲る人はゴミ

★名は捨てて歌は読むべし名声で読むべきものでは決してあらず

★名声を欲る歌人(うたびと)の作品はそこから腐敗し始む定め

★うぬぼれが歌の大敵うぬぼれが生まれて歌は腐り始める

★名声にもつとも遠いところにて歌は生まれるものとこそ知れ

★日の目見し歌はそこからカラカラと転げ始める理(ことはり)ありて

★去り行くも残るも人の運命(さだめ)にて人さげすめば蔑まるる理(り)

★此の世ではこれで済むとふ錯覚を持ちて死にゆく者らがわれら

★錯覚を持たぬゴリラら森に住みヒトの錯覚さげすみてゐる

★ヒトよりもゴリラの言葉に馴れしかばゴリラ語話す山際寿一

クリスマスの思い出

2018-12-25 21:07:32 | ブログ記事
自分の幼かったころのクリスマスの思い出で心に残っているのは、

幼稚園児くらいだったころ、
近所の子が持っていたゼンマイで動くウサギが欲しくてたまらなかった。

それがクリスマスイブの翌朝、私の枕元にあった驚き。

サンタさんはいると確信した。

が、そのころ、近くの児童公園に行くと、少し年かさの男の子たちが、

「サンタクロースなんか嘘だ。あれは親が買って枕元に置いているだけだ」と言っているのを聞き、
また驚いた。

私は、親にゼンマイで動くウサギがほしいなんて一言も言った覚えがなかったから、
それは違うと思った。

それは私の幼かったころの思い出だが、

今度は私が親になってからの私の子供たちの思い出もある。

私の上の二人の子は、小学校に入学しても、まだサンタさんを信じていて、
クリスマスイブの日は、ベランダの窓を少し空かせて寝た。

翌朝、枕元にプレゼントが置かれているのを発見した二人の子は、
ベランダから空に向かって、

「サンタさん、ありがとう」と大きな声でお礼を言っていた。

上の二人の子は、比較的大きくなるまでサンタクロースを信じていたと思う。

年の離れた第三子については、あまり記憶にないが、この子は上の子たちがいたせいで、
そんなに大きくなるまで信じていたことはなかったと思う。

いま自分が老人になって思うことは、
子供たちには、できるだけ長く、こうした夢を見させ続けてやりたいということだ。

そうすれば、大人になって辛いことがあっても、
子供の頃の楽しかった思い出を思い出して、また生きる力を甦らせることができると思う。

できれば、大人になってからも、いや一生、夢を見続けていられればと思う。

*

★朝おきてゼンマイ仕掛けのウサギさんありしに驚く幼(おさな)でありき

★わが子らは窓を閉めずに寝た夜を覚えてゐるやサンタを待ちて

★クリスマスイブの翌朝大声で空に向かひて言ひしありがたう

疲労困憊の身体で美容院と病院のはしご

2018-12-25 19:45:01 | ブログ記事
最近の続けざまの外出のせいで、疲労困憊の私は、
今朝は朝食を食べたあと、またソファで眠ってしまった。

火曜日の朝は生協の配送もある日だったが、ぐっすり眠っていて、
たまたま在宅していた夫が受け取ってくれた。

午後は病院に行く日だったが、とても行く力が出ない。

最近は、病院に行く日には、美容院にも行くことにしているから、
お風呂を沸かして熱い湯に浸かってから、やっと服を着替えることができた。

それで予定通り美容院にも行ったのだが、年末が近づいているせいか、これが大混雑。

髪をカットしてもらうのに30分も待たされたので、病院にはぎりぎりに到着した。

病院に到着すると、今度は、病院がまた大混雑。昨日が休日だったせいだ。

私は、病院の混雑を避けて、通院の予約は火曜日午後にしているのだが、
今日の午後は週初めの午前中のような混み具合だった。

やっと診察してもらったが、私の身体は、こんなに疲労困憊しているのに、
血液検査の数値はよかった。

これは、最近は、よくツアーに参加したりして、よく歩くからだろう。

やはりツアーに参加することは、心身ともに私の健康に役立っているのだ。

が、体重が減らないのはなぜだろう?

もともと私は、祖母に似て、太りやすい体質なのだろうか。

私の母は、よく動くということもあったが、あまり太る体質ではなかった。

親子でも、体質は違う。

母の母、私の祖母は太りやすい体質だったから、私は隔世遺伝で祖母に似たのだろう。

その祖母の妹、大叔母は、私の母と同じ体質で、太るタイプではなかった。

こういうふうに同じ一族でも、違う体質の人間がいるということは面白いし不思議だ。

*

★病院と美容院とをはしごする日がひと月に一度あるなり

★病院は昼飯抜いていく決まり故に昼前行く美容院

★家にゐて食べてしまふを避けるため通院の日は昼前に出る

★よく出かけよく歩いても体重の減らぬ体質らしきわたくし

★体重は減らぬが血液検査して結果よければそれでオーケイ

★祖母に似て太りやすきかこの身体体質ならば如何ともなし

★大叔母と母は食べても太らざる体質なりしに祖母と私は

孫娘とクリスマス会

2018-12-24 20:50:31 | ブログ記事
今日は近江八幡市の長男の家に行ってクリスマスイブを楽しんできた。

プレゼントは、夫が買ってあったのだけを持参して、私は向こうで買うつもりだったが、
都合により買いにいけなかったので、また年が明けてから買いに行こうと思う。

ということで、皆でいただいたクリスマスケーキ。

横に置いてある、ぬいぐるみとかは夫からのプレゼントです。


その前出たご馳走も写したかったが、皆で話をしていたから写しそびれた。

ご馳走は、お嫁さんお手製のピザ、サラダ、鶏のから揚げ、おにぎり等であった。

*

★一人子の孫は来客大好きで人の姿を見ては喜ぶ

★ご馳走を食べたその後にケーキ見た孫の歓び尋常ならず

★父母祖父母四人の大人に囲まれてかごめかごめの孫であるかな

★寝たきりの孫の据わらぬ首固定して座らせるクリスマスイブ