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あるきんぐクラブ蔵出し秘蔵シリーズ 第一弾 ~ヨウディレクター編集~

一枚目は題して『別冊 ひと』(←「ぬおっ!1993年5月号っ!17年前、ヨースケ13歳」)




ヨウ:「え~、先にお断りをしておきます。今回のブログは、大変長いでございます。
    しかも、写真もないっす!
    なにせ、雑誌の活字いっぱい様式にして7ページにわたるもの(中略アリ)。
     
    みなさま、どうぞごゆるり茶でも飲みながら、時間に余裕をもってご覧ください。
     

    なお、タケ・ヨウは明日より5日間ほど長野の方へ植物調査へでかけます。
    その間ブログの更新はできませんので、ごゆっくり今回のものをお楽しみください♪
    ではでは、本編のスタ~ト





 本日、山の家1Fのフォトアルバムなどが置いてある本棚を整理していたところ、1993年、なんと今より17年も前の雑誌に掲載されていたタケさんの記事を大発見っ!


 思わず手に取り読んでみると、
 「フムフムなるほど、これらすべてがあるきんぐクラブの『今』へとつながっている・・・」
 と、改めて思える興味深いものであったので、思わず蔵出しスペシャルっ!


 ここに書かれたものは、17年も前の古いもの。
 しかし、それらはけっして過去の遺物ではなく、現在の「あるきんぐクラブ」の考えの礎であり、歴史そのもの。 
 
 
 
~ すべてがつながり、すべてが、今ここに。『あるきんぐ列伝 第一章』 ~
 

 これは、見逃せない・・・。





 <以下若かりしタケの秘蔵文章>



「自主保育」と「あるきんぐクラブ」の活動
 <<”教えない”子育ての場>> 



子どもが”教えられ続ける”現実を前に、教師になってもいいなという思いが色あせる

 ここ、”あるきんぐクラブ山の家”では、子どもたちの私への呼称が一定していないということに、私自身がおもしろさを感じている。
 最近は竹内の竹の字をとって「タケさん」と呼ぶ子がまあまあ多いが、「タケー」「タケウチー」「タケウチサン」とか、名前を呼ばずに「ねえ」「あのー」「あのサー」という子もたくさんいる。
 新顔の子に時々あるのだが、なにかの拍子に「先生!」と呼んでしまう子がいる。そのとたん、まわりの子も本人も、「アレーッ」という顔をしてゲラゲラ笑い出す。
 自主保育グループ、おひさま会の保育者をしていたころ、5歳のイク子にこう聞かれたことがあった。
 「ねえ、誰がお弁当をつくってくれるの?」
 私は「ぼくといっしょにいる女の人。ふつうは奥さんて呼ばれてる人」なんて答えた覚えがある。そこまでは別になんてことのないふつうの会話だったのだが、いく子の質問は続いた。
 「ねえ、じゃあ、夜は誰が寝かせてくれるの?誰が本を読んでくれるの?」
 私は「自分でだよ・・・」と答えながら、ハッとした。

  ”自主保育では先生という呼称は使ってないが、この子は私に対して「先生」どころか、「おとなの人」というイメージも薄いんだ。いいナ、この感じ”。

 よい教師に出会うことが教師になる道につながるとよく言われた。友人のなかにも、何人かそんな例をみることができる。
 私も、小学校5・6年の時の担任の先生との出会いは、特別にすばらしいものだったし、その先生から得たものは数多い。”おとなになったら先生になれるかな、なってもいいな”と、心の片隅で思うようになったのもそのためだ。
 ただし、その後、大学で教職課程もとったのだが、教師にはならなかった。私の場合、高校を卒業してから2年間、専門学校にかよい、その後社会にでて、児童福祉施設で5年間働いてから、大学に入学した。
 この回り道のあいだに起きた子どもをとりまく状況の変化は、思っていたより激しかった。激しすぎたと言える。
 
 ”よく遊ぶ”だけですんでいた時代から”教えられつづける”という時代に変わってしまったのだ。

 東京の下町で生まれ育った私には”遊び”がすべてだった。学校も、友達と遊ぶという楽しさの延長で行っていたし、学ぶことはおまけだった。長屋住まいでは、寝る場所はあっても遊ぶ場はなく、下校後は、暗くなるまで外で友達と遊んだ。いまの子ほど早期に、しかも過剰に異性を意識することもなかったから、そのために遊びへの好奇心を壊されることはなかった。

 私が大学を卒業したころ、子どもの遊びの代わりにはいってきたもの、それは先生の過剰供給ともいえる状況だった。学校にはもちろん先生がいて、塾でも先生が待ちうけ、習い事もしかり、スポーツをやるにもコーチと呼ばれる先生がいる。
 といった具合で、ひたすら教え続けられる対象として、子どもたちが位置づけられてしまっていた。
 私の頭のかたすみにあった、”先生になれるかな、なってもいいな”という思いは、この現実をまえにして色あせたわけである。


自分のことを「山の家のおじさん」としか言いようがない

 ただし、子どもたちと同じ空間をともにすることが好きな私は、子どものたちのおのおののイメージや思いつき、ひらめきといったものを、子どもたちがあくまで自分のペースでやってみることのできる場を用意すること、言いかえれば、子どもの側に立って、彼らの活動を広げる手助けをするための動きに、私自身のアイデンティティをすえることができないだろうかと考えた。
 私がやろうと決めたものは、たとえば「教師」とか「ケースワーカー」というようなことばでは内容を言い表せないものだし、現在の私自身「山の家のおじさん」という漠然としたことばでしかそれを言い表せない。

 前置きが長くなってしまったが、そんな想いが心のなかにあったために、その後、私は情緒障害児のケースワーカー、自主保育グループの保育者となり、また、子どもの冒険遊び場づくりの運動、水曜塾、あるきんぐクラブの運営などにかかわるようになった。




~時間とヨースケの腱鞘炎防止の関係で、ちょこっと中略(全部読みたい方は、山の家へGO!(笑)





あずけっぱなしではなく、親も参加するのが自主保育=野外幼稚園の原点

 駒沢おひさま会(←タケが保育者をした自主保育グループの名)では、「子どもを中心・・・」というスローガンのようなものがミーティングにあがらないわけでもなかったが、実体は、子ども・親・私、要するに、保育にかかわるものすべてが中心である状況づくりをしていたのだと思う。
 大人も子どもも、保育の場で自己主張をし、ひらめいたこと、やりたいこと、また自己のペースなどを極力大切にし、それを具現化するための努力がいつもなされていたと思う。

 大人の側の営みとという点で見ると、親が当番として参加し、互いに子育てをしあうということが自主保育の原点であり、親の全員があずかる側でもあり、あずける側でもある。その点が、あずける側とあずかる側にはっきりわかれている学校のPTAとはちがう。
 ”PTAの会議は下駄箱から始まる”というPTAを揶揄する言葉(終わって下駄箱で靴を履くころにやっと本音がでたり、話し合いが始まるの意)がありますが、おひさま会のミーティングは、親たちも保育にかかわり、集団で子育てしているため、真剣だった。泣きながらとか、机をたたいてなんていうこともよくあった。

 あるとき、保育後のミーティングで、ふたりの母親が議論を始めたのだが、時間も限られていて、その場は未消化で終わってしまった。その日の夜中の12時ごろに、一方の母親から電話があり、「竹内さん、考えたんだけど、どうしても話をしたいので、彼女にそのことを伝えたら、そうしようということになったの。いま、彼女の家に行くんだけど、竹内さんも立ち会ってほしいの・・・、」とのこと。自転車でかけつけると、二人がコタツでむかいあっていて・・・、なんていうこともあった。


保育は”幼児教育”ではなく、”子育ての延長”としてとらえる

 年度末の最終日、もちろん年長さんにとっては卒会の日。この日のお昼をプレーパークのかまどでつくったり、持ち寄りの料理をみんなでつつきあうというスタイルにするか、最後の日こそ、子どもたちの遊びをめいっぱい保障するため、マクドナルドでもいいんじゃないかと、何時間も使って、ミーティングでもめたことがあった。これは、いまでも「マクドナルド論争」とネーミングされ、語り継がれている。
 このようなことを通して、くだらないと思えるようなことも真剣に話しあえるのはいいこと・・・とか、個々が自分のおろかさをさらけだすことはお互いの信頼関係を強めるのだということを、みんなで学びとる雰囲気があった。

 共同の子育てなんだから、父親の参加もうながしたいという母親たちの強い希望も、いくつかの難問を乗り越えながら、あたりまえのこととなった。
 土曜日の保育当番が父親でうまったり、父親が連れて行く”山登り遠足”や兄弟の参加もOKで、母親が参加しない2泊3日の父と子のキャンプも、いまにいたるまで毎年続いている。

 自主保育グループは、”保育”ということばを幼児教育ではなく、”子育ての延長”としてとらえているということだろう。
 すみからすみまでシステム化されているいまの教育とくらべると、とてもゆるやかで、いい意味のすきまがあるといえるかもしれない。


子どもたちが成長してからも、子どもたちと付き合いたい

 私が自主保育にかかわった9年間は、とてもかけがえのない、楽しい、しかも、自分のアイデンティティを満たすものだった。ただし、欲張りなのだろうか、自主保育を始めてすぐのころ、私は、幼児のあいだだけではなく、彼らが拒否しないかぎり、その後もずっとつきあいたいと考えはじめていた。
 そこで生まれたのが「水曜塾」と「あるきんぐクラブ」。「水曜塾」は学校が終わった後(このころ水曜日は午前授業だった)、ランドセルを背負ったまま我が家に集まり、みんなで好きなことをやり(手作りタコにカメラをつるし、一年かかって自分たちの姿のはいった空中写真をとる、etc)、当番が夕食をつくり、食事中、みんなで相談しながらつぎのアイデアをふくらませるということをやっていた(これは、私が川場村への移住が決まり、消滅)。

 あるきんぐクラブは今から12年前に始めた。(※注1981年です)
 会員は、現在約200家族。5年前、私は、おひさま会でのポジションを若者にバトンタッチし、群馬県利根郡川場村の、自然豊かな山あいの3戸の集落に家族で移住したため、クラブのベースも川場となった。
 2軒の廃屋(宿泊棟として使用)、会員と私で建てた3階建ての丸太小屋。羊を飼っている小さな牧場、一反強の畑、雑木の森などが、借り物もふくめてクラブのベースになっている。
 
 自主保育時代は、都会のすきまに息づく自然をひたすら求めていた。
 いわば、”不自然”のなかで自然を求めていたわけだ。
 
 ここ川場村の自然の豊かさは、東京に比べると圧倒的とさえいえる。人間の生き方の原点でもある自然のなかでの自給自足の生活、それができない東京とできる可能性のある川場との場の違いは大きい。
 
 目線もそうだ。私も東京では、美しい女性を見かければ、瞬時に目があう。(それもナチュラルではあるが・・・)ここでは自然のすばらしさに目を奪われる頻度が、がぜん増してくる。野に咲く花は、ときに女性より美しい。物の氾濫に目を奪われている子どもたちも同じだと思う。川を見たら岸におりてみたい。岸におりたら川にふれてみたい。そして、その水を飲んでみたい。そういう自然な子どもたちの気持ちを大切にできる場を、私は用意したい。


2週間のサマーキャンプ。徹夜をためす、体を洗わない、半漁人になる・・・

 そのために企画しているのが、年10回の例会、春2回、冬1回の3泊4日の合宿、そして夏のサマーキャンプ。どの企画も自然の中に出て行って、じっくりかかわることを目的としている。一年を通じて一番大きなイベントであるサマーキャンプについては、少し詳しく書いてみる。
 
 サマーキャンプは2週間という長期のキャンプで、場所は川場村の山奥、他人の干渉が何もない、私たちしかいない森で行われる。ノンプログラムで、ルールもほとんどなし、子どもの班に大人はつかない。トイレをつくること、水道をひくこと、テントをたてることから始める。大人は大人で班をつくり、さらに食材料を調達することや、健康のチェック、機材の管理、台風への対処など、側面から支えると同時に、子どもたちとともに自然のなかでの生活を楽しむ。キャンプインの方法は自由なので、大半は電車で来るが、東京から自転車や歩きでキャンプインする子どもたちもいる。
 
 子どもたちの森での2週間の過ごし方は、実にいろいろ。だれにも共通しているのは、学校や親から離れ、ルールもほとんどないということからくる解放感。徹夜をためす子、2週間シャワー(手作りのドラム缶風呂もある)はあびない、歯もみがかない、顔も洗わない、服も着がえないなんていうつわものたちもいる。顔に色をぬったくって別人になる子、「私は半漁人になる」と言い、足にうろこを書いてくらす子。火起こしに夢中になる子。
 食事づくりが落ち着き、テントでの生活に身体がなじんでくると、グループをつくっての山登りや、キノコ採りツアー、村に遊びにいくツアー、川遊びツアー・・・、キャンプサイトでブランコをつくる子、工作をする子、絵をかく子、花つみをする子・・・などなど。
 キャンプ後半は、森での生活を惜しむような動きも出てくる。星を見ながら外で野宿をする。夜通しで語り合う。全員が参加してのおまつりは、パフォーマンスや劇、歌などでバクハツ的に盛り上がるのが常だ。そして、ほとんどの子が「まだキャンプを終わりにしたくない・・・。」という思いをもちながら最後の日になる。
 
 ありふれるほどの自然があって、子どもと同じ空間をともにしたい人間が場を用意していて、そこに子どもたちがやってきて、彼らが好きにうごめくだけで、きっと、自然みずからが子どもたちになにかを語りかけてくれる・・・。それが、私の実感とも、希望ともいえるところだ。

<完>         




 いかがだったでしょうか?
 「あるきんぐクラブ」が、NPOになるもっと前。
 今のような毎週末のイベントが年間スケジュールとして組まれる、もっとずっと前。
 
 「あるきんぐクラブ」の、一歩一歩のたしかな歩み。
 来年、30周年。

 また、時々蔵出しをしていければと思っています。
 お楽しみに♪


ヨウ:「アッ! 本棚の片付け・・・、ぜんぜん終わってない・・・。ま、いっか(笑)」


タケです。
今日は、自然体験活動関連の研修会で
一日出かけて帰ってきたら、
ブログがこんなことに。
17年前・・・ですよ。
若い時の自分に無理やり会わせられたカンジで、
ちょっとね。

明日の朝早く発って、
植物調査の出稼ぎに2人で長野に行くため、
5日間更新でき無いです。
ということで・・・す。

ちなみに、
「ひと」という雑誌は遠山啓さん(=故人)
という数学者で
教育界で活躍された方。
その遠山さん中心に集まった人たちが、
以前太郎次郎社から刊行していた教育雑誌で、
月間と特集別冊とが出ていました。

(現在の)NPO法人あるきんぐクラブ・ネイチャーセンターのイベントの案内は
→こちら。(PDFファイルです)

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コメント ( 5 ) | Trackback ( 0 )
« 薪運び・・・ 信州から帰っ... »
 
コメント
 
 
 
・・・・ (サト)
2010-11-30 20:29:44
よし、卒論終わってから読みます。
 
 
 
フムフムなるほど・・・ (じゅんじゅn)
2010-12-04 16:04:46
ようちゃんの言うように

「フムフムなるほど、これらすべてがあるきんぐクラブの『今』へとつながっている・・・」

を感じる…。

たくさんたくさんの人がいて想いがあって、さまざまな出来事が積み重なって、そのすべてが、あるきんぐクラブなんだな…と。言葉では言い表せないほどの「固さ」を感じます。

 
 
 
ついこの間のことのようで・・・ (せいこ)
2010-12-06 22:05:53
 読んでいて、いろんな景色や、においや、温度や、気持ちやそしてみんなの顔を想い出しているよ。
 私は反対に、いまのことを知らないから、こっちのほうがついこの間のことのように想うよ。
 そして、確実に言えることは、このころのタケさん
、あるきんぐクラブとの出会いが今の私の根っこになってるということ。
 もう一度、原点に返って、新しい自分に会いたいんだ。あいに行くよ。  待っていてね。                  
               せいこ
 
 
 
すごい・・・ (うり姐)
2010-12-07 12:37:45
なんか、すごい・・・

子供の頃から都会のみで生活し、
山とのかかわりは、あるきんぐが初めての私には、眩しすぎます。 
子供時代にタケさんと会いたかったなぁ。


今度、全文を読みに行きます。
 
 
 
コメントを下さったみなさん、 (タケ)
2010-12-07 16:28:43
ありがとう。
やはり若いときの自分に会ってしまった…ようで、
恥ずかしさが。

でも、思い…と、やっていることは、
変わっていないですね。

コレって
成長していないのかも?!?

今、課題としては、
子どもたちの低年齢化…だったりします。

クラブのキャンプは、
元々小学校1年生もOK状態でやっていたのですが、
低学年の割合が多くなってきています。

テントで森で暮らす…ということでいうと、
森の幼稚園のような状態?!?

ただし…、今年のキャンプ。
1年生は4人いて、
1人は女の子で高学年とも張り合える元気で落ち着いた子。
1年男子3名の男どもは、
犬っころのようにずっとじゃれあっていました。

今年もキャンプの画像は以下のページから
数ページにわたって見ることが出来ます。
http://blog.goo.ne.jp/kaminari56/e/89fb76fa3082c22453c51d4ff3234c46
 
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