神子屋教育🇯🇵(かみこやきょういく)

我が家流/みみかとママの「おうち」教育

神子屋流思考/全部あるから完璧!

2014年04月21日 | 不登校
※「神子屋教育の礎」※

ある時期、みみかが「馬鹿!馬鹿!馬鹿!」「みみかは馬鹿だ!」と自分に対して癇癪を起こす。
やりかけの事柄が上手くいかないのか、「なんにも上手に出来ない!みみかは馬鹿だ!」と自分を卑下して悲観的な感情が止まらない。
ブルーに陥ってしまったみみかに、「そんなこと無いよ!」「みみかはいろんことが出来て賢くていい子だよ!」と、私は励ます。
すると、その言葉を聞いた彼女「みみかはいい子じゃないもん!!」「みみかは馬鹿だもん!!」と、悲観的な癇癪は前よりも増して悪循環に陥った。

自分を悲観的な感情の渦に貶めて卑下する。
その思い以外のものは何も受け付けず、ただひたすらブルーな悪循環に流される。
そういうことはよくある、そうそう私にもよくあること。
だから、嫌だ!見たくない!
まるで自分を嫌う自分を見るようだ。

みみかのその悪循環を必死になって止めようと、私も励ましの悪循環を繰り返す。
悪循環の流れに乗った励ましは、悪循環に組み込まれるだけでその流れを決して止められない。
それに、『馬鹿なみみかは本物じゃない、いい子じゃないみみかは本物じゃない!』と。
『賢いは良くて、馬鹿は悪い』『いい子は良くて、いい子じゃないのは悪い』。
そんな善悪判断の入り混じったみみかの完璧さを励ましても、本当の完璧を知る彼女の魂は納得しない。

~ ※ ~ ※ ~ ※ ~ ※ ~ ※ ~ ※ ~ ※ ~ ※ ~

あるとき、みみかがまだ小さかった昔、公園で一緒になった男の子の母と何気に交わした会話を思い出す。
その頃の私は、鏡を覗き込んで可愛い笑顔を作ったり、ぬいぐるみを小さな手でなでなでする愛らしいみみかを見て『女の子にしか出来ない女の子らしい可愛らしさや愛らしい気持ちを、彼女は体験し楽しんでいるんだな』と、それに対し『男の子は男の子にしか出来ない男の子らしい表現を体験しているのかも知れないなあ。だから、ワンパクなのは当たり前といえば当たり前の行動なのかも・・。』と、わが息子たちに手を焼き気を揉む母たちを見るにつけ、いつもそんな風に思っていました。

しかし、私が出会ったその母は、他の男の子たちのようなワンパクぶりとは違う悩みを抱えておりました。
それは、自分の息子の行動が『大人しすぎて心配だ!』というものでした。
それを聞いた私は、どちらかに偏る必要の無いこと、しかもどちらかが良くてどちらかが悪いという決め方をする必要も無く、どちらもあっていいのだと理解を深めたのでした。

性格は素晴らしい個性であって、個性というものは一種の道具であり、その子/個がその子/個の人生を生きるために必要な『絶対不可欠であり完全無欠なもの』。
性格の短所(と見えるところ/と思えるところ)があればこそ、その個性を完璧にしている。
そう理解した私は、この世にただ一つしかないその個性には、ワンパクや大人しい、意地悪や優しい、穏やかやご陽気など、その子/個に最もふさわしい部分の表現方法がちゃんと取られているのだと、その完璧さを知ったのでした。

~ ※ ~ ※ ~ ※ ~ ※ ~ ※ ~ ※ ~ ※ ~ ※ ~

『人間は完璧!全部あって完璧!』
そんな理解を私は深め自分のうちに刷り込んできたはず・・と思い出し、「自分は馬鹿だ!」と相変わらず自虐的に自分を卑下するみみかに伝えた真理。
「あのさ、みみか。人間は完璧なんだよ。完璧っていうのは全部あるっていうことで、馬鹿も賢いも両方あって完璧なんだよ。馬鹿でアホな部分のみみかが無いっていうことの方がおかしくて大変なこと。みみかは人間じゃ無いってことになっちゃうよ。全部あるから完璧なんだよ!」

その時から、みみかのブルーな悪循環と私の励ましの悪循環はパッタリと止まりました。
何よりも一番の進歩は、そう言い伝えることの出来た私自身が、自分の嫌いだった部分を赦し受け入れ『それがあって完璧!』だと思えるようになり、他人の気になる行いを見ても『みんな完璧!』と受容し批判する心が無くなったことでした。

(2008/10/29掲載文)
この記事についてブログを書く
« 神子屋流思考/生命 | トップ | ゆたかびんぼ~生活術/いろ... »

不登校」カテゴリの最新記事