上美生の「たらんぼの会」から「上美生ほしぞらプラン会議」までの経緯が十勝毎日新聞の記事になりましたので紹介させて頂きます。
以下、十勝毎日新聞より
………………………………
あの時の記憶(45)「芽室 たらんぼの会事務所開き」
旧種馬所を活用したたらんぼの会の事務所前で開かれたテープカット。内部には昔の農機具の展示スペースもあった
【1992年5月17日】
川端勇一さん「自分たちが懸け橋に…責任感も」
新たな住民 山菜で歓迎
1992年5月17日、芽室町上美生地区の旧農水省種馬所の前に集まったのは、十勝での生活に憧れて道外などから移住した約40組と地域住民たち。この建物を都市と農村の関係を考える「たらんぼの会」の事務所としてオープンするのに合わせ、焼き肉やたらんぼの天ぷらを食べながら交流する「てんぷらパーティー」が初めて開かれていた。
移住者受け入れの経緯を振り返る川端さん
▽百年遅れの屯田兵
90年に十勝毎日新聞社と出版社メディアボックスが「北の大地に移り住む・十勝篇」を発刊し、「百年遅れの屯田兵」と名付けられた読者で作るファンクラブは93年に500人を数えるまでになった。屯田兵ツアーと呼ばれる見学や体験も頻繁に開かれ、上美生も訪れるように。「たらんぼの会」は上美生の住民を中心に移住者の受け入れ体制を整えようと、92年1月に立ち上がった。
たらんぼの役員を長く務めた町伏美の酪農業川端勇一さんは初回のパーティーを開いた時、「移住者の多さに改めて驚くと同時に、自分たちが地元と移住者との架け橋にならなければいけない責任感も感じた」と振り返る。
山菜の「たらんぼ」は上美生周辺の日高山脈の麓には多く自生する。川端さんは「たらんぼを採るには、たらの木のとげの洗礼を受けないといけない。自然に憧れて移住する人にとっても同じように課題がある。上美生のよき理解者であることを心掛けた」と話す。
何度も上美生に足を運び、移住への真剣さが感じられる人には、会員たちが家や土地探しに協力。自家農園づくりに向け、会員の農家の協力で「たらんぼ農園」を作ったり、冬道で事故を起こす移住者向けに運転講習会を兼ねた冬の祭りを開催したりして、移住者と受け入れる地域住民との距離を縮めていった。
当時、上美生地区は生徒数減少で中学校存廃問題に揺れていた。老朽化に伴い改築の必要性が現実を帯びた89年、町は新設する西中学校への統合案を採択。同地区では存置期成会を立ち上げて反対した。初代会長を務めた町雄馬別の本田景茂さん(67)はこう振り返る。「子供は地域の宝。『学校がなくなれば地域がなくなる』と住民がまとまった」。
中学校は結局存続が決まり、95年には新校舎が建設されたが、その議論の渦中で持ち上がったのが、移住者受け入れだ。上美生出身で当時企画調整課長を務めていた宮西義憲町長(70)は91年のPTA懇談会で「反対するだけではなく、地域の子供たちを増やすことを考えるのも必要ではないか。移住したい都会の人の受け皿づくりはひとつの方法」と発言した(上美生郷土史から)。聞いていた村上晴一郎PTA会長(当時)らが翌年、「たらんぼの会」の発足にこぎ着けた。97年からは山村留学の受け入れも開始。今も小中学校を核に、地域のイベントには多くの子供たちのにぎやかな声が響く。
十勝への移住者と上美生の住民が交流した「てんぷらパーティー」。収穫した「たらんぼ」の天ぷらや焼き肉を囲んだ会は2011年まで毎年開かれた
▽理念は次世代へ
サラリーマン、音楽家、農家、不動産やパン店を営む人-。20数年が経ち、上美生には多くの移住者がたどりついた。同地区で暮らす移住者は約40世帯を数える。ただ、理想の仕事や居住環境に恵まれず、この地を離れざるを得なかった人も多い。「こんな田舎にせっかく来てくれた人がいなくなってしまうのは寂しいことだが、無理して住まわせることはお互いにとって不幸なこと」と川端さんは語る。
たらんぼの会は2012年の設立20年を機に解散したが、人口減少問題にスポットライトが当たる中、昨年、若い世代や移住者が地域の将来像を描く「上美生ほしぞらプラン会議」(蘆田千秋代表)もできた。移住者受け入れを通し、上美生の課題を考えてきた地域住民たちの理念は次の世代に受け継がれつつある。(深津慶太)
以下、十勝毎日新聞より
………………………………
あの時の記憶(45)「芽室 たらんぼの会事務所開き」
旧種馬所を活用したたらんぼの会の事務所前で開かれたテープカット。内部には昔の農機具の展示スペースもあった
【1992年5月17日】
川端勇一さん「自分たちが懸け橋に…責任感も」
新たな住民 山菜で歓迎
1992年5月17日、芽室町上美生地区の旧農水省種馬所の前に集まったのは、十勝での生活に憧れて道外などから移住した約40組と地域住民たち。この建物を都市と農村の関係を考える「たらんぼの会」の事務所としてオープンするのに合わせ、焼き肉やたらんぼの天ぷらを食べながら交流する「てんぷらパーティー」が初めて開かれていた。
移住者受け入れの経緯を振り返る川端さん
▽百年遅れの屯田兵
90年に十勝毎日新聞社と出版社メディアボックスが「北の大地に移り住む・十勝篇」を発刊し、「百年遅れの屯田兵」と名付けられた読者で作るファンクラブは93年に500人を数えるまでになった。屯田兵ツアーと呼ばれる見学や体験も頻繁に開かれ、上美生も訪れるように。「たらんぼの会」は上美生の住民を中心に移住者の受け入れ体制を整えようと、92年1月に立ち上がった。
たらんぼの役員を長く務めた町伏美の酪農業川端勇一さんは初回のパーティーを開いた時、「移住者の多さに改めて驚くと同時に、自分たちが地元と移住者との架け橋にならなければいけない責任感も感じた」と振り返る。
山菜の「たらんぼ」は上美生周辺の日高山脈の麓には多く自生する。川端さんは「たらんぼを採るには、たらの木のとげの洗礼を受けないといけない。自然に憧れて移住する人にとっても同じように課題がある。上美生のよき理解者であることを心掛けた」と話す。
何度も上美生に足を運び、移住への真剣さが感じられる人には、会員たちが家や土地探しに協力。自家農園づくりに向け、会員の農家の協力で「たらんぼ農園」を作ったり、冬道で事故を起こす移住者向けに運転講習会を兼ねた冬の祭りを開催したりして、移住者と受け入れる地域住民との距離を縮めていった。
当時、上美生地区は生徒数減少で中学校存廃問題に揺れていた。老朽化に伴い改築の必要性が現実を帯びた89年、町は新設する西中学校への統合案を採択。同地区では存置期成会を立ち上げて反対した。初代会長を務めた町雄馬別の本田景茂さん(67)はこう振り返る。「子供は地域の宝。『学校がなくなれば地域がなくなる』と住民がまとまった」。
中学校は結局存続が決まり、95年には新校舎が建設されたが、その議論の渦中で持ち上がったのが、移住者受け入れだ。上美生出身で当時企画調整課長を務めていた宮西義憲町長(70)は91年のPTA懇談会で「反対するだけではなく、地域の子供たちを増やすことを考えるのも必要ではないか。移住したい都会の人の受け皿づくりはひとつの方法」と発言した(上美生郷土史から)。聞いていた村上晴一郎PTA会長(当時)らが翌年、「たらんぼの会」の発足にこぎ着けた。97年からは山村留学の受け入れも開始。今も小中学校を核に、地域のイベントには多くの子供たちのにぎやかな声が響く。
十勝への移住者と上美生の住民が交流した「てんぷらパーティー」。収穫した「たらんぼ」の天ぷらや焼き肉を囲んだ会は2011年まで毎年開かれた
▽理念は次世代へ
サラリーマン、音楽家、農家、不動産やパン店を営む人-。20数年が経ち、上美生には多くの移住者がたどりついた。同地区で暮らす移住者は約40世帯を数える。ただ、理想の仕事や居住環境に恵まれず、この地を離れざるを得なかった人も多い。「こんな田舎にせっかく来てくれた人がいなくなってしまうのは寂しいことだが、無理して住まわせることはお互いにとって不幸なこと」と川端さんは語る。
たらんぼの会は2012年の設立20年を機に解散したが、人口減少問題にスポットライトが当たる中、昨年、若い世代や移住者が地域の将来像を描く「上美生ほしぞらプラン会議」(蘆田千秋代表)もできた。移住者受け入れを通し、上美生の課題を考えてきた地域住民たちの理念は次の世代に受け継がれつつある。(深津慶太)