I was born.という散文詩について(「私は生まれた」のではなく「生まされた」のか)

道新文化センターが行っている「講座」の中で、私が参加しているのは「短歌」と「教科書の名作を学び直す」の二つ。後者について、このブログでは21年12月22日と今年の1月20日「オツベルと象」で少々コメントしている。
昨日、この講座でとりあげられたのは、高校1年の「現代国語」に採用されている吉野弘という人の「I was born.」だった。この吉野弘という詩人は、山形で1926(大正15・昭和1)年生まれ、2014(平成26)年(米寿を翌日に控えた1月15日)に逝去された詩人。また、吉野弘は12歳のとき母に死なれ、次の母も父再婚後1年弱で死去。そして近視故に徴兵検査は「乙種合格」だった、山形歩兵第32連隊入営予定日5日前に敗戦という数奇な青春期を経ていた。

この吉野がつくった「I was born.」という詩は、1952年に発表された。「この散文詩は吉野の代表作、現代詩の一つの到達点を示すもの」との評価を得ていた(原子朗、八木忠栄、他)。

この詩についてだが、検索して欲しい。タイトルを打って入れるとすぐに画面に出てくる。

身重の女性とすれちがった「僕」は「生まれる」ことを考える。英語では「I was born.」という受け身で表現される。受身形だ。「生まれる」のではなく「生まれさせられる」という意味を表している。
これについて詩は、父との会話を紹介し、最後の数行は次のようになっている。

「父の話のそれからあとは もう覚えていない。ただひとつ痛みのように切なく 僕の脳裏に灼(や)きついたものがあった。
ー ほっそりした母の 胸の方まで 息苦しくうさいでいた白い僕の肉体 ー。」

私の思いをメモ的に記しておこう。
日本語では、「おれは生まれた」的な表現が一般的だ。しかし生物的には、親が「勝手に」「ある種の希望をもって」「欲望のおもむくまま」に生殖行為を行った結果、おれは生み出された、だから「私は生まれた」のではなく「生まされた」という方が適切だろう。だから英語的表現の方が理にかなっている。そうは言ってもこの言い方(表現)は意のあるところを組んでいない。やはり「生んでもらった」意味・気持ちをもって「生まれた」という言い方の方が適切ではないか、と感じたが。

吉野弘もそういう気持ちで結んでいるのではないか、と思う。妻が、子どもを産むというのは「女として最高の悦びだった」という意味のことを述懐した。

高校2年の孫にこの詩は授業でどう勉強した?と聞いたら、授業では省かれた、といっていた。時数の都合だろうか。
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