ハーバード白熱教室-2(大学の誕生に関連して)

「ハーバード白熱教室講義録」の上巻から読むことにした。やはり初めから読みべきだったという感想であるが、基調は昨日も記した「正義」のテーマである。
今回は、タイトルをさておいてこの大学関連を書くことにした。サンデル教授の講義と対話については別の機会に。

NHKの放送の冒頭「ハーバード大学は1630年代に設立」云々と語られる。世界の頭脳と各界のリーダーを産み出した名門中の名門大学。

周知のようにアメリカ合衆国の建国は1776年、東部13州が独立を宣言した。同大学はこれよりも100年以上も前に実質的な高等教育機関として生まれていたことになる。
こんなことから、日本の歴史と伝統などの流れに思いを寄せることになった。まだ思い立ったきっかけに過ぎないから独りよがりかもしれないが。

ハーバード大学がアメリカ建国よりはるか昔にできており、しかもそれが今日にまで維持されてきた力は、日本の伝統とこれを受け継ぐ力と比べて何がちがうのだろうか、という疑問である。
日本でも奈良時代から「学校」は高等機関を含め営まれてきた、ハーバード大学が生まれた、日本でいえば江戸時代初期(大河ドラマの「江(ごう))姫の晩年に近い)そのころにも幕府の学校の前身が誕生している。
しかし今日にまで続いてきた学校は、江戸末期の慶應義塾ぐらいしかないのではないだろうか。一方、日本には茶道とか華道といった「文化」的な流れは、はるか以前からあったし、だいたい日本という国家そのものが世界に唯一とされるぐらいに「神世」の時代から歴史の教科書通り続いてきた。そもそも天皇制という血統オンリーの伝統が(途中多少の疑問があったにしても)1,500年間も続いてきたということを見たとき、なぜ学問のセンターが生まれなかったのか、あるいはその片鱗ができたにしても立ち消えになってしまったのか、そんな疑問がわく。感性的感情的なものは生き続けたが、理知的知性的教養的なものは残れなかったのはなぜだろうか。

「官」「公」「お上(おかみ)」というインロウが民がつくった物をつぶしてきたのか、またはそもそも民には理知的知性的教養的なものを生み出す関心と力がなかったのか。
この問題意識は、思想的なものへの関心につながる。フランスやアメリカの革命に大きな影響を及ぼした啓蒙思想的なものは、日本にはなかった? あるいは育たなかった?

ギリシャ哲学は、「万物の根源は何だろう」という疑問から始まったという。ある人は、それは水であるとか火であるとか、またある人は原子みたいな物などと考えたという。そういう物事の根本を常に考えていく思考とか姿勢とかは、日本人の気持ちにはなかったのか? そういえば、今の大学が学生の「就職対策」にうつつを抜かしていることも(就職できないという問題はあるにしても)どうも気になる傾向だ。

 

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