kametaro爺さんのよもやま話(ペイント画を含む)

日常の生活の中で、主に気付いたことやしたことをまとめておきたい。また、ブログにアップしたい

やっと よぼよぼ アップが2000回の大台に・・・。 その2

2014-04-12 13:07:56 | 日記
2. ブログのテーマも、「年寄りのよもやま話」です
 その当時、パソコン・ペイント画のお絵かきをしていたので、それを主にアップしようなどと安易な考えでした。しかし、取り上げる内容が決まらず、悩んだ末、爺の日常の経験や学習など何でもアップすることにした。「爺のよもやま話」ときめました。
こんな変なプログが今日まで続いてきました。一徹?、むしろ安易なテーマでしたから長続きしました

3. 柏シルバー大学院の講義内容を主にアップする様になりました
 自作のパソコンのペイント画のシリーズ物にしても長く続かない。所属する東葛インターネット普及会の講座やイベント等のテーマでも断片的で続かない。
そこで、毎月2日、午前午後の2回の講義内容をテ-マの中心においた

時間の講義を、3.4日に数時間以上をかけて、ブログにアップ出来るように編集した。
講師の話は、脱線がおおく、一貫せず、それをインターネットを中心に纏めて行った。
頭も刺激され、爺にとって大変勉強になった。また、楽しい時間でもあった


やっと よぼよぼ アップが2000回の大台に・・・。 その1

2014-04-11 13:36:02 | 日記
           やっと よぼよぼ  2000回になりました


2014年4月11日、2000回目の大台となりました。自分の今の心境は、やっと念願叶ったという満足感にしたっています。拙いアップ内容を寛容な心で読んで下さる皆様のお陰です。
有難うございました。

今後は、年齢(86歳余)や生活の変化等(大事な居場所であった柏シルバー大学院も終了)により「アップも難しいだろう」と、不安感が先行しています

老いと気分を考慮しながら、今までの「継続しなければ」という気持ちを打ち切り、アップするネタがあった時にアップしたいと思います。気楽にないたいと存じます

今日までを振りかって見ると

1. 思えば、立ちあげは「2008年6月24日」の 第1号でした

東葛インターネット普及会のH会員(ポポさん)が6月30日のブログの講座のためにテキストを作成してくれた。大変理解やすいテキストであり、6月23日にリハーサルをしてくれた。
リハーサルが終わっていたら、ブログができていた。それがスタートでした。
新規投稿、絵文字の挿入、写真の挿入と実に楽しい1日でした。

爺も、80歳で心身共の健康で、新しい気持ちで、気楽にスタートした
しかし、何時まで続くか、ブログのアップの内容は何にするか、何人読んでくれるのかと不安の気持ちでした。それは今でも続いています。

天皇の后(きさき)たち  その4

2014-04-07 11:31:46 | 日記
           
第62代村上天皇・后は藤原安子


2-2 また皇太子の生母としての彼女の影響力の大きさが伺える

円融天皇も母親であった安子を死後も慕っていたことが知られる

跡目相続で、生前に安子が書いた「関白は兄弟順に」という書付で、兼通を次の関白としたという故事(『大鏡』がある

同母兄弟の資子内親王や為平親王が一品に叙せられた(ただし、為平叙任は円融退位後)のは、円融が亡き母に代わって同母兄弟を庇護しようとした意欲の現れと言われている。

安子自身は若くして亡くなったが、安子所生の冷泉天皇・円融天皇の即位は九条流摂関家発展の元となり、やがて安子の甥道長を頂点とする全盛期へ至ることになる

藤原安子
第62代村上天皇の妻。 藤原師輔女 中宮
天徳2年10月27日-応和4年4月29日 (958年12月10日-964年6月11日)

この講座で、妃の生政治的役割の歴史を知りました。現在の妃を理解する上で、参考になりました。講師の方、有難うございました。

約6年間、受講した講座の内容を爺なりに纏めてアップしました。
今回で講座内容のアップは終わりです。
長い間、お読み頂き有難うございました
。(1996)




天皇の后(きさき)たち  その3

2014-04-06 10:21:23 | 日記
きさき 【▽后/▽妃】とは

① 天皇の正妻。皇后および中宮。また、皇太后や後宮(こうきゅう)の女御(にょうご)・更衣(こうい)などをいう場合もある。
② 王侯貴族の妻。

1. 藤原安子 

藤原 安子(ふじわら の あんし(やすこ)、延長5年(927年) - 応和4年4月29(964
年6月11日))は、右大臣藤原師輔の長女。母は武蔵守藤原経邦の女盛子。第62代村上
天皇中宮。第63代冷泉天皇・第64代円融天皇、為平親王、承子内親王、輔子内親王、
資子内親王、選子内親王らの生母
。同母兄弟に伊尹・兼通・兼家・忠君、登子(重明王妃)・藤原師輔三女(源高明先妻、俊賢母)・怤子(冷泉天皇女御)など。

2.  藤原安子の生涯
2-1 村上天皇即位前に入内した最初の妃であり、また皇太子憲平親王を始めとして妃のうちで最も多い3男4女をもうけたことから、天皇に非常に重んじられた。
しかし『大鏡』によれば非常に嫉妬深い性格で、後に天皇の寵愛を受けた宣耀殿女御藤原芳子(安子の従姉妹)の姿を垣間見した時にはあまりの美しさに妬心やみがたく、壁の穴から土器(かわらけ)の欠片を投げつけるという暴挙に出たという。
しかもそれに立腹した天皇が安子の兄弟らに謹慎を命じると、天皇に詰めよってついに撤回させてしまったというから、気性の激しい女性だったようである(1995)

天皇の后(きさき)たち  その2

2014-04-05 11:28:14 | 日記
2. 後宮の女官(男官は不在

  内侍司(ないしのつかさ)。後宮12司のなかの1つである。
  蔵司・書司・薬司・兵司・闈司・殿司・掃司・水司・膳司・酒司・縫司
  である。
  尚侍(なおしのかみ)2名、典侍(ないしのすけ)4名、掌侍(ないしのじょう)4名、
  女孺(にょうじょ)100名で構成。典侍・掌侍が一般的に「」
* 尚侍・・・ 天皇に近くつかい、奏請・宣伝を司り、掃除・点灯などの雑事に当たる下級女官を監督して、宮中の儀礼を司った

後宮・・・平安教養主義の母体としての存在価値であった。
多数の女官同志が激しく競合する環境にして、基礎教養としての和歌・漢文・習字・楽器(琴・笛)などの学芸を修練場として成長していった


3. 後宮の殿舎 
 正殿 紫震殿 正寝 仁寿殿の後方に建てられた。
  北に、承香殿の他に2つ、西に2つ、東に2つを配置した。
  この7殿の東西に」飛香舎など12殿舎があった。(1994)


天皇の后(きさき)たち(最後の講義)  その1

2014-04-04 11:08:28 | 柏シルバー大学院
この講座が、爺のブログでアップする最後になりました。18年通った柏シルバー大学院も3月で修了するからです。爺が静聴した多くの講座をネタにブログにアップしました。読んで下さった皆様に感謝すると共に、講座で講義して下さった先生方に心よりお礼を申し上げます


1 后妃

1-1 奈良時代  後宮職員令 養老律令 718年制定
○ 后 1名 皇親以外の出自規定がない。 天皇の嫡妻
  后は、天皇と並び政治担当する公的・政治的地位
  光明皇后(聖武天皇后)は、悲田院(興福寺に生活困窮者や孤児の救済施設として設置)・施薬院新設するなど積極的政治活動をした。

○ 妃(ヒ)2名。四品以上の皇親から。
○ 夫人  3名。三位以下の臣下より。
○ 嬪(ヒン) 4名。五位以下の臣下より


1-2 平安時代  

○ 后・中宮 醍醐天皇の皇后藤原穏子が、923年に初めて中宮と称した。以後、皇后の別称として一般化した。
○ 女御(ニョウゴ)。嵯峨天皇の815年以降、天皇の遊猟・遊幸の行在所などで、天皇の御眼に止まった場合、天皇の自由意志と便宜的手続きで選考する。御息所と同じ。
  藤原穏子が女御から立后したことにより、女御の地位向上した
○ 更衣(コウイ)は、天皇の衣装を調進する、小規模官庁の(みくしげどの)に奉仕する。家柄・身分の低い女官から選考した。(1993)

新田義貞?・・・ どんな人物か  その4

2014-04-03 10:31:02 | 日記
4. 南朝方の総大将となる

  足利尊氏の謀反により、南朝・北朝の二つの朝廷にわかれ、義貞は、南朝の総大将となった。
 南朝・北朝内の動乱が開始されると。南朝方の侍大将ととして、箱根竹之下合戦、赤松則村攻めなど攻め、兵庫湊川合戦(blue">楠木正成は戦死の後、援護も手遅れ)、京都合戦などしたが、戦い利あらず天皇を擁して比叡山に立てこもった。3月8日両朝の一時的和解で、越前に下向して金ケ崎城、黒丸城などに拠り、越前守護斯波高経らと抗争していたが、藤島城付近の燈明寺畷で不慮の戦死を遂げた。南朝側は一筋に転戦に次ぐ転戦の末の最後であった。
安養寺明王院(新田郡尾島町)に葬られた


5.  同情される義貞

義貞は優れた武将であったが、身勝手な上司の恣意によって「使い捨て」にされ、越前という冬将軍が吹き荒れる過酷な環境で活動しなければならず、実力を発揮できなかった

かつては凡庸とこき下ろされたが、近年ではそういう人物評が高まりを見せている。環境と上司に恵まれず、使い捨てにされるという境涯は、社畜や派遣切りの被害者を中心とする弱者達の共感を呼び、可哀想な武将として同情されるようになった

一方で成果主義者達からは、どれだけ努力しようと無様な結果しか残せなかったんだから負け犬に変わりないではないと辛辣な評価を受けている

戦前の小学校で歴史教育を受けた爺たちは、新田義貞は楠木正成とともに大忠君愛国者と教えられた。そのイメージが長く残っていた。
しかし戦後の自由社会になれば、見方が変わってきている。その点から、考えて楽しい講義でもあった
 (1992)

新田義貞?・・・ どんな人物か  その3

2014-04-02 13:58:34 | 日記
新田義貞公


2. 新田義貞の挙兵

2-1 楠木合戦の戦費調達のため、世良田に入った有徳銭徴収役人を捕えて斬ったため、幕府に反旗を翻した形になった。先手をうって生品明神に挙兵した。挙兵当初は、新田一族が戦力の中心であった。

2-2 義貞にやや遅れて足利千寿王が挙兵し、関東の多くの武士は、足利氏の旗の下に集結した可能性は否定できない。

2-3 黄金の太刀を海に投げ入れ、塩を退かせたという稲村が伝説。自軍を奮い立たせるための演出家。講師は、この時代のこの時期には潮が引き歩いて渡れたという

これらの時点で、義貞は、その後の見通しも待たず、父祖の怨念を晴らすこと、所領の回復などを目指したものであろう

3. 倒幕による恩賞

  義貞・・・従四位に叙せられ、上野・越後・播磨の国司に任じられた。
尊氏・・・従三位に叙せられ、武蔵・常陸・下総の国司、直義は従四位、遠江・相模の国司に。
  義貞は、大きな不満を残したであろう


新田義貞?・・・ どんな人物か  その2

2014-04-01 11:36:59 | 日記
1-2 義貞の烏帽子親と推定される足利高義は正和4年(1515年)頃に足利氏の家督を継いで、文保元年(1317年)に死去したとされている。この間が義貞の元服時期を推定する根拠となる。

1-3 義貞の育った新田荘は、気象の変化が激越で、夏は雷が轟き、冬は強烈な空っ風が吹き荒れる風土であった。
また扇状地の扇央部分には灌木、草木が繁茂した広漠な荒地が広がっていて、新田一族が弓術などの武芸を鍛錬する練習場となっており、笠懸野という地名で呼ばれていた。
義貞はそのような風土の中で、笠懸野で武芸の研鑚を積み、利根川で水練に励みながら強靭に育っていったと考えられている

1-4 義貞が「売寄進」という方法で、長楽寺に寄進を行うことで世良田氏に代わって長楽寺及び世良田宿の庇護者となってその経済的権益の掌握を目指したものである。
併せて得宗勢力との関係強化を図ったものであったとみられている


[登場]
1-5 新田氏が足利氏の庇護下にあった可能性が高い
  北畠親房の「神宮正統記」に、「東にも上野国に源義貞と言者あり。高氏の一族也。」、増鏡(当時の歴史書)に、「尊氏の末の一族新田小四郎義貞という物」と記されている由縁。
  義貞は、鎌倉倒幕の功により播磨守に任官すするまで、仮名を小太郎と称した