kametaro爺さんのよもやま話(ペイント画を含む)

日常の生活の中で、主に気付いたことやしたことをまとめておきたい。また、ブログにアップしたい

新聞を見てびっくり・・・姥捨て山 その2

2013-08-21 09:51:38 | 日記
2012年の国民一人あたりの国民所得は
1.日本  4万870ドル
2.中国    5740ドル
3.インド   1530ドル
4.タイ    5210ドル
5.フィリピン 2470ドル
日本の一人あたりの国民所得は大変多い

日本は、国が豊かになってから高齢化になってきた。公的医療体制・介護体制・年金制度・生活扶助等の制度を確立してきた。
しかし、他国は高齢化社会を向かいながら、または追いかけ的に国の努力している現状である
。 

インドでは、年金スキームがあるが、月額わずか約630円、これが標準的支給額である
年金は、高齢者の尊厳を保つための、政府のささやかな支援だ。経済が発展すれば増額の余裕が出るであろう。
子供は親の世話の義務づけ、完全に見捨てた場合、最大で3カ月の懲役刑を科せられる

国を他国から見ることも、必要である。他のアジア国から見れば、日本は大変に社会保障制度で恵まれている。国の借金が1千億兆円を超えたが・・・・(1792)


新聞を見てびっくり・・・姥捨て山 その1

2013-08-20 10:04:41 | 日記
19日、朝刊で眼を引き付けたのが「捨てられる老母」である。小説で読んだ日本の昔の姥捨て山を思い出した。


現実に他国でとは言え、びっくりした

インドで、同居していた息子夫婦に家から追い出された。私の世話に金を使いたくない。
見捨てられた寡婦を支援する避難所を求めていった。そこには、多くの人であふれかえっていた。

インドでは、2028年に14億5千万人となるが、65歳以上は1億人を超えるという。
老いるインドは、そう遠い未来でなない

インドだけでなくアジアの各国も、高齢化の増加と問題が近く押し寄せてくる

日本は、その先導的体験を実施しているが、これの大きな解決には、国家財政が大きく影響してくると思う。

日本の高齢者は、世界的にみれば、まだまだ恵まれていると思う

篠龍田の三匹獅子舞(約350年の伝統文化)・・・地域の小さな文化財

2013-08-19 09:19:04 | 日記
柏市に伝わる小さな伝統文化財である、千葉県指定無形文化財「篠龍田の三匹獅子舞」が16日15時30分より、柏市の西光院境内(柏市篠龍田1214)で行われました。
柏市の広報誌でも、広いスペースをとって解説していました事も、幸いして境内一杯の観客で埋めつくされました。地域の方が多いせいか、付近一杯自転車で埋めつくされました。

1. 徳川5代将軍綱吉の頃に始められ、300年以上続き、現在にいたっている
 終戦の年に1回中止されただけと・・・今日まで続いている。
伝えられてきた篠龍田の獅子舞は、龍神をかたどる「竜頭の獅子」。
西光院の施餓鬼の日(16日)に、祖先の霊を慰め、五穀豊穣・家内安全を祈願して奉納される

2. 金棒つきの猿や狐を先頭に、女・中・大獅子(三匹獅子)、花笠、お囃子の行列が寺に練り込み、舞う。道化の猿や狐が踊る「猿舞」の終わりには塩をまいて清める儀式もある。

3.  獅子頭やキツネ・猿・道化面などの痛みが大きく、昨年から時間をかけて塗り替え等の大規模な修復をした。今回披露するのである。

4. 伝統文化を長年受け継ぐためには、小さいころからの練習が大事です。
 地域の小学校に3年以上で「伝承クラブ」で子供たちが笛の練習に励んでいる
猛暑にも負けず、大勢の来客で歓声と拍手が神社の境内に響きわたった。
伝統文化を支えてくださる地元の皆さん、有難うございました。

▼問い合わせ TEL04~7191~7414 柏市教育委員会文化課

柏市からの発信でした。

Two Voices 【高樹レイ×竹内直】 ライブ大盛況・・・爺・婆も足を運びました。

2013-08-18 10:35:26 | 日記
8月13日、月遅れお盆入りの日でした。JR・航空機・高速道は、帰郷や旅行する人で
ラッシュでした。こんな日に客が集まるだろうかと思いながら、2人の老骨が家を出た。
会場に行くと、客が多く、びっくり、お盆でもあるのに・・・と、ジャズが大好きな方々なのだな。自分たちも仲間に入れて幸せと思いながら、ジャズに傾けた

○ 18時オープン、19:30スタート!  高樹レイ×竹内直(ts,bc,fl) TwoVoices
○ ゲスト:市川秀男p、中村新太郎b、柵木雄斗ds


爺たちも会場の雰囲気に浸りながら楽しい時間を過ぎせました

次の日に知り合いの「高樹 レイ」さんのホームページを見たら・・・。

皆様、本当に有り難うございました!
お陰様で満員御礼で、無事にSTBでのレコ発を終えました!
2F席までいっぱい!
日程的にもとても心配してましたが、大勢の方々が駆けつけてくださって楽しんでくださり、感謝の言葉もありません。幸せです

知り合いのレイさんも満足のようで、おめでとうございました。

もう見学しました?・・・富岡製糸場  その2

2013-08-17 09:18:40 | 日記
 
当時様子を記録した横田 英さん


4.  女工募集で、人が集まらず

当初、女工募集の通達を出しても、なかなか人が集まりませんでした。それは、人々がフランス人の飲むワインを血と思いこみ、「富岡製糸場へ入場すると外国人に生き血をとられる」というデマが流れたためでした。
政府は、これを打ち消し、製糸場建設の意義を記した「告論書」を何度もだしました

そこで、初代製糸場長の尾高惇忠は娘「勇」(14歳)を女工第1号として入場させ範を示しました
当初の予定であった7月よりおくれ10月4日から操業が開始されました。

5. 115年間操業続けた製糸場

 官営工場として創業された工場は、やがて民間の企業へと払下げとなりました。
しかし、操業停止までの115年間にわたり休むことなく製糸工場として活躍続けました。
建造物は操業当初のまま残されている

世界遺産に与えする日本文化の遺産であろう。登録されることを祈念します
また見学されていない方、お暇がありましたら・・・と思いつつアップしました。


もう見学しましたか?・・・富岡製糸場  その1

2013-08-16 09:52:12 | 日記
日本の明治初期、輸出と技術でドルを稼ぎ、日本近代化の草分けに大きく貢献したのは、群馬県富岡市にある官立富岡製糸場である


国指定重要文化財になっており、現在、世界遺産を目指して登録中である

毎日、2500人以上の方が見学に来られているようです
爺の孫娘が、富岡市におり、時々訪問している。

今回は、パンフレットが手に入ったので近くの方で、まだの方がお有りと存じ、パンフレットより要点をアップします。

1. 近代日本の幕開け 
 当時の日本は明治維新を迎えたばかりでした。産業興行政策を掲げた政府が急務としたのは、輸出品の要である生糸の品質改良と大量生産を可能にする器械製糸工場の導入でした。日本の工業化は、製糸から始まったのです。

2. 生産技術の向上
 19世紀後半から20世紀の日本の養蚕・製糸分野における世界との技術の交流と技術革新に功績を残した。日本で開発した生糸の大量生産技術は、かっての一部の特権階級のものであった絹を世界の人々のために広め、その文化や生活を豊かにした。

3. 世界遺産に登録するもの
 富岡製糸場、日本最大級の蚕種貯蔵施設の荒船風穴(下仁田町)、全国・海外に技術を広めた民間養蚕教育機関の高山社跡、近代養蚕農家の田島弥平宅(伊勢崎市)の4施設。

続く

この山に、今回は登れた!!・・・万歳!

2013-08-15 15:34:39 | 日記
連休の初日(13日)に、群馬県の富岡市で孫娘宅で、親戚関係の家族で、バーベーキューをした。わか家の犬を連れていくため、長男家族が前日に宿泊した。

犬は久しぶりの乗車で、犬も大変興奮しているようだ
犬の身体を移動しようとすると、キャーと声を出しながら手を噛もうとする。普段見られないと様子である。

屋敷の中のバーベーキューで、大変狭く、ゆったりと大気に包まれる余裕はなかった。
でも孫・ひ孫の4人を中心に楽しく食べ・飲み・笑いにひと時を過ごした。
爺も歳をわすれて、仲間に入っていた。

次の朝6時ずぎ、犬を連れて散歩に出た。孫宅は、富岡市のはずれで、低い山と川に囲まれた新興住宅地で、畑も多く残っている。6時半になり、誰もいない道路でラジオ体操をした。通行人皆無でした

山裾についた。ここから頂上までジクザクに上り階段になっている。3年前、腎臓入院前に犬の散歩で登山を試みた。20段位でそれ以上は登れなかった。身体が耐えられなかった
この山登りの直後に腎臓の検査をした。結果のCREのデーターは「3.0」であった
直ぐに入院であった。
今回も同じかな・・・と、大変不安をいだきながら登り始めた。10段位で休みをとり、心臓の動きを留意し、もしもの時は、「携帯電話がある」と、次々と登りつめ、遂に頂上に立った。感激で胸が一杯になった
以前には、孫宅を訪問する度、登った山だった。
数十メートル程度の低い山であるが、頂上からは富岡市の全貌が見られ、美しかった。
今回のCREのデータは、1.37に改善されていた
医師の管理下の治療が、この山登りを応援してくれたと、担当医にお礼の報告をした。

この年になっても健康が改善されることがあるんだ、と喜びました (1786)



菅原道真(天満宮)は、どんな人(話は専門的?)・・・その8.

2013-08-14 09:07:01 | 日記
6. 三善清行について・・・続き

6-4 意見封事12箇条
学者三善清行が、延喜14年(914年)醍醐天皇に提出した政治意見書である。三善清
行 意見封事十二箇条とも呼ばれる。[
 清行が、30年間の中級(地方官)としての生活体験からの提案。国司層を擁護し、
文人貴族の不満を代弁して、上級貴族の奢侈(おごり)に対する強い批判的性格

 菅原道真を指しているであろう

7. 菅原道真と三善清行の政治観の違い
  菅原道真は、王権を中心にした中央政治主導の政治体制を重視する。
  三善清行は、地方官人は自身で地方政治の経験を生かして、中央の政治に広範に
参加する政治体制を重視する。

 8. 菅原道真の流罪と死、そして天満宮
 菅原道真は、忠臣として名高く、宇多天皇に重用されて寛平の治を支えた一人であり、醍醐朝では右大臣にまで昇った。しかし、左大臣藤原時平に讒訴(ざんそ・他人をおとしいれようとして、事実を曲げて言いつけること)され、大宰府へ権帥として左遷され現地で没した。死後天変地異が多発したことから、朝廷に祟りをなしたとされ、天満天神として信仰の対象となる。現在は学問の神として親しまれる

初めて現職の大学生になったつもりで講義を聞き、それをまとめてみました。
8回にわたり、長い間お付き合い頂き、有難うございました。

菅原道真(天満宮)は、どんな人(話は専門的?)・・・その7

2013-08-13 09:21:10 | 日記
C. 三善清行について


6. 三善清行について

清行は官吏登用試験に一度落ちたが、そのときの試験官は道真だった。
以後清行は、道真と、ことあるごとに対立し、道真を退けた延喜政権の下で栄達を上げた


900年の10月11日に清行は道真に辞職を勧め、翌年に大宰府へ流罪された

6-1 三善清行の略歴

① 847年誕生 (菅原道真 845年誕生)2歳違い
② 873年 文章生 (菅原道真 862年) 11歳違い
③ 874年 文章得業生 (菅原道真 867年) 7歳違い
④ 881年 方略試(秀才)に不合格。(問者 菅原道真)
⑤ 883年 方略試に合格(菅原道真 870年) 13歳違い
⑥ 887年 従五位。 893年 備中介に就任。
⑦ 900年 右大臣菅原道真に辞職勧告する
⑧ 917年 参議に就任。 918年 死去

6-2 詰眼文を作成 :善清行《詰眼文》は心と眼とが擬人化され,問答する対話体の興味深い戯文。巻末に《鉄槌伝》を載せる。これは性を大胆,滑稽に描写した異色の王朝ポルノグラフィー。

6-3 60歳過ぎて失明に近い状態になり、眼を初めとする肉体の衰弱、律令の衰微を重ねあわせ、経学(儒教的学識)から仏教による救済への翻身を主張。9世紀の「良吏」思想との訣別した

菅原道真(天満宮)は、どんな人(話は専門的?)・・・その6

2013-08-12 09:37:29 | 日記
5.  菅原道真の文人貴族として・・・続き

 5-4 寛平の治 

天皇は東宮より内裏に入って親政をはじめ,菅原道真,藤原保則ら有能官人を用いて地方政治の刷新に努めた。これを〈寛平の治〉という


>○ 調・庸税などの成人男子への人頭方式を変更し、賦課対象を「人から土地へ」の支
配方式に転換する。
○ 王土王民思想の徹底化のために、荘園・農民支配進展の抑制。
○ 地方政治の国司請負体制への転換の推進


 原道真は、稀に見る秀才で、文章博士になり、天皇を助けて政治の中核になって国家の運営に全力を出し切っていたようだ

それが反発をかい、流罪になっていった
 その中心が三善清行である。次回に述べる。