当時様子を記録した横田 英さん
4. 女工募集で、人が集まらず
当初、女工募集の通達を出しても、なかなか人が集まりませんでした。それは、人々がフランス人の飲むワインを血と思いこみ、「富岡製糸場へ入場すると外国人に生き血をとられる」というデマが流れたためでした。
政府は、これを打ち消し、製糸場建設の意義を記した「告論書」を何度もだしました
そこで、初代製糸場長の尾高惇忠は娘「勇」(14歳)を女工第1号として入場させ範を示しました。
当初の予定であった7月よりおくれ10月4日から操業が開始されました。
5. 115年間操業続けた製糸場
官営工場として創業された工場は、やがて民間の企業へと払下げとなりました。
しかし、操業停止までの115年間にわたり休むことなく製糸工場として活躍続けました。
建造物は操業当初のまま残されている。
世界遺産に与えする日本文化の遺産であろう。登録されることを祈念します。
また見学されていない方、お暇がありましたら・・・と思いつつアップしました。
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