軍艦ビルこと第三スカイビル(1970年)。大江戸線の東新宿駅の地下出口を出たところに今もある。もうほとんど入居者はいなくなってしまった。立ったまま死んでいる屍、意志だけがそこに立っている。
早稲田大学での3日間だけの渡邊洋治展。そこで現代によみがえる渡邊洋治というシンポジウムが開かれた。
「渡邊洋治ほど不当に扱われた建築家はいない」と言っていたが本当にそうだ。だから多くの人は名前さえ知らない。彼の扱われ方はいつも異端だが、学ぶところ大。内藤廣氏は「現代の建築に欠けているモノの全てがある」と評していた。
『常識から脱した「やり過ぎ」。これは常識外に立てば、決してそのようなことはない。が、しかし建築は、最終的に他者の手に渡すモノであるから、「責任」をもって「やり過ぎ」ることが必要なのである。』渡邊洋治
早稲田大学での3日間だけの渡邊洋治展。そこで現代によみがえる渡邊洋治というシンポジウムが開かれた。
「渡邊洋治ほど不当に扱われた建築家はいない」と言っていたが本当にそうだ。だから多くの人は名前さえ知らない。彼の扱われ方はいつも異端だが、学ぶところ大。内藤廣氏は「現代の建築に欠けているモノの全てがある」と評していた。
『常識から脱した「やり過ぎ」。これは常識外に立てば、決してそのようなことはない。が、しかし建築は、最終的に他者の手に渡すモノであるから、「責任」をもって「やり過ぎ」ることが必要なのである。』渡邊洋治
そして、自分にとっても、展示にむけて手伝ってくれた人たちのイメージをどう編集するか、いろいろと試行錯誤のできるよい機会でした。
チームでやるの大変だけど、一人ではない種類の感動があって、いいのよね。
さて、ご苦労様でした。今度はかめに遊びに来てください!
戦中その人は疎開していて 戦後戻ってくると、木造の我が家(長屋)は無くなり 一面が焼け野原で、高い建物は伊勢丹までなかった。
闇市の時代、夜になると新宿駅から伊勢丹の通り沿いにズラッと露天が並び、夜はボワッと灯りがともり そのあたりだけがやけに明るく
怪しい雰囲気だったとか。
道路拡張に伴い、家を引きずって移動したり、転居したり、
戦後のどさくさにまみれて、あそこの○○さんが・・・して 新宿駅からこの周辺土地を強引に・・・。
などの生々しい話は 新宿の今の街並みに関係していてとても参考になりました。
花で飾った路面電車がたまに夜走るのでゴールデン街のほうへ見に出かけたり、
あげた凧の糸が切れた時は、新大久保駅のほうまで、取りに行ったりなんて話もいろいろ。
今はホテル郡の中に古びたお屋敷が挟まっていたり。そんな土地に軍艦マンションは建っているんですね。
角筈から西新宿へ、柏木から北新宿へ、名前から受けるイマジネーションがそのまんま風景ですね。