カルトvsオタクのハルマゲドン/虚業BLOG

オタクと政治に関するBLOG

2000年1月19日~1月31日

2011年12月18日 01時10分12秒 | Weblog
1月25日(水)~1月31日(月)

 下絵する。タイトル「タコツボ的」に変更。担当さんにネーム見せた時、「これ描いていてつらかったでしょう」と心配される。「いいえ、色々吐き出したのですっきりした気分ですよ」と応える。

 1月29日、新潟少女監禁事件のニュース聞く。新潟県警のwebページ探し人のコーナーに被害者の写真など個人情報があることを知る。新潟県警に削除するのが望ましい旨メールする。その後数人にその情報を知らせ、政治家数人、報道関係者二人にその旨メールする。被害者の人権を警察はどう考えているんだ、という話に、政治家の方面から至ると面白いと思い、そのようにする。いずれこの事件は児童ポルノ法に影響与えるのは間違いない。被害者の人権、というロジックを規制側は間違いなく持ち出すだろう。そのロジックへ対抗するためのアリバイを考えてのこと。
 それはそれとして、個人で楽しむために、県警のwebページを保存する。
 県警にメールを送って24時間経っても、まだwebページが残っている。県警はメールに気づいていないのだろうか? と、考える。国会が空転し異常な国会になっているので、政治家はメールとwebページ確認の上県警に電話、という行動を、誰もとっていないのだろうか。こうしている間に、被害者の個人情報は継続的に侵害されていることになる。自分が県警に電話で一報すれば、そのぶん削除は間違いなく早まるだろう。被害者の人権を重視するのならそれが望ましいはずだ、と、考える。電話するべきか、と、悩む。すごく悩む。一度決めた方針を、途中で変更するのは元も子もなくす、と、考える。電話することを辞める。ひどく胃がザラザラする。
 1月30日昼、県警からメールの返信。webページが削除されたことを確認。
 報道では「人権に配慮し」云々、というフレーズが聞かれた。宮崎勉事件の際は被害者の顔と名前がバスバス公開されていたので、それに比べると警察も人権に配慮するようになったんだなあ、と、思う。
 後日、「人権配慮」していたのは精神病らしい加害者に対してであって被害者に対してではないと知る。がっくり。マスコミに容疑者の情報をリークする公判が困難になるからだ、という話を友人から伺う。なるほど、と、納得する。

 1月30日、レンタルしている掲示板のカウンタが壊れていることに気づき、レンタル元にメールする。

 1月25日(火)

 徹夜して、朝、ネームできる。『蛸壺や はかなき夢を』。2時間眠る。宮台真司氏の講義聞きに行く。来週はテストなそうな。受けてみたいが、〆切最中になるので今期出席はこれが最後。

 教養科目 社会学 講師宮台真司(以下のメモには鎌やんによる勘違いがたくさんあると思うので、気づいた方はご指摘ください)

 テストは自問自答形式。宮台氏が語った内容をなぞる必要はない。「問い」の設定が重要。記述の論理性が大事。

 今までのまとめ。
 宗教と性の問題が、授業の主要部分。天皇制と、動機付けの混乱。

 宗教とは何か。競合するいくつかの定義がある。「聖」「俗」定義は、いくつか有効性がある。日常(俗)で発生する「期待外れ」を、非日常(聖)に隔離することで、日常の温存を図る。

 90年代の日本は、ストリートコンプレックスの時代だったと宮台氏は把握している。「ストリート」「第4空間」は過渡的表象である。「天使の扉」は、学校化された人々が、学校的状況を乗り越えようとすること。脆弱さから、タフさへ移行しようとすることを示す。ドラゴンアッシュなどは「悪そうな奴は皆友達」という感性を持つ。この「タフネス」は、横浜銀蝿的な、幻想のタフネスだ。「ストリート」には実体がない。ストリートのヤマンバギャルの感性は、オバサンの感性と同じだ。

 「意味」的なものから、「強度」へ。「強度」とは、どう濃密さを維持するか、ということだ。いかにして、というところは、宮台氏自身不透明だ。単純にアメリカと比較すると、絶望的になる。(アメリカに存在する階級差文化差にあたるものは日本にはない、と、宮台氏は捉えているから)
 家族の問題に拘泥することを宮台氏は否定しそこから出ることを宮台氏は主張したが、あるミーティングで、「『それ以外』に出るとして、そこにどんな強度があるのか」という質問をされ、それに宮台氏は答えることができなかった。

 動機付け問題

1;日本に限定される要因
 一般に、従来は、「村」からの承認、共同体からの承認、を、動機付けとしていた。所属動機。
 社会が流動化し、所属が見失われていく。
 代替的承認、代替的動機付けはどういうものか、は、いまだ不明。尊厳を「所属」から「試行錯誤」へ、と、宮台氏は捉えたが、なぜ試行錯誤して尊厳を得る必要があるのか、については、宮台氏は答えを持たない。

2;近代社会一般の要因
 長いこと、社会は「親族原理」できた。「ハレ」と「ケ」を、社会は持つ。原初社会の動機付けは、内と外の差異にある。
 どの共同体にも、神話がある。「どうして私たちの社会はこういうかたちでであるのか」…一回的立法、という説明が神話では、なされる。スサノオのようなマレビトが、一回的立法を行った、という説明だ。
 祭は、共同体の外である非日常を呼びこむ作法だ。それによって、共同体の枠を確認するのが、祭だ。
 ヘブライズムは、空間的なものから、時間的なものへ、転換した。無限変転に輝きがあるとする。
 1970年代、instrumental手段的(未来に非日常的輝きを設定)から、コンサマトリ(スペル判りません)(今を楽しむ)へ変わった。だが、「今を楽しむ」ツールが足りない。わざわざツールを作らなくてはならない。なぜそこまでして今を楽しまなくてはならないのか。そのことを思うと、絶望的になる。

 『ファイトクラブ』という映画があった。階級批判としても読み解ける映画だ。だが、ポストモダン的にも読み解ける。生活になんの濃密さもない、だから殴り合おう、それによって非日常を呼びこむ。中流日常文化批判になっている。アナザーワールドをどう呼びこむか。

 結城座という。360年の伝統を持つ人形劇団がある。
 『アンチェイン・マイ・ハート』という劇が公開された。
 結城座は、五年に一度アングラ芝居をする。人形に宿る「闇の力」を再生するためだ。伝統芝居だけを続けると「闇の力」を失う。
 『アンチェイン・マイ・ハート』は、なぜ私たちは、日々砂を噛むような日常を過ごさなくてはならないのか、それは「闇の力」を失ったからだ、という、右翼マインドの演劇だ。
 宮台氏は、足立正生の『銀河系』を連想した。足立正生はベイルートの刑務所にいる、赤軍テロリストだ。日大アングラ映画の旗手だった。1972年PLOに参入した。来月(2000年2月)刑期満了で出所する。
 『アンチェイン・マイ・ハート』は、あくたまさひこ(字、判りません)(橋爪大三郎の劇団出身、三島由紀夫との東大討論で重要な役割をする)、かのうりょうすけ(字、判りません)が制作した。

 「闇の力」は、非日常の力「縦の力」だ。日常の力「横の力」に対する。
 化粧は、本来、神を降ろすものだった。現在は、「横の力」、コミュニケーションツールとなっている。「聖」は、「縦の力」だ。
 根源的質問、端的な問題は、「横の力」(社会内の関係)では、説明できない。「縦の力」(非日常の力)を必要とする。
 いかにして「縦の力」を呼びこむか。
 「縦の力」は「弱い場所」に宿る。たとえば人形は「弱い場所」だ。人なのか物なのか曖昧なものだ。エドマンド・リーチ は、フリークスと呼び、バタイユは「呪われた部分」と呼んでいる。
 「弱い部分」は「境界的存在」だ。狂人などがそうだ。共同体に半分属し、半分属していない、そういう存在だ。共同体の外にある「見えない半影」を見えるようにするのが、「祭」だ。
 「縦の力」が呼び込まれるとき、「横の力」は働けなくなるので、横の力を、一時停止する。これが「祭」だ。ハレとケの交替。

 『アンチェイン・マイ・ハート』は「縦の力」を呼びこむのに成功している。宮台氏は41歳だが、小学生の頃、週に一回、紙芝居を見ていた。年に四回、祭があり、見世物小屋がそこでは立った。小学生の頃京都にいた。そこには非日常的場所があった。安生寺池という、オカルトな場所があった。そういうかたちで、「縦の力」的な物を実感する。
 アングラ映画は、「祭」の、「縦の力」が降りるのを、再現している。

 『銀河系』は、4人のキャラが登場する。「私」、「私」にとりつくビッコの「影」、「白いドレスの女」、「黒い山伏」。
 「私」と「影」は日常を、「白いドレスの女」と「黒い山伏」は非日常を示す。「白いドレスの女」は、アメリカであり、近代の輝きであり、未来である。「黒い山伏」は、大和であり、「縦の力」である。
 ストーリーはこうだ。「私」が「白いドレスの女」と寝ようとすると、「影」が現れ、邪魔する。「私」が「影」を殺すと、「黒い山伏」が現れる。
 これは戦後の近代化を意味している。「影」は、「私」の実存にある、近代に回収できないものを示している。
 アングラ劇は、近代(未来)と、反近代(「闇の力」「縦の力」)という図式を持つ。

 いかにして近代化したか。 原天皇制と、近代天皇制。

 原天皇制は、ヒメヒコ制、生神様だった。部族ごとに利用する「縦の力」だった。それぞれの部族ごとに持つ「聖」「俗」、全ての原初社会は、これを持っていた。
 人形に宿る「闇の力」、芸能の力、これは天皇が体現していた物に等しい。芸能人は、もともとだった。在日の方も多い。芸能の力を持つ者は、「内」と「外」の境界線上に現れる。
 天皇は、もともと依代だ。天皇自体に力はない。「外」にある力を降ろす、憑依する神体だ。原天皇制は、「縦の力」の源泉だった。

 近代天皇制は、「忘却と融和の装置」だ。日本は血縁社会ではない。日本は同じ時間空間を過ごすことで「家族」となる。(中国は血縁社会だ。血縁があれば今まで見たこともない人同士であっても、次の瞬間には抱擁しあう)
 「習合」は日本独特だ。部族間の征服が起きる時、日本は独特な現れをする。日本以外ではふつう、敗北した神は、廃止される。ごく限定的に、勝利した部族が、敗北した部族をそっくり包含する時、敗北した神が勝利した神に仕える、という形式をとる。日本には、この「仕える」原則しかない。 神仏習合、本地垂迹説(仏教の仏を本地(ほんじ)すなわち本源とし、神道の神をその垂迹(すいじゃく)すなわち衆生を救済するために仏や菩薩がとった具体的姿とする"神仏習合"Microsoft(R) Encarta(R) 98 Encyclopedia. (c) 1993-1997 Microsoft Corporation. All rights reserved)。
 天皇制は原理主義ではない。近代天皇制は、日本の中の差異を忘却させ、近代国家として融和する。
 戦後、アメリカは、文化人類学者の研究の結果、天皇制を残すことにした。アメリカ化に利用できる、と、考えたのだ。天皇の非日常部分(闇の力)を抹消し、天皇の日常化を果たした(人間天皇)一方、「忘却と融和の装置」としては、徹底して利用した。

 動機付けの問題

 近代天皇制を否定して、「縦の力」を呼び込む、というのが、宮台氏の考えだ。
 芸能の力は「縦の力」だ。日本のロックの流れは、「恥かしき者に恥かしきままに力を与える」(保田与重郎)。ロックを聴く人々は、コミュニケーション不全の人々だ。HIDE、尾崎豊は、聖地を持つミュージシャンだ。これは世界に類がない。尾崎豊は学校への愛惜と憎悪を歌った。

 機能的に分化した社会が、近代社会だ。日本はいかにして近代社会となるか。天皇制は、常に利用されている。アメリカによって、松下村塾によって、古くは聖徳太子によって。
 原初的メカニズムとしての「縦の力」を考える。アメリカ的差異の落差は、日本にはない。

 社会学は、近代社会への自意識を与える学問だ。
 日本では「右」「左」という対立は、全く意味がない。ともに共同的尊厳観だ。忘却と融和に支配される。
 むしろ、「日常体質」か、「非日常体質」か、のほうが、重要だ。

 バークは「連続性」を説いた。喜怒哀楽など人倫的関係の基盤を「連続性」であるとした。それを「伝統主義」と呼ぶ。
 マンハイムは『歴史主義・保守主義』(『歴史主義・保守主義』 / マンハイム [著] ; 森博訳. -- BN00872987 東京 : 恒星社厚生閣, 1969.2)で、バークの言う「連続性」人倫的関係はないから、作らなくてはならない、というのが、マルクス主義だ、と、述べた。

 人倫的関係の与える喜びは、人は誰でも求める。だが、それのみで生きていけるのか。答えはノーだ。非日常性を人は必要とする。シャーマンが必要だ。
 近代社会が非日常の力で動くことはない。(ウェーバーのカリスマ論)
 人倫的喜び、という実存以外の、非日常論が深められる必要がある。

(以下、自習)

リーチ Edmund Ronald Leach 1910~89 正統派の考え方をつねに批判して独創的な見解をのべつづけたイギリスの社会人類学者。ケンブリッジ大学で数学と工学をまなんだのち、中国へわたるが、台湾の少数民族との出会いから人類学へ転身。帰国後、ロンドン大学でマリノフスキーに師事した。1966~79年には、ケンブリッジ大学のキングズ・カレッジ学長をつとめた。
リーチの貢献のひとつは、社会を静的な均衡を保ったものとして見るのでなく、その動態をみずからの民族誌「高地ビルマの政治体系」(1954)によって明らかにしたことである。そして、当時の人類学の主流だったラドクリフ・ブラウンの構造・機能主義を批判し、人類学の活性化をはかった。もうひとつの貢献は、言語的なカテゴリーの研究、観念体系の分析である。その成果は「文化とコミュニケーション」(1976)にまとめられ、構造主義人類学への接近をしめした。主要著作にはほかに、「プル・エリヤセセイロンの村落」(1961)、「人類学再考」(1961)、「社会人類学」(1982)、「聖書の構造分析」(1984)などがある。"リーチ,E.R." Microsoft(R) Encarta(R) 98 Encyclopedia. (c) 1993-1997 Microsoft Corporation. All rights reserved.(『人類学再考』 / エドマンド・リーチ [著] ; 青木保, 井上兼行訳. 思索社)

バタイユ Georges Bataille 1897~1962 フランスの作家、詩人、思想家。文化論、芸術論、エロティシズム論、ヘーゲル論、消費論など、多岐にわたる分野で独自の思想を構築した。1970年に「バタイユ全集」の刊行がはじまるとともに一気に評価が高まり、フーコーによって「20世紀におけるもっとも重要な著作家のひとり」と評された。
司書が終生の職業
バタイユは、フランス中部の山岳地帯オーベルニュ地方のビヨン市に生まれた。思春期は敬虔(けいけん)なカトリック信者で聖職者をめざすほどだったが、まもなく無神論者に転向。パリの古文書学校を卒業後、1922年、国立図書館に司書として勤務。オルレアン図書館長をつとめた晩年まで、多彩な表現活動と並行して一生涯を図書館員としてすごした。
1920年代半ば、シュルレアリスム運動に接近するが、ブルトンとはげしく衝突、29年から文化総合誌「ドキュマン」を発行し、同誌はシュルレアリスム離反派の拠点となった。37年、ミシェル・レリス、ロジェ・カイヨワらと「社会学研究会」を組織するが、第2次世界大戦の勃発(ぼっぱつ)とともに解散を余儀なくされる。戦後の46年には月刊の書評誌「クリティック」を創刊、死ぬまで同誌の編集長をつとめた。
「聖なるもの」の探究
バタイユは、国家公務員としてはたらく一方で、「眼球譚」(1928)、「マダム・エドワルダ」(1941)、「C神父」(1950)などのポルノグラフィー小説を匿名で発表した。そのほか、経済学原論「呪われた部分」(1949)、性の問題を考察した大著「エロティシズム」(1957)、聖なるものをめぐる社会史的考察「至高性」(遺作)など、多数の理論書を執筆している。こうした著書で一貫して追求されているのは、「聖なるもの」の体験と省察である。バタイユは、「聖なるもの」こそが人間の活動分野でもっとも重要な意味をもっていると考えた。
1980年代にはいって、生産中心の世界像に対して、蕩尽(とうじん)、消費を軸とした非生産の世界像を対置したバタイユの「普遍経済学」の試みが脚光をあびるようになった。現在、もっとも注目すべき思想家のひとりにはちがいないが、まだその思想の全体像が汲みつくされたわけではない。"バタイユ,G." Microsoft(R) Encarta(R) 98 Encyclopedia. (c) 1993-1997 Microsoft Corporation. All rights reserved.

日本浪曼派 にほんろうまんは 1935年(昭和10)3月から38年8月まで発行された文芸雑誌。通巻で29冊。発行は第3巻第4号までは武蔵野書院がうけおい、以後は西東書林にうつった。
発起人と同人
日本プロレタリア作家同盟いわゆるナルプの解散によってプロレタリア文学運動が壊滅したのち、ロマンティシズムの思潮があらためて注目されるなかで、詩精神の高揚や古典復興をうたって誕生した。創刊に先だち、保田与重郎によって文芸雑誌「コギト」に発表された「『日本浪曼派』広告」によれば、神保(じんぼ)光太郎、亀井勝一郎、中島栄次郎、中谷孝雄、緒方隆士(りゅうし)、保田の6名が発起人となっている。同人には太宰治、壇一雄、萩原朔太郎、佐藤春夫、林房雄、三好達治らがおり、最終的には52名になっていた。
変質
身辺雑記を写実的にえがく自然主義的な小説を「平俗低徊(ていかい)の文学」としてきびしく批判し、高踏的かつ反進歩主義的な立場をうたった。そのため、文芸誌「人民文庫」(1936~38)を拠点に、散文精神による批判的リアリズムを提唱して進歩主義文学の中心であった高見順、武田麟太郎らからははげしい批判をうけた。実際には、日本浪曼派の日本古代への憧憬(しょうけい)は、明治以来の無秩序な西欧文化の摂取による、近代日本の行き詰まりへの激しい抵抗の一手段であったが、ファシズムの拡大や方向性のことなった俗流の日本主義の台頭によって、当初の緊張感がうしなわれ、戦争の一翼をになう集団に変質せざるをえなくなった。"日本浪曼派" Microsoft(R) Encarta(R) 98 Encyclopedia. (c) 1993-1997 Microsoft Corporation. All rights reserved.

保守主義 ほしゅしゅぎ保守主義には、3つの意味がある。まず第1に、保守主義とは急速な変化をきらう個人の心理ないし態度である。これは自然的保守主義あるいは伝統主義ともよばれる。第2に、保守主義は政治思想であり、18世紀西欧の啓蒙思想、フランス革命に対する反動として生じた。政治思想としての西欧保守主義は、理性よりも信仰を、新しいことの探求よりも伝統を、平等よりも階層秩序を、個人主義よりも全体の価値を、世俗法よりも神あるいは自然の法を擁護する。より一般的にいうと、保守主義は現状を維持することのメリットを強調し、現に存在する権力、富、身分の配分状態を尊重されるべきものと考えるのである。最後に、せまい意味では、保守主義政党(とくにイギリス保守党)の具体的政策、活動を意味すると限定される場合がある。
起源
政治思想としての保守主義の古典的定義は、イギリスの政治家エドモンド・バークの著書「フランス革命の省察」(1790)にみいだされる。バークはフランス革命をはげしく批判し、個々人がその分をわきまえた役割をもつ有機的・伝統的な社会編成を擁護した。バークによれば、有機体としての社会においては、生まれや富や教育によって自然にエリートたるべき者(貴族)が存在し、その統治によって安定が維持されていたのに、革命という酒によった暴徒は、絶対的支配によって習慣、伝統、有機的社会のすべてを破壊し、人々を平等という名の地獄にみちびいているのである。
バークは平等原理や人民主権、普通選挙権、多数決原理を拒否し、秩序、均衡、協調、節度ある支配、そしてとりわけ神法である自然法と習慣を尊重した。といっても、彼はあらゆる変化を頑強にこばんだり、政府の支配をただ嫌悪したわけではない。バークは社会的な紛争や経済的な競争が放置されて、急激に破壊的な対立に転化することをおそれたのであり、慎重な、漸進的な改良は、むしろのぞむところであった。いいかえれば、彼は政府に対して、人々の革命への要求を先取りするような、その結果、人々が革命など必要としなくなるような賢明な政治を期待したのである。
こうしたバークの政治思想は、実際の政治党派的意味をもっていなかったが(バーク自身はホイッグ党員であった)、1830年代になってトーリー党が保守党と称されるようになってから、保守主義は、まずもってこの党の政治理論、政策一般を意味するようになった。
イギリスの保守党
19世紀イギリス保守党の基本的立場は、1688年の名誉革命体制、すなわち貴族、ジェントリーという大地主階級の支配と王権に対する議会の優位を擁護し、維持しようとするもので、中流ブルジョワ階級に支持されたホイッグ党、すなわち自由党のリベラリズムと対立するものであった。やがて、社会的平等をもとめる潮流が強まってくると、社会立法と選挙権の漸進的拡大による上層と下層の協調が保守党の政策となった。そして20世紀になると、保守党は、健康、教育、経済的安定などに対する国家の社会的責任をみとめるようになり、第2次世界大戦ののちには、労働党主導でおこなわれた産業の国有化や福祉国家政策もうけいれるにいたった。しかし、1979年にサッチャー保守党政権が誕生してから、保守党は国家統制や福祉基準、国有化について見直しをはかった。
ヨーロッパの保守主義
イギリスの保守主義が議会政治の擁護と改良主義を特徴としたとすれば、ヨーロッパ大陸の保守主義の特徴は、議会制民主主義とむすびつかず、王権や貴族の専制的支配と手をむすんだという点にあった。保守主義と反動との区別が明確ではなかったのである。その結果20世紀になると、いくつかの国では、保守主義は権威主義的な政府、とりわけイタリア・ファシズムやナチズムに支持をあたえることになった。とくにドイツにおいては、保守主義は「保守革命」を名のって、民主主義や社会主義に対抗する反革命運動にもなった。
アメリカの保守主義
19世紀を通じて、アメリカの政治思想は、経済的個人主義を基本とし、中央政府の権限を強力に制限する立憲民主主義であった。すなわちアメリカ政治思想の本流は、自由と機会均等にもとづく自由主義なのであって、そうしたアメリカの伝統を擁護することが保守主義となるのである。イギリスやヨーロッパからみると奇妙なことだが、アメリカでは、個人の自由、市場での競争、富の獲得、ひとことでいえば進歩を擁護することが保守主義となったのである。ここでは富を獲得することはえらばれた者の証拠となる。やや誇張していえば、アメリカには弱肉強食の社会ダーウィニズムがあり、その結果、優等者は劣等者を指導しうるのだという考えが生まれやすい。
1930年代の大恐慌に対するフランクリン・ルーズベルト大統領のニューディール政策は、アメリカの伝統を革新するものであった。ニューディール政策は自由な市場経済に対する国家統制を強め、連邦政府の規模と権限を増大させた。これに対してアメリカの保守主義者たちは、自由な市場への回帰、政府機能の縮小をさけんだ。オーストリアの経済学者ハイエクは、44年に「隷従への道」を書いて、国家の経済統制を批判した。80年代になると、共和党のレーガン大統領のもとで新保守主義がとなえられ、宗教や国家の価値の再評価とともに、税負担の軽減、政府統制および政府予算の削減、市場の活性化がめざされた。
新保守主義
1980年代、サッチャーやレーガン、そして日本の中曽根康弘内閣は、福祉国家政策による財政の硬直化、重い税負担、市場の停滞に対して、市場経済の活性化、福祉政策の見直し、税制改革をスローガンに新保守主義を提唱した。日本においては「民活」(民間活力)の掛け声のもとに、国鉄、電電公社の民営化を筆頭に、いくつかの領域で政府統制の撤廃がめざされた。新保守主義は、社会の活力を統制のない市場経済によって実現し、国家の役割を国防と治安維持におこうというものであり、冷戦体制下では反共イデオロギーも強調された。"保守主義" Microsoft(R) Encarta(R) 98 Encyclopedia. (c) 1993-1997 Microsoft Corporation. All rights reserved.

マンハイム Karl Mannheim 1893~1947 ハンガリー出身の社会学者。ブダペストに生まれる。ブダペスト大学を卒業後、1919年のハンガリー革命ではルカーチらとともに革新的文化人のひとりとして活躍するが、革命の挫折後はドイツへ亡命した。
ドイツではハイデルベルク大学、フランクフルト大学にむかえられ、「イデオロギーとユートピア」(1929)で知識社会学の確立者のひとりとなる。「存在が意識を決定する」というマルクス主義の土台上部構造論をうけとめながらも、その決定論を修正し、存在被拘束性を提唱した。これにより、初期フランクフルト学派をふくむ左右両翼から批判をうけたが、同時に時代を代表する思想家となった。
しかしその後、ナチスの台頭を前に、1932年にはイギリスへ亡命した。イギリスではロンドン大学で教鞭をとり、自己の社会学の理論的整理をすすめた。さらに、より現実的な問題に対しても積極的に行動し、社会計画を推進するという「自由のための計画」をめざす時代診断という立場から活躍した。
第2次世界大戦後はユネスコの委員として活躍したが、帰国することなく病没した。主要著作には「変革期における人間と社会」(1935)、「現代の診断」(1943)、「自由・権力・民主的計画」(1951年、没後編集刊行)などがある。"マンハイム,K." Microsoft(R) Encarta(R) 98 Encyclopedia. (c) 1993-1997 Microsoft Corporation. All rights reserved.

ウェーバー Max Weber 1864~1920 20世紀を代表する社会科学者。社会学・政治学・経済学・経営学・歴史学・宗教学など、それぞれの専門諸科学領域ですぐれた業績を達成して、19世紀の社会科学を代表したマルクスに対比される。またその展開したその成功をもとに、合衆国全域と理論内容においてもマルクス理論に対比される。
生涯と思想の形成
ウェーバーの生涯は、ほぼ近代ドイツ帝国の生成・発展から崩壊までの時代にあたる。その理論の展開は一方で祖国ドイツをめぐる現実とむすびつき、他方でそれをこえて近代西欧社会の特質に目をむけることにより、ひろい世界史的視野をもつことになった。
ドイツのエルフルトに生まれ、ハイデルベルク大学やベルリン大学で歴史・法律・経済などをまなんだ。1892年ベルリン大学で商法の講師となり、ついでフライブルク大学、ハイデルベルク大学の国民経済学教授をつとめた。
父は産業資本を代表する中道派の国民自由党の国会議員、母は誠実なプロテスタントであった。外的な社会活動にむかう政治家の父親と、宗教という人間の内的世界に生きようとする母親とでは、家庭の和はなかなか困難であった。この両親がもった政治と宗教の2要素は、彼の思想や理論に刻印されている。学問的素質は早くから認められていたが、わかいころの学問的関心は、もっぱらヨーロッパ列強の中での祖国ドイツの運命にむけられていた。19世紀の農業革命がひきおこした東部ドイツの社会的変動がドイツ国家や文化におよぼす影響が、ウェーバーの前半期の主要研究テーマであった。この問題意識が一変するのは中年期以降である。
内的生活への眼差し
30代半ばで強度の神経障害にかかり数年間、学問活動とは無縁となる。両親の不和、長男として和解の役割をはたすというより母親側にたって父親と対立、さらに結婚をめぐる問題などが精神的圧迫となり、神経障害をひきおこした。数年間におよぶ、社会から隔絶した妻とだけの閉じられた生活環境から、ふたたび学問の世界にたちもどったとき、彼の関心は一変し、2つの主要な学問領域、宗教社会学と社会科学方法論が形成・展開された。
それは問題意識の深まりと広がりであり、いわば父親的要素から脱皮し母親的要素の目覚めであり、人間の内的世界への深い眼差しであった。それはまた人間の普遍的問題世界に視野をひろげさせ、国境をこえた世界的な学者になる道を準備した。宗教社会学の研究も方法論の研究も、根本的には一つの問題意識から発したものであり、自己省察である。一方は自己のたつ社会的基盤、つまり西欧近代社会の特性の認織であり、他方は、社会科学者として、自分の科学的認識の特質の把握である。
魔術からの解放
後進国ドイツをもつつみこんだ西欧近代社会、資本主義的近代社会は、その個人主義的自由主義、合理主義、巨大な生産力により、特殊ヨーロッパをこえて世界史的影響力を地球規模にひろげた。資本主義的近代社会のただなかに生きる以上、その特性の認識、歴史的形成の跡付け、今後の予測と展望はウェーバーにとり、必然的課題であった。また方法論的研究は、自己をそだてたドイツの学問的伝統(歴史学派)の後進性の批判と、それからの近代的脱皮であった。西欧近代の特性認識はドイツ社会の後進性の自覚であり、それはまたドイツ的学問意識の後進性批判と連結するウェーバー自身の近代的脱皮であった。ウェーバーはその点を「魔術からの解放」(Entzauberung)として、神経症以後の理論展開の核概念に結晶させた。
初期資本主義の倫理
西欧近代の資本主義の特性は合理主義にある。とくに形成過程における経済的合理性とともに、私的生活においても合理性(禁欲生活)が重視されたことは、それが倫理的生活原則(エトス)として確立されていたことによる。その倫理的生活原則は宗教理念に由来するものであった。古典的名著「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」は、その明快な分析である。禁欲的生活にささえられた近代資本主義の担い手たちの合理的組織・合理的経営・市民的自立的経済活動は、西欧近代以外の地域や近代以前の権力と癒着した政商的な、またはモラルを無視した冒険商人的な経済活動とははっきり区別されるものであった。ウェーバーはこうした西欧近代の特質を浮き彫りにするために、古代ユダヤ教の世界にまで歴史をさかのぼる一方、アラブからインド、中国そして日本までそれぞれの社会的特性の考察をひろげた。
宗教社会学
それぞれの社会的特性には宗教が強く作用していることに着目して、古代ユダヤ教やイスラム教、ヒンドゥー教、仏教、儒教などと、それぞれの社会の特性との関係を分析した。このような考察によって、キリスト教ヨーロッパにおいて、しだいに魔術からの解放が進展して、最終的にイギリスのピューリタニズム(→ ピューリタン)において宗教は倫理化され、それが個人の内面的確立と合理主義経済社会を定着させたと結論づけた。ウェーバーがピューリタニズムにおいて重視したことは、その責任倫理であった。責任とは自己の行動・活動の明晰な意識化であった。神経症以後、展開されたこの宗教社会学研究の核心は、同時期にはじめられた社会科学方法論研究の核でもあった。それは、自分がいとなむ科学研究行為自体の明晰な意識化である。それは学問研究者としての責任であった。
価値自由の態度
ウェーバーをそだてたドイツの社会科学では、人間社会を対象とする社会科学は自由や人格の存在するかぎり、自然科学とは方法がちがわなければならないとされていた。彼はそれを批判し、科学研究の方法は対象によらず、研究者の認識目標によってことなるのみとし、科学の研究方法は自然・社会両科学とも同一であると主張した。さらに現象の個性面の研究は、その現象に対する研究者の価値判断に出発するものであることを明らかにするとともに、研究の過程においては、その価値判断自体は抑制されねばならないと論じた。この方法論は価値自由とよばれ、すべての人間行動への価値判断抑制を前提とする理解を中心にすえた理解社会学として結実した。
官僚論と経営学
近代資本主義形成過程の研究は、資本主義発展の未来像の考察におよんで、現代経営学や組織論の基盤である官僚制理論を生みだした。マルクスが資本主義の生産現場を分析対象としたのに対し、ウェーバーは経営組織を問題にした。経営の大規模化は必然的に専門的職能の合理化をすすめ、合理的組織を確立させる。公的行政組織であれ、民間私企業であれ、また資本主義であれ、社会主義であれ、組織の大規模化は人間を専門的職能の網の中にくみこむ。「精神なき専門人」の出現である。
ウェーバーはこうして古代社会から中世をへて、現代から明日の人間社会の生成と行方を考察した。彼のその人間社会の認識は、マルクスの歴史認識の意義をみとめる一方、その唯物史観の一面性を批判して、人間は物的動機にうごかされながらも、理念によりみちびかれるということであった。それはまた彼自身の思想についていえば、大規模組織(官僚制)の中にいようと、人間は羊ではないという自由の主張であった。
主著としてほかに「職業としての政治」(1919)、「職業としての学問」(1919)、「経済と社会」(1921~22)などがある。"ウェーバー,M." Microsoft(R) Encarta(R) 98 Encyclopedia. (c) 1993-1997 Microsoft Corporation. All rights reserved.

 宮台氏の発言、『終わりなき日常を生きろ』から見ると、ちょうど対極のところに来たかなあ、と、感じる。正直になったのだと思う。そのことはいいことだと思う。しかしながら、「縦の力」は、ナチス的なものに結び付きやすいので、そのあたり危うさがあるな、と、思う。交替可能な独裁性が民主政治だから、政治機構的には権力集中を日本は経なくてはならないと私は思うので、その意味、構わないか、とも思う。しかしながら機構の部分とムードの部分はきっちり分けないといけないよな、とも思う。

 RB67さんから連絡。実家のことについてその他相談に乗ってもらう。マンガのネタの打ち合わせもする。帰宅後、編集部から留守電。ネーム一部変更。
 実家から電話。パパ、僕に用があるのならパパが直接電話してよパパ。
 足立真一さんから電話。ちゃんと定期的に食事とってください、足立真一さん。

 1月24日(月)

 ネームする。

 1月23日(日)

 昼、起床。えだのさんのオープンミーティングの日だ、と、思い出す。若干悩み、行くことにする。電車が人身事故でダイヤ乱れてる。五分程度の遅刻ですむ。五分聞き損ねると大損。以下はメモ。鎌やんによる勘違いがあるかも。

えだの幸男オープンミーティング

 公共事業は、すればするほど、借金が膨らむ。借金を作りながらの景気対策は、もう限界だ。現在、日本は、600兆円の借金を持っている。日本のGDP(国民総生産)は、500兆円だ。日本人が1年間、飲まず食わずして稼ぐ金額が、GDPだ。
 収入が全て利息の支払いにしか回らない経済は、不健康だ。ドンと金を使った瞬間は、経済成長する。100兆円借金して、100兆円投資すれば、100兆円分の経済成長が起きる。投資が一巡した瞬間、ドスンと経済成長は落ちる。これでは意味がない。
 今までは、経済が右肩上がりに成長することが、ベースだった。景気が悪くなる理由としては、1;景気には波がある。供給過剰のとき、景気は悪くなる。 2;円高不況。輸出が苦しくなる。…というのが、今までだった。
 今の景気の悪さは、違う。
 1;海外ではまだ日本製品は売れている。
 2;国内では製品が売れない。
 …これが実情だ。
 金がなくて、ものが売れないなら、インフレ政策しかない。だが、日本の貯蓄額は1年で100兆円増えている。今の不況は、将来への不安が生み出したものだ。将来が不安だから将来に備え貯蓄する。金が貯蓄に回り、回転しないから、不況となる。不況になれば、増税への不安が増す。年金への不安。介護保険への不安…ホームヘルパーの数が足りないので寝たきりになったとき、自分の老後を自分で何とかしなくてはならない、という不安。不況により、リストラが行なわれる。倒産の不安、人員削減の不安。貯蓄に回っているぶんの金が流通すれば、10%から20%ほどの経済成長がある。
 政治は、将来への不安を減らすべきだ。年金、介護、老人ホーム、グループホームなどへ、五兆円も投資すれば、寝たきりのときの不安が解消される。
 かつて、無医村がたくさんあった。過疎の村へ医者を送るため、医学部を多く作った。今では医者は供給過剰になっている。
 病院は、「薬価差」で経営されている。これは医療保険制度の問題だ。薬をバンバン使う医者のほうが儲かる仕組みになっている。医療現場は不透明だ。マジメにやっている医者が評価されにくい。

 雇用の問題。日本は、失業に伴うデメリットが大きすぎる。転職すると、住宅ローンが払えなくなる。自己破産するしかなくなる。これは宜しくない。有効な政策として、国がローンと家を引き継ぐ、というやり方がある。政府が金をばら撒くより、安心して国民が金を使えるようにするほうが先決だ。国の借金を小さくし、将来への不安を小さくするのが、国がとるべき政策だ。梶山静六、加藤紘一は、えだの氏と同意権だ。

 自自公がやったことはどういうことか。管理コントロールで世の中をよくすることができる、というのが、自自公の発想だ。公共事業は、通産省が金を管理する。
 今まで150年間くらいの日本は、一握りの人間による管理、というやり方が、必要だったかもしれない。そのことへの好悪の感情は別として。かつては、一握りの人間しか、外国へ行けなかった。「欧米(とくにアメリカ)に、追いつき追い越せ」、を、日本は前提としていた。いかにアメリカの真似を効率よく全国津々浦々に取り入れるかが、日本の従来のやり方だった。今までは、「管理」でやってきた。そして自自公は「もっと管理を強くすれば良くなる」という考え方だ。

 管理しなくてはオウム「みたいなもの」に対応できない、というのが「管理する」自自公の言い分だ。だが、盗聴法(通信傍受法)、住民台帳法などは、カルトやストーカーに対し、有効だろうか? むしろ、オウム「みたいなもの」が現れる根本原因を探るべきだ。すでに第2第3の麻原は登場している。

 「欧米追いつけ」は終わった。
 1;日本は欧米に追いついてしまった。モノにおいて、達成してしまった。じゃあ、どうする、目標が見つからない。
 2;豊かになったことで、日本の経済システムが終わった。日本の人件費は、かつては欧米よりずっと安かった。今、東南アジア・中国の人件費は、日本よりずっと安い。かつては、発展途上国は、政情不安になると経済が混乱したが、今では政情が不安になっても、経済は安定している。
 日本は、他の国では真似できないものを生み出すことが大事だ。「管理」とは逆のもの、異端のもの、新しいもの、人と違うものを、価値だと認めることが必要だ。

えだのさんと、出席者の、質疑応答

Q;リスク社会だということをよく認識する必要が、これからの日本にはある。地方分権の徹底が必要だ。リスクを回避するためには、対面で話できるかどうかは重要だ。近隣の結束力が大切だ。

えだの;国家がコントロールする部分を減らすことが大事だ。というか、国家によるコントロールはすでにできなくなっている。国家以外での部分というものが、生活には多い。

Q;公安調査庁は存在自体税金の無駄ではないか?

えだの;公安調査庁はもういらない。歴史的役割を終えた。
 国税という概念はもういらない。地方が、自由に税を決めることが出来るようにするべきだ。

Q;介護保険の問題

えだの;医療が介護を引き受けているから、医療費がかかっている。介護保険の短期中期的問題は、サービス提供量が少ないことが重大だ。

Q;年金、401K

えだの;基礎年金は、税で賄われるべきだ。401K確定拠出型年金は、払う額は決まっているが受け取る額は決まっていない、という年金だ。公的年金で、減税措置として、というのが401K導入のロジックだ。401Kは、アメリカの制度だ。えだの氏は401K導入に反対の立場だ。投機的な年金は、民間ですればいいことだからだ。国がやることではない。

Q;産業

えだの;既存産業は、今後、成長ゼロだろう。残りの部分で伸びるしかない。その邪魔になっているものを取り除くのが、政治の仕事だ。銀行がリスクの高いベンチャー産業に投資するのは、背任的だ。

Q;トップダウンと首相公選制

えだの;かつて、管直人は、「民主主義とは交代可能な独裁性のことだ」と述べた。首相公選制になれば、国民と政治の距離が近くなる。政治は国民に対し弱くなる。
 このことと、権力内部でのトップダウンは両立する。
 権力内部では、首相は政府各省庁大臣へ対してはトップダウンを徹底するべきだ。権力内部では、独裁であるべきだ。

Q;年齢差別禁止法

えだの;現在、就職の年齢差別を禁止する法律を作っている。難航している。終身雇用制を否定し、自由に転職できる社会に移行するために、法の整備が必要だ。

Q;選挙の争点

えだの;選挙の争点は、年金問題にしたいと思っている。どう争点を持っていくかが、本当の選挙戦だ。

 質疑応答の時間のとき、私はこんなことをえだのさんに提言。

 a;選挙において、争点をいかに設定するかが最も重要だと思う。「天下りを是とするか非とするか」を争点としてアピールしてほしい。

 b;教育問題。学校以外の社会を知らないまま教員になり、学校の中のことしか知らないまま子どもを教育し、その子どもが学校以外の社会を知らないまま教員になる、という無限循環システムは、生徒にとって絶望的だ。他の職業から教員に転職しやすく、場合によっては2年以上教員以外の職を経験した者を優先して採用するようなシステムにしたほうが、いいのではないか。

 c;13歳から20歳までのどの時点からを成人とするかは、ある意味、どの時点であっても構わないと言える。ならば、成人になったかどうかを自己申告・自己登録制にしてしまったほうが、いいのではないか。成人になることに十分なメリットを与え、それと引き換えの責任を与える。成人することに、積極的な意味が生まれ、動機づけに有利なはずだ。「寄らば大樹の陰」という発想は幼稚なものとされる価値転換が起きるはずだ。少年法の問題、ベンチャー企業家の育成にプラスに働くはずだ。

 cの成人の自己申告制、自分ではいいアイデアだと思う。元服制度の復活。未成年を社会から隔離する近代社会から、次の社会に移行できるように思う。誰にもデメリットはないはずだと思う。建設的批判を求めます。

 1月22日(土)

 大学のサークルの同級生・後輩と新年会。

 1月21日(金)

 非建設的に過ごす。

 1月20日(木)

 テンプラ学生する。

 1月19日(水)

 実家から借金するため田舎へ。相談事は父のみにしよう。金も父から借りよう。10万円借用。
 無知は無知を再生産する。無知で不安で無力感に襲われているから、父母は私を手元に置きたがる。父母の衝動は近親姦的衝動だが父母はもちろんそのことを自覚できない、今後も一生。
 父が記憶の捏造をする。事実と異なるところを私が父に指摘する。
 父は祖父によって一生を曲げられた、と、言う。「だからお前も人生の望みを捨てろ」、と、言う。10年前から繰り返している繰言。20年前も言っていた。
 学問をつけると生意気になって仕事をしなくなって一生貧乏する、村にはそういう例がたくさんある、と父が説法する。
「じゃあ、どうして世の人は大学に行きたがったり、大学にやりたがったりするんでしょうね?」と父に訊く。かなり最近になって、やっと気づいた有効な質問。父は答えることができない。父母は答えを知らない。私も答えを知ってるわけではない。
「大学はお前が行きたがったんじゃないか」と、母が言う。論理のすり替えと、責任転嫁。非現実的な努力至上主義の世迷言を母が繰り返す。盲目的でさえあれば全てうまく行く、というロジック。自身は何ら状況改善のための努力はしないが、他者には超人的努力を求める、そして自分自身は盲目的であるから、他者にどれだけ残酷なことを要求しているのかは自覚しない。無知ゆえに無駄な苦労を強いられているという客観状況を否認し、自分が超人的な努力家だからそうしているのだ、と、母は詭弁する。
 父母がほしがっているのは便利な奴隷だろう、と、私が言う。父はそれを認める。母は否認する。
「偉くなろうなんて思うな」と父が言う。「歳を考えろ、10年遅い」と父が言う。20年前は何を提言しても10年早い、と、拒絶された。10年以上時間を浪費させられた結果、経験するべき人生経験を10年分剥奪された。私だって何をするにもことごとく10年余計に時間がかかってしまったことが悔しい。

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