日本のことが好きなアメリカ人、アレックス・カー。
日本が好きなゆえに、経済先進国では稀有なレベルの、日本人の景観に対する鈍感さを彼は嘆く。
そんな日本にどっぷり浸かって来た彼の気分は、この歌のタイトルみたいなものだろう。日本において、景観の劣化や稚拙な変更を推進している側も、そしてそれを怒りもせず当然視して受け入れて来た側の人々も、彼にとってはAGAINST ALL ODDS♪
Youtubeによりフィル・コリンズでどうぞ! いつ聴いても、いい歌だね。
私は景観論に関する彼の著書をこの順番に読んで来た。
そして最近彼の新しい著書が出た。「ニッポン景観論」である。
次々と美的に劣る景観が出て来る。
地球環境的に害があるものもある。
私はこの人の意見にはほとんど賛成だが、アメリカ人にあけすけに指摘されるとむかつき、否定する日本人も多い。
日本では道路開発の基本的方針も問題を含むが、開発に係る技術的な問題も多いと思う。
地震が多いカリフォルニアでもこういう道路開発(↓)が行われていることを、アレックス・カーは景観に配慮した賢い開発例として挙げている。実際、あちこちで地崩れもあるらしい。それでもこうした不自然に見えない景観の保持に執着しているわけだ。最近はアジア諸国でも皆こうした開発スタイルをとるようになって来ている。
日本の看板の多さについても記述が多い。それも皮肉たっぷりに。
京都では神聖な場所ですら、一見ただの説明に見えて実は単なる巨大企業の広告が跋扈する看板天国。
我が家の前の道路に生える電柱。
我が家からすぐの電柱。これが地面に置いてあったら、重罪の産業廃棄物投棄だ。ところがそれをするのが電力会社であり、空中でのできごとならまったく問題ないらしい。
この洋書(↓)は電柱と電線ばかり、看板と標識ばかりの街を「こんなとこ、住みたくないねぇ」と批判している。
著者はこのやんごとなきお方だ。
鎌倉が世界遺産登録を目指していた時、ある市会議員が市内中心部の建物の高さの問題を指摘していた。歴史を売り物に世界遺産登録しようということと、新しくあまりに高い建物と相容れないからだ。
しかし同時に無制限に進む土地区画の分割を止めないと、鎌倉はズタズタになることを私は何年もあとになってその議員に指摘した。分筆は一旦起こると未来永劫もとには戻せないのだから。実際鎌倉の中心部から周辺にかけてどんどん切り刻まれていて歴史的遺産に近接したところまでぐちゃぐちゃに開発が進み過ぎたことが、世界遺産登録を降りざるを得なかった理由のひとつである。しかし分割に関して、この議員は関心が無いようだった。土地区画の分割を許さないと人口が増えない可能性があると、その議員は述べた。
ところが残念ながら、鎌倉市の人口は今後おおむね横ばいが精いっぱいだ。そんな状況下、土地区画の分割と並行して進んでいるのは空家の増加である。近隣の横須賀市ではすでにこれがかなり深刻である。そしてやがて空家は防犯上の問題を生み、土地区画の分割は景観を崩す。これはまた犯罪の温床でもある。路駐が多い街は犯罪が多いのと同じだ。
それを避けたいなら、敷地分割を停止する一方で、空家を所有し空家のまま放置すると著しく不利になる税制を都市やその郊外では考えればいい。そうすれば未使用の敷地がどんどん市場に放出され、価格調整が起こり、買うべき人が現状の敷地のままで敷地を買える状態にまで変化が生じることだろう。
しかしながらこのような住民協定があり、その看板があちこちに立つ我が七里ガ浜住宅地にあっても、住民自身によりそれに違反する不動産売買契約が平然と行われ、それがまた許されるカルチャー。空家もジワリと増えていて、本当の景観重視なんてありそうにない。
先日掲載した丸の内の画像。東京駅の西側だ。
東京駅の東側、八重洲口正面ははこう。
丸の内を八重洲に変化させるのは簡単だが、一旦そうなると八重洲を丸の内に変化させるのは永遠に不可能。
当然ながら、この八重洲を、高さと質感と色の統一感のリージェント・ストリートに変えるのも不可能。
開発住宅地だって、一定のリズムがあり、景観の流れがある。微妙に変化をつけながら一定の間隔で道路に沿って土地の間口が並ぶ。建物や敷地や樹木や芝が個性を出しながらもリズムをそろえて行く。特定の敷地だけを半分に分割したり、一か所だけ4階建ての建物にするというようなことは、その景観を崩してしまう。とりわけ敷地分割は、一旦起こると二度ともとに戻らない。
土地が狭く人が多い日本ではそれは出来ない!という昔ながらの意見があるが、少なくとも鎌倉市はすでに人口は増えていない。これからもほとんど増えない。
AGAINST ALL ODDS。
大事にしたいですなぁ、この国土。せめて他の経済先進国並みに。
日本が好きなゆえに、経済先進国では稀有なレベルの、日本人の景観に対する鈍感さを彼は嘆く。
そんな日本にどっぷり浸かって来た彼の気分は、この歌のタイトルみたいなものだろう。日本において、景観の劣化や稚拙な変更を推進している側も、そしてそれを怒りもせず当然視して受け入れて来た側の人々も、彼にとってはAGAINST ALL ODDS♪
Youtubeによりフィル・コリンズでどうぞ! いつ聴いても、いい歌だね。
私は景観論に関する彼の著書をこの順番に読んで来た。
そして最近彼の新しい著書が出た。「ニッポン景観論」である。
次々と美的に劣る景観が出て来る。
地球環境的に害があるものもある。
私はこの人の意見にはほとんど賛成だが、アメリカ人にあけすけに指摘されるとむかつき、否定する日本人も多い。
日本では道路開発の基本的方針も問題を含むが、開発に係る技術的な問題も多いと思う。
地震が多いカリフォルニアでもこういう道路開発(↓)が行われていることを、アレックス・カーは景観に配慮した賢い開発例として挙げている。実際、あちこちで地崩れもあるらしい。それでもこうした不自然に見えない景観の保持に執着しているわけだ。最近はアジア諸国でも皆こうした開発スタイルをとるようになって来ている。
日本の看板の多さについても記述が多い。それも皮肉たっぷりに。
京都では神聖な場所ですら、一見ただの説明に見えて実は単なる巨大企業の広告が跋扈する看板天国。
我が家の前の道路に生える電柱。
我が家からすぐの電柱。これが地面に置いてあったら、重罪の産業廃棄物投棄だ。ところがそれをするのが電力会社であり、空中でのできごとならまったく問題ないらしい。
この洋書(↓)は電柱と電線ばかり、看板と標識ばかりの街を「こんなとこ、住みたくないねぇ」と批判している。
著者はこのやんごとなきお方だ。
鎌倉が世界遺産登録を目指していた時、ある市会議員が市内中心部の建物の高さの問題を指摘していた。歴史を売り物に世界遺産登録しようということと、新しくあまりに高い建物と相容れないからだ。
しかし同時に無制限に進む土地区画の分割を止めないと、鎌倉はズタズタになることを私は何年もあとになってその議員に指摘した。分筆は一旦起こると未来永劫もとには戻せないのだから。実際鎌倉の中心部から周辺にかけてどんどん切り刻まれていて歴史的遺産に近接したところまでぐちゃぐちゃに開発が進み過ぎたことが、世界遺産登録を降りざるを得なかった理由のひとつである。しかし分割に関して、この議員は関心が無いようだった。土地区画の分割を許さないと人口が増えない可能性があると、その議員は述べた。
ところが残念ながら、鎌倉市の人口は今後おおむね横ばいが精いっぱいだ。そんな状況下、土地区画の分割と並行して進んでいるのは空家の増加である。近隣の横須賀市ではすでにこれがかなり深刻である。そしてやがて空家は防犯上の問題を生み、土地区画の分割は景観を崩す。これはまた犯罪の温床でもある。路駐が多い街は犯罪が多いのと同じだ。
それを避けたいなら、敷地分割を停止する一方で、空家を所有し空家のまま放置すると著しく不利になる税制を都市やその郊外では考えればいい。そうすれば未使用の敷地がどんどん市場に放出され、価格調整が起こり、買うべき人が現状の敷地のままで敷地を買える状態にまで変化が生じることだろう。
しかしながらこのような住民協定があり、その看板があちこちに立つ我が七里ガ浜住宅地にあっても、住民自身によりそれに違反する不動産売買契約が平然と行われ、それがまた許されるカルチャー。空家もジワリと増えていて、本当の景観重視なんてありそうにない。
先日掲載した丸の内の画像。東京駅の西側だ。
東京駅の東側、八重洲口正面ははこう。
丸の内を八重洲に変化させるのは簡単だが、一旦そうなると八重洲を丸の内に変化させるのは永遠に不可能。
当然ながら、この八重洲を、高さと質感と色の統一感のリージェント・ストリートに変えるのも不可能。
開発住宅地だって、一定のリズムがあり、景観の流れがある。微妙に変化をつけながら一定の間隔で道路に沿って土地の間口が並ぶ。建物や敷地や樹木や芝が個性を出しながらもリズムをそろえて行く。特定の敷地だけを半分に分割したり、一か所だけ4階建ての建物にするというようなことは、その景観を崩してしまう。とりわけ敷地分割は、一旦起こると二度ともとに戻らない。
土地が狭く人が多い日本ではそれは出来ない!という昔ながらの意見があるが、少なくとも鎌倉市はすでに人口は増えていない。これからもほとんど増えない。
AGAINST ALL ODDS。
大事にしたいですなぁ、この国土。せめて他の経済先進国並みに。