『少女とガソリン』(6月27日、in ザ・スズナリ)
●作・演出● 長塚圭史
●出 演● 中村まこと、松村武、池田鉄洋、中山祐一朗、伊達暁、長塚圭史、富岡晃一郎、大林勝、下宮里穂子、犬山イヌコ
スズナリへ急いでいるときに、たまたまライブハウス「シェルター」の前を通ったんですが、そこで開演を待っている若者たちと、『少女とガソリン』の観客層と、その雰囲気や熱気が大して違わなかったということから、この阿佐ヶ谷スパイダースの不思議な人気がわかったような。「大人計画」よりまだ低年齢層? なかにチラチラ高齢の方もいたけど、私たち、確実に平均年齢を上げていました(笑)。けっこう、熱烈なファンなんだけど。ま、いいか。
★切なくて、弱くて、悲しいけれど…
圧倒的なパフォーマンスと乱暴な主張、個性的な役者たちがはみ出し続け、時々スピードを緩めながらしみじみさせて、で、一気に駆け抜ける…、そんな相変わらずな「男たちの暴走」だった。
周囲から差別され、「臭い」などといわれのない言葉を投げつけられていた串田の町の男たちの精神的なよりどころは、串田の安い酒「真実」(「まこと」と読む)の醸造を再開すること、そして、アイドル「リポリン」(下宮里穂子が、凛としてかわいい。素人っぽくてよい。←これ、褒め言葉です。長塚さん、グッドチョイスかと)への思い入れ。
かつての醸造所のあった場所に高齢者の施設が建設され、その敵側のセレモニーにリポリンが出演することを怒る男たちが居酒屋に集まり、リポリン誘拐を企てるところから一気に「狂気」の道を突っ走り始める。
鬱積した差別への怒り、虐げられた労働者の憤りって言うと時代錯誤的なとらえ方をされちゃうし、格差時代への警鐘って言うとなんとなく社会派みたいな誤解も招いてしまう。この男たちの中にある積もり積もった鬱憤は、そういう時代性ではなく、理不尽に消されていく自分たちの居場所への深い愛着といらだたしさ、それこそ「本能」みたいなものなんだろう。だから、理屈なんて関係な、突っ走る男たちは、どこかかっこよく見えるときもあるが、限りなくせつない、ただただ切なく弱く悲しい。大暴れしても、強い言葉で煽っても、やっぱり悲しい。
押さえつけられた人間の怒りはこうやって、弱くて悲しいけど、案外説得力はあるのかもしれないよ、ということを教えてくれる。
物語的にはオチがあるのだが、その思いがけない父娘のストーリーや「血」の不思議には私自身はあまり動かされなかった。男たちの暴走を止める、最後の、そしてたったひとつの「理由」ってことなのかな。
ただラストで全員が歌うシーンはちょっと迫ってくるものがあった。純粋で美しい少女の願いと、乱暴で無教養な男たちの真実を求める闘いには、不思議な共通の匂いがあるような…。
それこそ、「革命」が成立する稀有な条件なのかもしれない、などど。
★失った手
「昔あんなに濁っていた串田の川が今はなんだ! あんなにきれいになっちまいやがって!」
「醸造所の跡地にできたきれいで清潔でデラックスな高齢者施設のせいで、働く場を失った男が大勢いる!」
男たちは怒る。
「清潔な高齢者の施設」も「水が澄んでいるきれいな川」も、新しい時代の象徴のような「表の存在」だ。男たちはそこに「まやかし」を感じとる。うわべだけの美しさが多くの真実を隠してしまうことを、よく知っているからだろう。そんなものにはだまされない!とコブシを振り上げる。
おもしろいたとえがあった。高齢者の福祉施設を称して「まるで本物のような義手を利用して失った手をカバーする人たち」、そして串田の町の怒れる男たちを称して「手を失ったという事実をそのまま受け入れて生きる人たち」。そして、串田の男たちがこよなく愛するのは「真実」という酒なんだな。
★「チェーンソーで腕1本だけ」
例によって、殺戮の場面もあり(グロの場面に慣れてきたのか(?)、「今回はチェーンソーで腕が1本切断されただけか」などと思った自分が恐ろしい…)、派手に水や塩をぶちまけて怪しい酒を作るシーン、そしてアイドル・リポリンの歌を振りつきで歌う「男たちの暴走」(これはぶきみなほど、かわいくて、結構はまります、マジで)。
どれもストレートに迫ってきて、狭い舞台と客席の空気が入り混じる。
ザ・スズナリの雑多な雰囲気と「暴走する男たち」は、みごとに一致しすぎて、おかしくて苦しいくらいだった。
中村まことの適度な狂気(笑)、松村武のド迫力、ともに圧巻だった。
ちなみに、まだ未経験だった「日本の女」を、SPECIAL SCREENING で観ました。よかったら、こちらをどうぞ!
●作・演出● 長塚圭史
●出 演● 中村まこと、松村武、池田鉄洋、中山祐一朗、伊達暁、長塚圭史、富岡晃一郎、大林勝、下宮里穂子、犬山イヌコ
スズナリへ急いでいるときに、たまたまライブハウス「シェルター」の前を通ったんですが、そこで開演を待っている若者たちと、『少女とガソリン』の観客層と、その雰囲気や熱気が大して違わなかったということから、この阿佐ヶ谷スパイダースの不思議な人気がわかったような。「大人計画」よりまだ低年齢層? なかにチラチラ高齢の方もいたけど、私たち、確実に平均年齢を上げていました(笑)。けっこう、熱烈なファンなんだけど。ま、いいか。
★切なくて、弱くて、悲しいけれど…
圧倒的なパフォーマンスと乱暴な主張、個性的な役者たちがはみ出し続け、時々スピードを緩めながらしみじみさせて、で、一気に駆け抜ける…、そんな相変わらずな「男たちの暴走」だった。
周囲から差別され、「臭い」などといわれのない言葉を投げつけられていた串田の町の男たちの精神的なよりどころは、串田の安い酒「真実」(「まこと」と読む)の醸造を再開すること、そして、アイドル「リポリン」(下宮里穂子が、凛としてかわいい。素人っぽくてよい。←これ、褒め言葉です。長塚さん、グッドチョイスかと)への思い入れ。
かつての醸造所のあった場所に高齢者の施設が建設され、その敵側のセレモニーにリポリンが出演することを怒る男たちが居酒屋に集まり、リポリン誘拐を企てるところから一気に「狂気」の道を突っ走り始める。
鬱積した差別への怒り、虐げられた労働者の憤りって言うと時代錯誤的なとらえ方をされちゃうし、格差時代への警鐘って言うとなんとなく社会派みたいな誤解も招いてしまう。この男たちの中にある積もり積もった鬱憤は、そういう時代性ではなく、理不尽に消されていく自分たちの居場所への深い愛着といらだたしさ、それこそ「本能」みたいなものなんだろう。だから、理屈なんて関係な、突っ走る男たちは、どこかかっこよく見えるときもあるが、限りなくせつない、ただただ切なく弱く悲しい。大暴れしても、強い言葉で煽っても、やっぱり悲しい。
押さえつけられた人間の怒りはこうやって、弱くて悲しいけど、案外説得力はあるのかもしれないよ、ということを教えてくれる。
物語的にはオチがあるのだが、その思いがけない父娘のストーリーや「血」の不思議には私自身はあまり動かされなかった。男たちの暴走を止める、最後の、そしてたったひとつの「理由」ってことなのかな。
ただラストで全員が歌うシーンはちょっと迫ってくるものがあった。純粋で美しい少女の願いと、乱暴で無教養な男たちの真実を求める闘いには、不思議な共通の匂いがあるような…。
それこそ、「革命」が成立する稀有な条件なのかもしれない、などど。
★失った手
「昔あんなに濁っていた串田の川が今はなんだ! あんなにきれいになっちまいやがって!」
「醸造所の跡地にできたきれいで清潔でデラックスな高齢者施設のせいで、働く場を失った男が大勢いる!」
男たちは怒る。
「清潔な高齢者の施設」も「水が澄んでいるきれいな川」も、新しい時代の象徴のような「表の存在」だ。男たちはそこに「まやかし」を感じとる。うわべだけの美しさが多くの真実を隠してしまうことを、よく知っているからだろう。そんなものにはだまされない!とコブシを振り上げる。
おもしろいたとえがあった。高齢者の福祉施設を称して「まるで本物のような義手を利用して失った手をカバーする人たち」、そして串田の町の怒れる男たちを称して「手を失ったという事実をそのまま受け入れて生きる人たち」。そして、串田の男たちがこよなく愛するのは「真実」という酒なんだな。
★「チェーンソーで腕1本だけ」
例によって、殺戮の場面もあり(グロの場面に慣れてきたのか(?)、「今回はチェーンソーで腕が1本切断されただけか」などと思った自分が恐ろしい…)、派手に水や塩をぶちまけて怪しい酒を作るシーン、そしてアイドル・リポリンの歌を振りつきで歌う「男たちの暴走」(これはぶきみなほど、かわいくて、結構はまります、マジで)。
どれもストレートに迫ってきて、狭い舞台と客席の空気が入り混じる。
ザ・スズナリの雑多な雰囲気と「暴走する男たち」は、みごとに一致しすぎて、おかしくて苦しいくらいだった。
中村まことの適度な狂気(笑)、松村武のド迫力、ともに圧巻だった。
ちなみに、まだ未経験だった「日本の女」を、SPECIAL SCREENING で観ました。よかったら、こちらをどうぞ!