尼崎の整体院です|「かいつう館の日々是整体」 腰痛など慢性の痛みは当院にお任せください^^

尼崎・武庫之荘の整体院です。腰痛・股関節・膝痛、首痛や頭痛など大得意。回数券を必要としない、通えない方のための整体です

こういうことです

2005-09-13 09:29:50 | 健康 整体
そうそう、これは書いておかなきゃ。


いろいろ書いてきました。あれを読むと、誤解を招きそうなんで。

それはですね、「治らないのはあなたのせい」と言ってるわけじゃない、てこと。うちに来てもらって「解痛コース」を受けてもらったことがある人にはわかってもらえている、と思うのですが。

「治らないのは、施術家のせいじゃないのか??????」

そういうケースもあるのです。だから、私はそれを言い訳にしないためにも、全力で、時間の許す限り(時間内で全力で、ではなく)やってます。やるだけやって、まだダメなら、さらに考えます。「なにか、手はないか、見落としていないか」。それでも変わらなければ、、、本当に自分が恥ずかしいし、申し訳無く思います。帰りの電車ではとことん落ち込みます。でも、自分じゃない人が治せる可能性はある、と思うし、それならば明日の自分がなにかできるかもしれない、とも思うので、絶望はしません。

そうやって突き詰めて突き詰めて、、、人から学び本から学び、して、、、、。

治る、治す、人間、肉体と精神、健康と病気、、、複雑でシンプルな世界です。たまらなく愛しい世界がそこにあります。人間てすばらしいなあ、としみじみとしてしまいます。そんな気付きを与えてくれたケースを紹介してみたのでした。


あのようなケ―スは、本当にマレです。だから、書いたのです。(当たり前のように良くなった例ばっかりかいても面白くないでしょ?38歳、女性。慢性腰痛で見えられるも当店にて一回で改善。とか)


だから、うちに来てくれた人に対して「治らないのはアンタのせいよ」なんてこれっぽっちも思いません。そうじゃなくて、「治してるのはあなたかも」ですよね。お医者さんが、僕の、腰痛に対処するやり方を聞いたら「そんなあほな」というと思います。それだけ、医学的根拠からはずれた、でも、シンプルで結果のともなう手法なんです。ならば、なぜ、医学的じゃないのに結果がともなうか?それってお客さんが勝手に治ってるだけかもしれないんですよね。僕のやり方が素晴らしいんじゃなくて。

少なくとも、僕らは、あきらめちゃいけないと思う。治らない症例に対してはとことん追求するべきなのだと。それは、お客さんのためになる、のだけれども、自分に「なにか深いもの」を見せてくれるから、でもある。

そんなこんなで、うちの解痛コースはしつこいです。諦めや手抜きはしないので(笑)

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むかしむかし、、、

2005-09-12 12:19:27 | 健康 整体
全国一千万女子高生ファンの皆様のご要望にお応えして、「ほのぼの日記」再登場っっっ。

というわけではないのですが、、、「完」だと書いているのにやっぱり見に来てくれている人がいらっしゃるようなので、こっそり、コネタを書いたりしますね。今度は不定期ですからね。

それにしても、冒頭の「全国、、、、」。どっかで聞いた覚えがありませんか?なんだったかなあ、「タイムボカンシリーズ」だったかなあ。自分で書いておいて、気になるーーー。知ってたら誰か教えてくださーい。

今日は僕が、まだ修行時代に、いろんな先生から聞いた「語録」集です。

「想う」だけで触れずに背骨をまっすぐにしちゃう先生に
私「すごいですねー。もしかして、想うだけで鼻が高くなったり瞼が二重になったりしないんですかあ?」(もし、できたら、女性をターゲットにして大儲けができそうだよな。などと不埒なことを考えた私)
先生「骨的なものは、その場では変わらないかなあ。でも、そういう人にはあんまり施術をしたくないのよね」
私「なんでですか?」
先生「だって、今の自分に満足してない、ってことでしょ?鼻に満足できたら、次は目、唇、そのうち身長を3センチのばせ、とか、、、キリがないもの。もし、それがあなたの彼女のことなら、あなたはそんなことは気にしてないでしょ?でも、外から見ての満足を彼女が追及するならキリがないし、100パーセント満足なんてさせられないもの」
(ふーむ、そういうものかあ?)

また、別の先生の話。ほぐしのしすぎで親指が気持ち悪いくらいに痛くなって、それを、手をかざすだけで治してもらったことがあります。さすがにその時は
私「いくらなんでも、これはおかしいよ。今の痛みは使い痛みなわけで、こればっかりは炎症やら細胞が傷ついてたりやらで、すぐに治っちゃうのは、物理的に有り得ない」(治してもらいながら、なにを文句言ってるんでしょうか、私)
先生「、、、体に働きかけてるわけじゃないもの」
要約すると、こんなことです。殻に入った状態の生卵をイメージしてください。透明な液体(白身ね)の中に物理的な塊、つまり肉体(卵でいう黄身)があるのだ、と。透明なほうは物理的な影響を受けないから、そっちに働きかけた方が早いのだ、と。透明な液体状のもののほうが固形物である肉体よりも「形をいじりやすい」と。わ、わかります?わかりませんよね(汗っ)心、または、タマシイの中に肉体がある、というイメージらしいです。普通は体のどこに心はあるんだろう、って言うのにね。ああ、そうだ、肉体からオーラがでてる、って言いますでしょ?それの逆の考え方ですね、きっと、。オーラの中に肉体がある、という、、、。そのオーラ(とは彼は言わない)の方を修正したら、一気に肉体に反映される、のだとか。
(もち、私にはそんなこと、できませんからね)

不思議なことができる人の言うことに耳を傾けるのは、本当に刺激的です。
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関東話 その最終章

2005-09-10 12:43:05 | 健康 整体
で、結局。だいたい十回の遠隔でほぼ、元気になられたようです。

聞くところによると、遠隔の際に、電話をしながらだったのですが、1時間あるとしたら約59分30秒は話っぱなし。残り30秒で遠隔をしてた、らしいです。それだけ、いろんなことをしゃべってくる、質問してくる、わけなんですね。僕もメールや携帯で相談にのったりしていたのですが、一回の電話が60分を越えることもよくありました。

今から思うと、彼がいろんな治療院に行って良くならなかった。それは、本当は、、、「治して欲しい」よりも「わかってほしい」があったのではないでしょうか。痛みをとってくれ、と彼は治療院に行くわけですが、深いところでは家庭環境やどれだけ痛いかを含め、「この辛さ苦しさをわかってほしい」というのが隠されていたような気がするのです。それを幸いにか僕達二人は離れているため、施術ができずに会話が主体となった。僕だって、関東からこの店に来られたらお話だけ聞いてお金をもらうわけにはいきません。だから、満足に話を聞けずに体を触り「やっぱり良くなりません」となっていた可能性もあります。

現在は主訴は無くなり、一部に痛みは若干残るものの、「これくらいなら大丈夫」ということで打ち切りになりました。遠隔のおあにいさんは言います。たかが30秒でなにができますか(笑)彼が勝手に良くなったんですよ、と。いまなら、わかる気もします。そう、確かに彼が勝手に良くなったんだと。聞いてもらい、共感してもらい、質問には答えをもらい、納得し満足する。彼の心が満たされたときに「痛みはまだあるけど、大丈夫」になったんです。施術する方が「無理やりに治した」んじゃなく、彼が納得・満足することで痛みの囚われから自分で解放されていったんだ、と言う事が。(なににどう納得したのか、などは書けませんのでスミマセン。話だけではなく、本の紹介もしたりなんかして、ね。いろいろあったんですよ)まだ病気(痛み)を所有しているかもしれないけれど、「病人(やまいびと)」ではなくなったんですよね。

わかりますでしょうか?今なら「誰が来ても(赤の他人が、無理やりに他人をどうにかできる)一発で治るような万能療法がない」という意味が。「パワーの強い低いではなく、共感する能力だ」と言う意味が。「意味を奪う事はできない」という意味が。そのほかの今まで書いてきたブログがここに収束していくことが。

そして、僕自身。彼から質問されるたびに答えていく中で。なんどか。しゃべりながら「なんてすごいことを自分は言っているのか。こんな答えが僕の中からでてくるなんて」とびっくりしたことがあるんです。「おいおい、これは誰がしゃべってるんだよ(笑)」と。つまり、僕も彼から思わぬプレゼント(成長できる、という)をもらっていたわけなんです。過去にこのブログに書いたこと、ほとんどは僕がうまく結果をだせなかったことがメインになってたりします(そうでもないか)。それだけ、僕の中ではインパクトが強く、なにかを考えさせてくれたからです。健康とは、病気とは、なぜ痛くなるのか、なぜ治りやすい人治りにくい人がいるのか、なぜ、なぜ、なぜ、、、。きっと、こういうことを考えるのが好きなんでしょうね。整体をとおして見えてくるもの、僕がうまく結果を出せずに、おかげで見えてきたもの(あ、そうひとにはこの場を借りてお詫び申し上げます)、いっぱいのプレゼントを両手に抱えて、今日も明日も人間を見続けていきたい、と思う次第です。

完。




本当に?


また続けてもいい???明日には復活してたりして。



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もらうやいなや?

2005-09-09 10:28:58 | 健康 整体
その彼が治療家を目指している、ということもあり「患者さんの悪い気をもらうことはあるのか?」と質問された。当初は、明らかにそのことに対して不安がっていたので、こう答えておいた。

「ないです。『ここが痛い、つらい、助けて―』という弱った患者さんと、元気まんたんの施術家とでは、施術家の方が高い・多い・そういう位置にいることは間違い無い。水は高いところから低いところに流れるのであって、もし、気が移動するなら、同じように高い術者のほうから少ない患者さんの方に流れるはずである。低い方から術者の方に逆流するとは考えられない」。

「なんとか良くなって欲しい、という大悲大慈の尊い気持ちが、そこらの『悪い気』『邪気』に影響をうけてしまうものか」
一応、彼の不安を解消する目的での答えである。

それから、かなり後の方になってもう一度同じことをたずねてきた。やっぱり知人の治療家は悪い気をもらうよー、と言っていたが、とのことである。また、いくつかまわった先でもそのように言われた、と。この頃は本人もかなり良くなってきており、いろんなことに対する受け答えの余裕が感じられたので、次のように答えておいた。

「僕の考えでは、高いところから低いところへ、ではなく、『交流する』もの、だと思う。高いところから水を流しても下が鉄板なら水は浸透していかない。つまり、高い低いが問題ではなく、行って返って行って返って、という交流してるものだと思う。相手も受け口をぱっくり開いててもらわなきゃ、流し込めない。いかに、高いか、強いか、ではなく、共感できる能力が問題なんじゃないか、と。その際、相手の情報がつかめたら、自分に相手の状態がわかるから『もらった』ように感じるかもしれない。でも、そのとき『はい、わかりましたよ』と理解を示してあとは手放せばいい。交流してるんだから、相手がよくなれば、自分も良くなるわけで、『相手が治ってこっちにだけ残る』なんて考えなれない。問題は『もらった、もらった』とその現象をいつまでも掴んでいるから、離れていかないのだ」

「もし、こっちが相手よりも低くなれば、高い低いの法則が生きて流れ込んでくるかもしれないけど。たとえば、お互いが元気に幸せになって喜び合おうよ、という気持ちではなく、『なんとか治さずに長びかせてお金をとろう』という気持ちでいたら、その後ろめたさが低さとなって、自分よりも高くなった患者さんから、いろんなものをもらう可能性があるかもね。だから、『もらう』と『自慢』してる場合じゃないと思うんだけどね」

「あとは、自分次第。もらう、ことを認めればなんでもかんでも結び付けてそう感じるだろうし、もらわない、と決めていれば、そのように現実が現れてくるんだと思うよ」


そんな話をしたのでした。おそらく、これが正しいのではなく、各個人の治療家が感じていること、がその治療家にとっての事実なんだと思うので、あとは本人がどの「事実」に目を向けるかだけだと思います。最後に、彼に
「好きな考えを選んだらいいと思います。あえて苦しい選択(もらって苦しむ、とか)をしたいか、楽にのりこえていきたいか、だけですから。僕は楽をしたいので、もらわないこと、に決めていますが」とお伝えしました。


こう書くと気やそういうことに対してのエキスパートみたいですが、、、来てくれた人はご存知のように、一生懸命に体を触ってほぐしていくタイプの整体屋ですからねーっ。
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霊障なのか?

2005-09-08 09:47:19 | 健康 整体
「霊障だ、って言われたこともあるんですよ」と彼。

関東の彼とそんな話をしていたのでした。
四代前の先祖が、どうにかしたらしい。それ以外にも何体かの霊を取ってくれたらしいが、まだまだ時間がかかりそうだから、しばらくおいで、と。ほっとくともっと不幸になるよ、と施術家。それ以外にも友人の知り合いの宗教家からも同じような事を言われていたらしい。

僕は、霊の話、大好きです。こんなに好きなのに、見たことも感じた事も、なーんにもありません。だから、霊が憑いてるのもなんもわからないのですが。ですが、ひとつ言えるのは、施術家がお客さんを脅かしたらいかんやろ、ということです。脅かして不安にさせて通わせるなら、霊感商法に堕してしまう。

そう断った上で。
そんなに簡単にとっちゃっていいのかなー、と僕は言いました。なぜなら、一つ前のブログに書いたように、「意味を奪うことになるんじゃないの」と思うからです。憑いてる霊にしたって、もしかしたら、なにかを学んで成仏するチャンスだったかも知れない。憑かれた方も、なにかに気付いて成長する機会だったかも知れない。それをいとも簡単に潰しちゃっていいのだろうかと。また、霊を祓うにしろなんにしろ、大層なことは必要ないんじゃないの、とも思うんです。霊だってもとは人、人だってもとは霊。そう考えたら「ふつうの言葉」で通じる相手なわけですよね。古語を使うこともサンスクリット語を使わねばならない必要も、あんまり僕は感じませんが。
コドモだって、抱っこから下ろそうとするとしがみついてきたりします。抱っこしつづけると、下ろせ-と言います。引っぺがすだけでなく、満足させ、成仏することのメリットを教えてやればいいだけなんじゃないんでしょうか?

もっとも、霊をエネルギーと観る人もいて。その人達は、霊を祓うとかではなく、「霊、というイメージをもつエネルギー」を浄化する、なんて言う考え方になるんですね。

どちらにしろ、また、ここに戻ってくるわけです。「他人が、他人についた他人の霊を、『意味を全うすることなく』祓っちゃっていいのか?」それが幸せにつながるのか?目の前の不都合を取り除けば、幸せと言えるのか?

僕も、霊障だ、という人(自己申告。トランス状態になって、「こいつ(本人ね)を許すまじ」と口が勝手にしゃべったり、とかはあるらしい)を施術したことはあります。良くはなりましたよ。でも、霊障なのに、整体で良くなったら、ツジツマがあわなくなりますよね。その人にとっては、これから先、痛くなったときに苦しい選択を迫られるかも知れません。霊障だー、と言って良いのか、もしかしたら「単なる痛み」なのか、、、。

また、こんなこともありました。腰が痛い、というママさん。少し残る、というので「痛くなる前になんかありましたか?」と聞くと「宿題をやならいからコドモをきつく叱ったことがある」と。だもんで、僕は手を当てながら心の中でお母さんの代わりをしてあげました。「○○ちゃんのことが嫌いでおこったんちゃうからね。ママはあなたを愛してるよ。ママはいま、腰痛で困ってるから、○○ちゃん、ママに力を貸して」数秒後には腰痛はきれいさっぱり無くなってました。
残念ながら、僕はなにも感じないし、みえないので、この現象に解説を加えることはできません。コドモの想いがママの腰にきていたのか(生霊とでも名付けますか?名付ければ僕も今日から霊能者っっっ)、ママのキツクあたってしまったという後悔の念が腰にあったのか、単に僕の手から気でも出ていて、改善したのか。

さて、わからないものはそのまま置いといて。
霊障、という「現象」を否定はしませんが、それを「障」だと捉えて良いのか?そこが僕の最大の疑問です。
うーん、三回では終わらんな。次は「患者さんの悪いものを、もらう?もらわない?」です。その次は、「結局、彼がどう良くなっていったのか」という話になって、終わる、、、、かな。このシリーズが終われば、ブログもいったん休もうかしら。なんか、整体のブログじゃ無くなってる、、、。

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万能療法はあるか

2005-09-06 10:08:54 | 健康 整体
これは、関東のほうから問い合わせてくださった方との会話の一部です。

彼曰くは、両親の看病、家庭内の不和、子供の問題、等々を抱え、また、自分も腰や首が痛くてつらいのだ、と。それであちこちの施術家のところを回ったが、良くならない。あげくには、「治らないのはあんたのせいだ」「あんたなんか、治るはずがない」「治らないあんたの方がおかしいんだ」「もう、良くなったでしょ。いえ、良くなってるんです。わからないんですか。ほら、良くなったでしょっ」と最後には突き放されること多数、、、。

それで、かいつう館に来て良くなるものなら泊まり込みで行きます、と仰るわけ。それももったいない話だし、と思って、また、例の遠隔のおあにいさんを紹介しました。で、僕のほうはあなたのお話を電話やメールでお聞きしましょう、と(これは、また、後日にでてきますので、覚えといてね)

その後、元気になってきた彼と話をしていると。もともとは、両親を助けたくて施術家を志し始めたんだ、と言う話になって。いろんなエネルギー系施術をしてくれる人のところをまわったが、誰も自分を治せない。「(誰をも治せる)万能の療法ってないんでしょうか」と聞くわけです。

僕はずいぶんとそれを捜し求めてきました。「もっとパワーが欲しい、どこかにそれはないのか」と。真剣に求めてきたんです。探しに探し、求めに求めてきました。でも、彼にこう言いました。

「ありません」と。

それは絶望の言葉ではなく、ある意味福音として。もし、あるなら、例えばイエス・キリストが問答無用で一瞬で、全世界の人間を癒し切っていたと思う。いえ、キリストの能力のことを言うのではなく。それが人を幸福にしないから、しなかったんだと思うんですよね。

僕がなんでも叶えられる能力者として。あなたが痛くなる、ほい、と僕が治す。また痛くなる、また、ちょちょい、と治す。いっそ病気をしない体にしてくれ、という。はいよ、と一瞬でそういう体にしてあげる、、、。もっと言えば、〇点でも東大に入学できるようにしてくれ、と言う。はいはい、と。あの娘と結婚したい、と願う。はいな、と。どこどこに入社させてくれ、年収一千万に、来年は部長に、と。はーい、お安いご用で、と。

本当にあなたは幸せになれるだろうか。
彼は、遠隔のおあにいさんに出会えて(と言っても声だけだが)また僕に出会えて(声とメールだけだが)、本当に良かった、と言う。ならば、詭弁かもしれないが、僕や遠隔さんに出会えて良かったでしょ?今まで、治らなくて。治ってたら僕達には会えてないんですよ?と。「『それ』に意味がないと、誰が言える?」

それは、ちょっとこじつけだけれども。
結局、どこの気功や能力者の施術を受けても治らなかった、というあなたは、裏を返せば、そういう能力者に拮抗しうるパワーを持ってる、ってことでしょ?もし、「あなたのパワーが単純に弱ければ、あなたは治されちゃってたはずでしょ?」であれば、そのパワーを人を癒すほうに向けたらきっとすごい人になりますよ。そのパワーを自分に向けたら、きっと症状は消えていきますよ。遠隔のおあにいさんも言ってたでしょ?僕はなにもしてません、あなたが勝手に治ってるだけです、と。「他人が他人を治せる万能療法は、あってもきっと人を幸せにしないと思いますよ。」なぜなら、、、。「意味を奪う事になるからですよ」


長くなりますので、この話は次回に続きます。たぶん、三回くらいの話になりそうです。
タイトルは変わりますが、同一テーマですのでお間違えの無きように。次回は霊障編です。
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21世紀の福音。痛みをとる究極の、、、

2005-09-05 10:53:36 | 健康 整体
究極の、、、、

究極の、、、、

究極の、、、、自家製プリン療法だっっっっ。
(あの、、、笑うとこですんで、ここは)


この、集客目的に作られて「いない」ブログを見ながらなおかつ当店にきてくださった方がおられましたので、敬意を表しつつ、その方の事を思い出しながら今日も書いてまいります。

頭痛と目のふちが痛い、というお客さん。いろいろやって頭痛も大丈夫そうになったので終わろうかな、と思っていたら、まだ目が痛い、と仰る。あ、忘れてた、頭痛が取れたら目も大丈夫になってるだろう、と思い込んでいた、、、。さて、今からどうしようかなーとしばし思案ののち。

「なんか楽しい事、嬉しい事ありましたか?」
「食べることが好き」
「うーん、旅先とかのきれいな景色の記憶とかないですかあ?」
「食べ物のことは覚えてるけど(笑)」
「食べ物と言えば、となりのカフェにいけば、自家製のおいしいプリンつけてくれますよ」
なんて話をしながら。
「いま、なにが食べたいですか?」と聞くと、口がプリンになってる、との答え。
で、僕は痛む目に手を当てながら
「痛いですよね?良くなりたい?本当に?」と聞いていく。「じゃ、三回深呼吸して?」
、、、、、、、、、
「はい、今、どうですか?」
「あれ?あれ?大丈夫みたい、、、」 

これがプリン療法。さて、種明かしをすると。
口がプリンになってる、ということは、頭の中がプリンで占められてる、ということ。この時点で、頭は「目が痛い」から「プ・リ・ンっ、プ・リ・ンっ」に優先順位を変更したのである。前にも書いたように、頭は常に優先順位をつける。その一瞬には、順位第一位の事しか考えられないようになっている。なので、頭は、プリンを採用した結果、目の痛みは一位の座から滑り落ちる(不採用となる)。
ほ、ほんとかよーっっっっ。お医者さんも読んでるらしいのに、こんな与太話ばっかり書いていいのーっ。

さらに、施術者である僕は。三呼吸の間に。痛いところに手を当てながら。
神人合一、御仏との入我我入状態で、我をなくし、空になり、不動明王、ひいては大日如来のパワーを注ぎ込む、、、、、、
なんてことはできないので。イメージのなかでうちのコドモ(よんたん)と合一することにする。
家に帰る、、、気付いたよんたんがパッとふりかえり、こっちにとことこ駆けてくる、だっこー、と両手を伸ばすのを僕は抱きかかえ、頭の匂いを嗅ぎ(ちょっとくさい、とか思いながら)、ほっぺをぱくり、とばかりに口に含む、、、。ああ、いい気持ちだなあ、、、、、、、、、。
「はい、今、どうですか?」
僕が最高に気持ち良い状態で相手に触れるなら、相手もまた、、、、、、、、、。
(もちろん、相手の心が開いていないとできないので、その前にはいろんな話をして共通のネタを探すんだけれども。)
気持ちがいいなあ、幸せだなあ、という感覚を選択したのなら、それ以外の感覚は同時には採用されるはずもなく。そして、相手の心もオープンになっているなら、、、。


プリン療法には、合成着色料、保存料、添加物などは一切ふくまれておりませんので、興味のある方はお早めに。なお、本当にお隣のcafe-cocoloさんで自家製プリンのサービスがありますのでお楽しみに(きっと、これを見たやさしい女性が、クリックしたらcocoloさんとこにジャンプできるようにしてくれているはず。この場を借りて先にお礼をいっておきます)ていうか、種を明かしたらこの技は使えない、ってーの。さらに言うなら、「種は後づけ、なんで、たぶん、、、違うと思う(笑)」


えーと。どっからどこまでが、まじめな部分なんでしょうね。今日のは、、、。

いま、思い当たった。cocoloさんとこの、だれからも愛される某コリーさんの言ってた「不思議タイムってなんですか」って、こういうときのテクニックを言うのかな。

カンの鋭い方は「結局、お前はなにもしてない、ってことやんなあ?」と突っ込んでやってくださいまし(笑)
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力を抜けりゃあ、世話は無い

2005-09-03 11:25:32 | 健康 整体
こういうところで「はい、力を抜いて-、、、」ボキッってされたこと、ありませんか?あのときは、ちゃんと力を抜いてあげてくださいね。力が抜けてることが前提の技なんですから、、。

って。力を抜ける人はこういうところには来ないんですよ。つまり、体に余計な緊張がない、てことですから、コリも少ないし、柔軟性もあるから傷めにくい。抜けないから、どこかに不調がでて、こういうところに来るんですもんね。

もっと言うと、力が入っていることを認識できていないんですよね。それが悪いとはいいませんよ。力の入ってる人、って良い人が多いですから。でも、力が入ってることのわからない人に、力を抜かせることは、土台無理です。力が入ってるんだよ、ということを納得させてあげないとね。

ラジオ体操なんかで「のびのびと、なんとかの体操(運動)-」て言いますよね。でも、いつも思うんですが、あれは、力が入りすぎなんです。ジャンプするときでさえも、体を堅くしている感じがありませんでしたか?落下に移る瞬間までは楽にしてたらいいはずなんですがね。手を上に伸ばすときも、斜めのつま先に滑らすときも、きっちり力が入ってますよね?
力が入る、とは、体を縮めることです。基本的に、力を入れると筋肉は縮みます。ジャンプするときは膝をまげて足を縮めます。力を誇示するときは腕を縮めて力こぶをつくります。だから、のびのび(伸びる)とするときに力を入れてるなら、それは伸びずに縮んでるんだ、ってことなんですが(笑)。

そのあたりことが、こんがらがってる気がします。力が入ってると、ぎゅう、と固まるでしょ。それで、のびのび体が使えるわけがない。なんか、「リラックスしようと『努力する』」感じがして苦笑を禁じ得ません(なんて表現、いまどき使わないか)



うちで昔、お茶を出していた頃がありました。みなさん、手を伸ばす時点から腕に力が入ってるんですね。本当は、持つ瞬間に力を入れたらそれでいいはずなんだけど。歩くときも、地面を蹴ったらその足先は力を入れなくてもいずれ勝手に前に戻ってくるのに、ずっと力みっぱなしだったり。歩く、で思い出した。関係ないけど、こんな話があります。地面に直線をひいてその上をはみ出さずに歩く。これはなんなくできる人でも、その直線が地上100メートルの高さにあり、横に手すりもなんにもなければ、歩けなくなる。歩ける横幅は同じなのに、、、。お茶ひとつでも、持つ前からこぼさないように構えておられるんでしょうか。だから、僕はよい人が多い、と言うんですけれども。ということは良い人は病人になりやすいのかも知れませんね。

だから、できるなら、力を抜いた良い人になろうよ、というところですね。じゃ、どうすんねん、というのは、また後日。

怪しげな蘊蓄コーナー。
本当は、伸ばすときにも力を使います。ただ、伸ばすときに曲げる方の筋肉も一緒に力を入れちゃうんですよね。伸ばすよりも曲げたほうが力を使った気がするから。だから、変に疲れちゃう。それは、伸ばすときに力を入れる習慣が進化の過程でなかったから、だとか。手は、動物でいうところの前足ですよね。これは、大体、自分のほうに引き寄せたり、戦うときであればフックのように手前に円を描くように使用するので、前足を使うとは、曲げる縮める行為であり、「伸ばす、伸ばし切る」行為をしたことがないためだ、なんていうのですが。あ、幼児なんかは布団の上で、ぎゅーっと力を入れて全身を伸ばしたりしますね、そういえば。




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痛みの捉え方

2005-09-01 11:54:15 | 健康 整体
最近、「心」のほうに比重がかかってきたので、今日は、体のほうでいきますね。

お客さんが、痛みを訴えられてこられたときに、その痛みをなにだと受け止めるか。ここらあたりに、各手技療法のスタートの分かれ目があるような気がします。

「腰が痛い」。あ、骨盤と腰椎の何番目がずれているな、これを直さなきゃ。
つまり、、、異常を正す。もっと言えば、異常は正されるべきである、と。
こういうスタンスがあります。

かいつう館的には、
「腰が痛い」。痛い、とはある方向に動かしにくい、ということ。腰が動かしにくくなることでどんなメリットが生じているのか。
これを考えていくやり方です。わかりにくく言えば(って、言いかえる意味がないよね)異常は理解され、愛されるべきである、と。異常を正す前に、その役割を考えてあげましょうよ、と。

この道に入る前に読んだ本に「からだの設計にミスはない」という単行本がありました。内容は忘れましたが、このタイトルが僕の手技を施す上での背景になっています。ミスはないなら、なぜ、今、痛みが生じているのか?「ミスではないなら、この痛みにどんな意味があるのか」

と言っても、別に深い意味は無いんだけれども(笑)。要は、動かない(動かすと痛い、ということは)んだから、ギプスでがっちり固定しているようなもんだ、と。じゃあ、何処を守るためのギプスなのかを考えてみよう。その場所を探り当てたら、あとは、「もう大丈夫だからね、ギプスはいならいよ」と該当場所に教えてあげたら良い。ギプスがとれたら、「ほら、動かしても痛くないでしょ?」

痛いー異常があるー異常を正すーほら、治ったでしょ。
痛いーなんで痛くなる必要があるのかなーああ、こんなとこを庇ってたのね、ご苦労さんーもう、頑張らなくていいからねーほら、痛くないでしょ。

こういう違いが、かいつう館の手技の特色です。
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