
沢山の花をつけてくれた。小さな花だったが見応えがあったぞ。感謝感謝。


旅館を出てから約45分で彦山駅に着く。列車が走らなくなった駅になってしまった。「玄関口彦山駅」の文字が寂しそうに見えて来るのは我輩だけではあるまい。

月岡古墳(福岡県)
日ノ岡と並んで筑後川流域古墳公開時に見学できる。阿蘇石製の長持形石棺が大事に保存されている。石棺内側には赤色顔料が塗られているとのことだ。浮羽地方では5世紀中頃に築造されており、塚堂、日ノ岡へと続く。
ここで少し・・・浮羽の由来を・・
日本書紀 景行天皇
熊襲討伐を目的とし、筑紫を巡行した。・・・南九州から不知火海、八代から八女へと移動し、的邑(いくはのむら)に着いた。この時天皇が食事を摂るのだが、食膳掛が盞(うき 酒杯)を忘れた。そこでこの地を浮羽と言った。筑紫の人々は盞を浮羽と言った。とある。
ここで少し・・この古墳の主は・・・当該古墳は5世紀半に築造されているということから倭の五王の時代の真っただ中であるということだ。
ここで倭の五王の最初の人物、讃は421年 425年 430年 宋が建国(420年)された翌年に遣使している。遣使については半島出身で、百済との結びつきの強固な者であり、それが筑紫の者であれば魏志倭人伝以来半島との関係を継続していたと思われ、遣使には持って来いの人物であったろう。
日本書紀 仁徳天皇 12年7月3日
高麗国が鉄の盾、鉄の的を奉った。8月10日には高麗の遣使や群臣百寮を集めて高麗の奉った鉄の盾・的を試した。多くの人が的を射通すことが出来なかった。ただ的臣の祖(いくはのおみのそ)の盾人宿禰(たてひとのすくね)だけが鉄の的を射通した。高麗の客人たちはその弓射る力の優れたのを見て共に起って拝礼をした。翌日、盾人宿禰を褒めて的戸田宿禰(いくはのとだのすくね)の名を賜った。とある。
日本書紀 仁徳天皇 17年
新羅が朝貢しなかった。秋9月、的臣の先祖 砥田(とだ)宿禰と・・・を遣わして朝貢せぬことを詰問された(兵を率いて新羅に赴いたのであろうか)。新羅人は恐れ入って貢を届けた。・・あわせて80艘であった。とある。この功績によって的臣の先祖 砥田(とだ)宿禰はこれらの貢物の中から下賜されたのではなかろうか。当該古墳の副葬品として大陸、半島系の武具、馬具、装飾品など目を見張るものがあるからだ。大和連合の一員で、かつ相当上位の者であり、当該地域の国王たる存在であったことは間違いはないからな。
浮羽について思いついたことを書いたということだから本気にしないでね。
当該ブログの記事は令和2年(2020)8月29日から9月3日までである。