炭鉱の象徴であるボタ山が見える。忠隈炭鉱全盛時のボタ山である。ここは飯塚駅C55がいまにも飯塚駅を出発する瞬間である。昭和45年夏、私が高校二年、蒸気機関車を追っていた頃の写真である。
筑豊本線は九州で最初に複線化された。石炭を若松港までに運ぶためである。この地は石炭の宝庫であった。為に、鉄路は縦横に敷設された。しかしながらご存知のように石炭の時代はあっという間に凋落した。それとともに鉄路は赤錆を浮かし、消えていく運命を辿ったのである。
人間は去っていき、街は成長を止めってしまった。今は少しでも成長していこうとして試行錯誤している。
ボタ山は木々を生やし、街の成長をじっと見つめ見守っているかのようである。(写真:C55とボタ山 クリックするとよく見えます)
やっと終わりました。列車に乗り込み帰路につくだけである。車窓からは歩いてきた道が途切れ途切れに後ろに流れて行くのが見える。わずか20分足らずで採銅所駅に到着してしまった。当たり前のことではあるが、今まで見えなかったものが歩くことによって、なんと多くのもを見ることができるのかと、改めて認識したのである。
採銅所駅からも、我々と入れ違うようにして秋月街道を歩いてきた人たちが列車に乗り込んできた。(写真:我輩)
採銅所駅からも、我々と入れ違うようにして秋月街道を歩いてきた人たちが列車に乗り込んできた。(写真:我輩)
一息も二息も着いた所でも汽車の時刻にかなりの余裕があるので、秋月街道の先を行くことにした。と言ってもそんなにたいそうなことではなく、ここ田川後藤寺のアーケードの下を秋月街道が通っているのである。往復の時間を考えて先に行ってみると、アーケードが切れたところでいい時間になった。先を見ると右に緩く弧を描きながら先に続く道は、私にとって未知の世界ではある。
猪膝宿に続き、山田を抜け、大隈、千手、そして冬は雪で閉ざされる難関の八丁峠を越えると秋月に至る。さらに道は続き、久留米御井まで続いて行く。(写真:先へ続く)
猪膝宿に続き、山田を抜け、大隈、千手、そして冬は雪で閉ざされる難関の八丁峠を越えると秋月に至る。さらに道は続き、久留米御井まで続いて行く。(写真:先へ続く)








