
この説明を読むと・・副葬品が凄いぞ。「宋書倭国伝」によると421年に倭王讃(賛)が遣使を送っている。
恐らくはその前後に大和連合に組み込まれたのであろうが、説明文には首長としているが、一国の王に相応しい者の墓である。

多摩川流域の世田谷区にある。五世紀初頭に築造されたものとする。テラスが設けられていて前方部は一段築盛で、後円部が三段築盛・・・均整がとれていないようにも思えるが・・全長82mである。周濠までを含めると104mもある。
ここには副葬品については書かれていないな。

この説明を読むと・・副葬品が凄いぞ。「宋書倭国伝」によると421年に倭王讃(賛)が遣使を送っている。
恐らくはその前後に大和連合に組み込まれたのであろうが、説明文には首長としているが、一国の王に相応しい者の墓である。

多摩川流域の世田谷区にある。五世紀初頭に築造されたものとする。テラスが設けられていて前方部は一段築盛で、後円部が三段築盛・・・均整がとれていないようにも思えるが・・全長82mである。周濠までを含めると104mもある。
ここには副葬品については書かれていないな。

案内図の真ん中より左上に野毛大塚古墳の名前が見える。

御覧の様に帆立貝式の前方後円墳である。しかも造出部をも持つ。周濠に囲まれているのだが、周堤があるのかないのかな。5世紀中頃に築造されている。5世紀と言えば賢明なる読者諸氏ならば頭をよぎるだろうな。そう、倭の五王の時代で、関東地方まで大和連合に組み込んでいっていたようだ。讃(賛)[421年 宋に遣使を開始する]、珍、済、興、武である。


近づいて見ると・・・あった痕跡も判らないが。


所謂・・・跡地。北九州にもあるんだが・・・古墳跡地とあるので行って見たら・・びっくりするぞ・・ただの空き地。

現在地の文字のすぐ右斜め下に「等々力渓谷三号横穴」と言う文字が見える。

7世紀後半から8世紀にかけて築造されたとする。大化の改新の翌年に薄葬令が出されて、平々凡々の民は古墳を造ることが禁止された。それで横穴墓になった。それでもこの様な墓を作ることが出来る者たちは有力者であるということだ。

等々力渓谷付近の案内図の下、隅っこの方に書かれてある。

なぜか入ることが出来ない。悪戯されるのかな・・・崩落の危機があるのかな・・・