ペンギン夫婦の山と旅

住み慣れた大和「氷」山の日常から、時には海外まで飛び出すペンギン夫婦の山と旅の日記です

神の山・三輪山登拝(2014.06.14)

2014-06-15 21:54:12 | 山日記

昨夜の雨が止んだ朝早く、丸さんが迎えに来てくれた。今日は丸さん夫人と同じ名前の山に4人で登る。8時半に大神神社に着いたが、すでに二ノ鳥居前の駐車場はほぼ満車の状態だった。

幸いガードマンが空いていたスペースに誘導してくれて、鳥居を潜って冷気の漂う杉並木の参道を進み、

拝殿からお山を拝む。

祈祷殿の前を通り、くすり道を狭井神社に向かう。砂利道の両側には、いろいろな薬草や薬木が植栽されていて、製薬会社の寄進した燈籠が並ぶ。祈祷殿の上から続く道に出て左折、摂社の磐座神社の前を通って

右に折れ狭井神社の鳥居を潜る。左手の辨天池の畔に見事なササユリが咲いていた。

狭井神社は大物主命の「荒魂(あらみたま)」を祭神としている。災害の折に荒ぶる神として猛々しさを発揮し、祭祀によって「和魂(にぎみたま)」に変じるといわれている。崇神天皇のとき全国に疫病が流行したので、大物主命を祀ったところ疫病は終焉したことから「薬の神様」として信仰されている。大神神社と同じく三輪山そのものが御神体なので本殿はないが、拝殿は現在屋根の檜皮葺き替えが行われていて覆いが掛けられている。

参拝して左側の社務所に登拝の申し込みに行くと、右側に見えるテントの方で受付するように言われた。「ささゆり園」が開園中の土曜日とあって、いつもより人出が多いようだ。記帳を済ませ鈴の付いた襷を掛けてお祓いをする。

注連縄を潜って神域に入ると後は撮影禁止。9時15分入山、無事に登拝を終える。今日は予想通り登拝者が多く、下山の時には20人を越す団体を始め続々と登ってくる人に出会った。11時に下山。 襷を返すと、神官から「お山で見たことは決して口外しないように」と厳しい顔で言われた。何度も来ているが、こんなに真剣に言われたのは初めてだった。

狭井のご神水を頂いて喉を潤し、山辺の道を横切って大美和ノ杜へ。池畔の育成地のササユリは、今年は期待に反しポツポツ咲いているだけだった。展望台から三輪山を振り仰ぎ、大和平野に浮かぶ大和三山や金剛山地の眺めを楽しんだ。

今度は上の道から祈祷殿前に帰り、ささゆり園に入る。大神神社の摂社・率川(いさかわ)神社で毎年6月17日に行われる三枝祭(さいぐさまつり)は別名を「ゆりまつり」と呼ばれる。この神事は、文武天皇の大宝元年(701)制定の「大宝令」に既に国家の祭祀として規定されている。率川神社の祭神ヒメタタライスズヒメノミコトが三輪山麓の狭井で育ったことから、当時そこに咲いていたササユリの花でお供えの酒樽を飾る習わしが今も続いている。

近年になって大神神社周辺にササユリを再生する試みが行われ、現在では約2000本といわれるササユリが生育されている。

16日の奉献神事を前に、今年はちょうど満開の時期に来ることができた。

ゆっくりと周回路を巡って、今日の三輪山登拝を終える。


私の関西百山(65)獅子ヶ岳

2014-06-14 07:08:43 | 私の関西百山

65 獅子ヶ岳(733.3m) <紀伊山地東部>
(ししがたけ)志摩半島の先端に横たわる度会(わたらい)山地にある。山名は「頂上近くにある大岩が獅子に似ているからという説が一般的だが、地元ではシシ=猪ではないかともいう。手軽に登れる低山だが、眺望がよいので人気がある。登山口は注連指、小荻、日の出の森などにあるが、私たちは注連指(しめさす、度会郡度会村)から登った。

注連指口からしばらく走った登山口の道標のある所から、細い林道を沢沿いに約15キロ道幅が始めて広くなる終点まで車を進める。杉林の中、谷川の右岸を行く道は下草が生い茂り、やや荒れた感じがする。ゆるい登りで小さな堰堤の横を何回か通り、30分ほどでやっと沢を渡って山腹の道に取り付く。ここからは稜線に向かって急なジグザグの登りになる。いままでイライラするような道だっただけに却って爽快な感じがする。ブナ、クヌギ、カエデなどの広葉樹林の中に松が散在する落ち葉の道である。

やがて右手前方に主稜線が、見上げるばかりに高く見えてくる。

「頂上まで1270m」の標識があり、マジックで「標高差330m」と書き加えてある。かなりの急登で、ジグザグを繰り返しながら急速に高度を稼ぐ。山腹を捲くようになり、青みがかつた岩が散在する道を行くと、小萩からの道と合して西へ折れる。最後の登りもブナ、アセビ、シキミなどの灌木を頼りにする急登。灌木帯を抜けると頭上が大きく開け、大きな平らな岩が横たわるところに出た。

獅子ノ岩である。振り返ると山の向こうに島を点在させた海が光っている。紅葉の山肌が美しいピークが岩稜のすぐ上に見える。滑りやすい急坂を登り、登山口から休憩なしの1時間20分で頂上に着く。

灌木に囲まれた小広場で、展望はもう一つ。とくに西の高見山地の方は木に遮られて見えない。

獅子岩に降りて大展望を楽しむ。頂上では見えなかつた局ヶ岳の鋭鋒を懐かしく望む。伊勢湾から五所ヶ湾に続く海岸線と町や村が、山並みの向こうにぐるりと見回せる。ゆっくりと贅沢な時間を過ごし、来た道を下る。予想通りに、下りには早い道だった。

【コースタイム】:注連指林道終点S10:35…沢を離れる11:00…頂上11:55~12:35…獅子岩1240~13:05…林道終点13:55 (1996.11.16)


昔の人の知恵・工夫

2014-06-12 08:46:45 | 矢田だより

奈良県立民俗博物館(大和郡山市矢田町大和民俗公園内)では6月15日まで、春季企画展「なに?なぜ 昔の道具を知ろう」が開催中です。

室町時代、江戸時代から昭和まで、いろいろな道具に込められた昔の人たちの知恵の数々が展示されています。

これは江戸時代の唐箕(とうみ)。上から脱穀したもみを入れて、下のハンドルを回して風を起こし籾殻を吹き飛ばして、選別します。ここには3台展示されています。

手前は昭和30年代まで現役で使われていた唐箕、奥は上の写真と同じ江戸時代のものです。 

常設展示室の唐箕。人形を使って作業の様子を再現しています。手前には内部の図解もあり、昔の農作業の様子がよく分かります。

時を知る道具。左は江戸時代の和時計 

上の和時計の文字盤部分。世界でも珍しい日の出、日の入を基準にした昼夜の長さの違う「不定字法」を採用しています。

その名もハイトリックという、明治時代の機械式ハエ取り器です。ゼンマイで砂糖水を縫った円筒をゆっくり回転させて、とまったハエを自動的に取り込むようになっています。

色んな柄杓(ひしゃく)。左のヒョウタンの柄杓は初めて見ました。

照明器具の数々。左端は時代劇でお馴染みのガンドウ。右の家紋入りの提灯は我が家にもありました。

瓦燈(がとう)。室町時代の土でできた照明器具です。

豆腐篭、岡持ち、豆腐箱。食べ物を入れたり、運んだりするのにも工夫が凝らされています。
その他、様々な「昔の道具」が展示されていて中には子供の頃に実際に使った道具もあり、とても興味深く懐かしく鑑賞しました。

常設展示室では「大和のくらし」を奈良盆地、宇陀山地、吉野山地の三つの地域に分けて、それぞれの産業を紹介しています。これは「吉野山地の林業」の一場面

これは「奈良盆地」の稲作の展示。実は変愚院はこのウシくんが大好きでなのです。「なんのために牛を飼っていたのか」というクイズのパネルがあり「1.食べるため、2.牛乳をとる、3.農作業に使う」という選択肢でした。鼻にピアスのような木の輪を嵌めて重いスキを引いていた牛の姿は、河内に住んでいた子供の頃、田植え前に当たり前の風景でしたが、最近は全く見られなくなりました。いろんなことを思い出して、ちょっと感慨にふけったり、有意義なひと時を過ごして博物館を後にしました。


梅雨空・大和民俗公園(2014.06.10&11)

2014-06-11 18:02:48 | 今日の大和民俗公園

どんよりした梅雨空から時々、明るい日差しが射しこむと木陰が恋しい昨日今日、朝から大和民俗公園を歩きました。

梅林でまだ収穫されない実がほんのり紅をさしています。

こちらはロウバイの実

菖蒲園の通路が整備されて、今年の花は例年より少ないのですが上部の「花の谷」でも楽しめます。

菖蒲園入口のキンバイカ

薄紅色のササユリも次々開いています。

色とりどりのダリア

ヒツジグサ。今年はヒョウタン池の方はさっぱりですが、公園西側の日だまり広場前の池一面に群がり咲いています。

素晴らしい芳香を放つタイサンボクに見送られて公園を後にしました。


私の関西百山(64)朝熊ヶ岳

2014-06-11 05:29:01 | 私の関西百山

 64 朝熊ヶ岳(555m) <紀伊山地東部>
(あさまがたけ)伊勢志摩両国の境に位置し、神宮の鬼門鎮守、また死者の鎮魂の場とされた信仰の山である。「伊勢に参らば朝熊をかけよ、朝熊かけねば片参り」と言われ、低山ながら日本名山図会にも描かれた。ついでながら、深田百名山には標高が低いことを理由に、千葉県の鋸山とともに選ばれていない。一等三角点は最高峰の経ヶ峰山頂より西650mにある。

伊勢参宮を済ませて伊勢志摩スカイラインに入り、金剛証寺の駐車場に車を置く。本堂に参詣しての奥の院への道を進むと大きな冠木門があり、「八大竜王・経ヶ峰参詣道」という背の高い標識と近畿自然歩道の道標が両側に立っている。

ごろごろした小石の転がる急坂と、勾配のやや緩い道が二度ほど交差すると左100mで経塚群、直進は岳道を示す道標がある。この岳道は古くからの金剛証寺への参詣道で、峠までは各山麓の村からいくつかの岳道が通じている。やや遠まわりになるが経塚群を経て行く。

短い急登で林を抜けると、「国史跡・朝熊山経塚群」の柱が立ち、枯れたススキの穂の中に五輪塔や多宝塔などさまざまな形の石塔が散在している。この冬の枯れ野の風景は、あまりにもうら寂しく、もの悲しく、不気味でさえある。野原を抜けた先で交差する車道は、頂上のすぐ下まで達している。

山道は急坂ではあったが、ひと頑張りで竜王社の建物横に出た。回り込むと広場になった山頂で、並んだ鳥居の奥に八大竜王社、その西側に山頂碑が立っている。地元有志の浄財によるもので、正面に「朝熊ヶ岳山頂」、右側面にこの場所の緯度経度と標高、左側面には「一等三角点は直線で西650m」にあることが記された、赤色石製の立派なものである。広場の反対側には無線中継所の建物と電波塔がある。ベンチに腰を下ろし、東に拡がる伊勢湾を見下ろしながら午後のコーヒーを楽しんだ。

一等三角点まで往復する。広場西側の小径を下っていくと舗装路と合流して、すぐまた林の中に入る。クロモジ、サカキ、アカガシなどの林の中で、下草にはウラジロが多い。再び舗装路に合流したところはT字路になっていて、右手から「朝熊岳道」が登ってきている。

ここが朝熊峠で「二十二丁」を示す町石とお地蔵さん、その上が台地には竹製のベンチが置いてあり、北側の展望が大きく開ける。

湾に流れ込む河口や点在する近くの町が見えたが、帰ってから調べてみると、川は五十鈴川で二見ヶ浦辺りの景色のようだった。西へ続く宇治岳道を進む。所々で古い石垣に囲まれた森もあり、内宮から続く道と聞くと、思いなしか神々しい雰囲気が漂う。電波塔の立つ小広場にでて、その先は下り道になる。

♀ペンが右手の小高い処に登って三角点を見つけた。一等だが無展望で殺風景なので、記念写真を撮ってすぐ引き返した。帰りは舗装路を辿ってみたが、思ったより登り甲斐があった。アサマリンドウの花はここで発見されたそうだが、アサマツツジの名札を付けた樹もあった。分岐にきて右の地道をなだらかに下ると、経塚群分岐で登って来た道と合流。後はあっという間に、冠木門に帰る。奥ノ院にも参詣して車に帰った。

【コースタイム】金剛証寺駐車場13:33…冠木門13:43…経塚群13:55…朝熊ヶ岳山頂(555m)14:05~14:20…朝熊峠14:30~14:35…三角点14:40~14:45…分岐15:00…極楽門15:13…奥ノ院15:20…金剛証寺駐車場15:45  (2009.01.20)


私の関西百山(63) 玉置山

2014-06-09 08:36:01 | 私の関西百山

63 玉置山(1076m) <大峰山脈>
(たまきやま)別名・沖見嶽、舟見山 大峰山脈の最南部にある信仰の山である。別名の通り、山頂からは熊野灘を望むことができ、三角点横の祠に沖見地蔵が安置されている。また山頂から南東へ延びる尾根を約45分辿ると宝冠ノ森がある。ここは一時、南奥駈道最後の行所と言われていた。これは江戸後期に入って逆峰が一般的となり、玉置山から本宮までを歩かずに玉置山から竹筒に出て、北山川を舟で新宮に下ることが多くなったためである(森澤義信氏『大峰奥駈道七十五靡』)。(写真は山頂より宝冠ノ森)

山頂を南に下った山中の台地に、杉の大木に囲まれた玉置神社が鎮まっている。神社と山頂との間には山名の由来になったと考えられる玉石神社がある。

玉置神社は十津川郷の総氏神であり、熊野権現の奥の院とされている。周辺の原生林は神域として伐採を禁じられてきたので、樹齢千年といわれる神代杉をはじめ巨大な老杉が残されている。

十津川村折立から玉置神社へは古くから参詣道があった。現在は神社の駐車場まで林道を車で上ることができる。私たちも何度かこの道で安直に登った。駐車場から山頂までは30分強である。社務所の前から頂上へは階段状の道が続く。冷気の漂う杉林の中の急坂を登ると、20分程で玉石杜、三石社の横を通り三角点のある頂上である。マイクロウェーブの鉄塔があるが、広い草原状台地の反対側なので視界の邪魔にはならない。

2005年6月、奥駆山行最終回で玉置神社に泊めて頂いた。朝食後、井上宮司さんの説明で重要文化財の襖絵を見学させて頂く。狩野派の絵師による花鳥図は華麗で、よく保存されていて色鮮やかである。三柱神社で祝詞とお祓いを受けた後、杉林の中を玉置山山頂へ登る。

熊野灘は見えなかったが、遠く雲海に浮かぶ山々、近くは濃緑の宝冠ノ森があるピークと、胸のすくような爽快な眺めであった。この日は大森山、五大尊岳、大黒天神岳を経て夕刻、熊野川の畔に下り、吉野から140㎞に及ぶ奥駈道山行を終えた。

2006年11月、宝冠ノ森を訪ねた。山頂からシャクナゲの林を下ると左は花折塚へ右は玉置神社への道を分ける十字路で、勧業山の碑と大きな案内図がある。直進してなだらかに登るとミズナラやアセビの茂る1064m峰で、これを下った鞍部から登り返して1057mピークに立つ。二股に分かれた道を左に行くと100mほどで見晴らしの良い絶壁の上にでた。中八人山から笠捨山、蛇崩山、西峰に続く山々が一望され、右下に目指す宝冠ノ森が紅葉の山肌を輝かせている。分岐を右に行くと急坂の下りになる。大きな一枚岩に鎖が下がっている処を下りきるとキレット状になり、少し登り返すと美しいブナやミズナラの林の中に入る。大きな岩の上に碑伝が打ってあるところが宝冠ノ森である。少し先の断崖の上からは先程見た山々と、蛇行する熊野川が望めた。行所に帰り、手を合わせ般若心経を唱えた。


私の関西百山(62) 牛廻山

2014-06-07 00:00:01 | 私の関西百山

62 牛廻山(1206.5m) <大峰山脈>

(うしまわしやま)奈良県吉野郡十津川村永井から西川沿いに東へ、国道425号線が和歌山県田辺市の竜神温泉に通じている。この「十津川往来」が両県境を越すところを「牛廻越え」という。また十津川村平谷からは上湯川に沿って龍神村丹生ノ庄に抜ける道がある。この道が両県境を越える辺りは「引牛越え」と呼ばれる。いずれも、両村の間で成牛、仔牛などの交易が行われた名残りという。牛だけでなく、紀州と和州物資交流の道、高野山と熊野を結ぶ信仰の道でもあった。牛廻山はこの二つの峠の間にある。

私たちが登ったのは1997年の丑年で、「干支の山」にちなんで登った。十津川から425号線を西に25キロ、十津川村最奥の迫西川の集落を過ぎて県境が近くなる辺りが「牛廻越え」、峠の地蔵が立つところが蟻ノ越である。大峰南部から熊野に続く山々が紫に霞んでいる。急勾配の林道を南に歩く。牛廻山はこの尾根とほぼ直角に交わる別の尾根(蟻ノ越からさらに北へ続く県境尾根)との交点のすぐ西の隆起である。尾根上の古い登山道に登り、山腹を捲くと1177mピーク。ここが二つの尾根の交差点で登山道は右(西)に直角に折れる。のんびり尾根道を歩き、ゆるく下ったコルがヒヨキノタワで小さな石の導き地蔵さんが立っている。しばらく先で左に小径を辿ると、あっけなく展望のない頂上に着いた。(蟻ノ越10:45 … ヒヨキノタワ11:10 … 牛廻山11:25)

ここから竜神へは踏み跡に近い道になる。イバラのからむ植林帯を抜け大峠山を越す。密集した丈の高いヤブを漕いでいくとミノ又山である。南斜面の倒木帯を過ぎるとなだらかな大久保山。ここから林道と登山道が何度か複雑に交差する。赤テープに助けられながら植林帯の急坂を下り、小又川に架かる橋を見たときは、間違いなく目的地に着けたと正直ほっとした。(牛廻山 12:30 … 大クボ山14:05~14:15… 小又川 15:30)


私の関西百山(61) 笠捨山

2014-06-05 08:47:50 | 私の関西百山

61 笠捨山(1352m) <大峰山脈>

(かさすてやま) 三角点のある西峰と、マイクロ反射板の立つ東峰からなる双耳峰である。「笠捨」の名は山の形状から来たものと想像していたが、「西行法師があまりの淋しさに笠を捨てて逃げた」ことが由来という十津川の昔話があるという(森澤義信氏『新日本山岳誌』)。また、『大和名所図会』には「千種岳に至る、一名仙嶽といふとぞ。また笠捨山ともなづく姥捨山に連なるをもって名とするなり」とあるが、姥捨山とは現在のどの山か、また「笠捨」とどう関連するのか、私にはよく分からない。別名・千種岳、仙ヶ岳

2005年梅雨入りの日にJAC奥駆山行で笠捨山を通過した。貸切バスで浦向から425号線を上って未舗装の四ノ川林道に入り、登山口に来る。行仙小屋への補給路となっているジグザグの山道を登ること50 分で稜線の行仙小屋に着き昼食。午後は何度かアップダウンを繰り返して笠捨山西峰に立つ。新しい神仏の石碑と二等三角点があった。行仙小屋から1時間半だった。この日は笠捨山から玉置山へ、さらに5時間、雨中の縦走を続けた。

笠捨山から古屋宿間の奥駈道は江戸時代には現在の稜線通しの道でなく、笠捨山から熊谷ノ頭を経ていったん上葛川に下り、ここから古屋宿に登り返していた。(森澤氏『大峰奥駈道七十五靡』)2006年11月、森澤氏をリーダーとするJAC例会でこの江戸道を登った。

上葛川の民宿で一泊、葛川対岸の斜面に付けられた道を登る。支尾根にでて西側山腹をトラバースして稜線を東側に乗越す。

展望が開け、熊谷ノ頭や蛇崩山が見える。1040mピークを越えて壊れた作業小屋のあるコルに下り、丈の低い笹原の斜面を右手の樹林帯に沿って直登すると熊谷ノ頭である。

右に延びる尾根上の蛇崩山へ寄り道(往復45分)したあと、左の笠捨山へ。緩やかなアップダウンから傾斜が強まり、露岩の散らばるピークを越して行く。最後は笹原の中の胸を突くような急坂を登ると、笠捨山東峰の広場に飛び出した。

釈迦ヶ岳から奥駈道が通る山々がこちらに向かって続き、七面山、中八人山も霞んでいた。狭い西峰から南へ歩き…



槍ヶ岳への登りにかかる手前の葛川辻で奥駈道を離れ、上葛川に向けて下った。


私の関西百山(60)釈迦ヶ岳

2014-06-03 16:11:56 | 私の関西百山

60 釈迦ヶ岳(1800m) <大峰山脈>

(しゃかがたけ)弥山を中心として、北の山上ヶ岳とほぼ等距離の南にある。1799.6m、一等三角点の山頂は大展望で知られ、吉野郡名山図誌によれば「常に雲霧起り晴日まれなり。晴れれば頂上より…(西は紀州の海から四国)…・東は伊勢、尾張、駿河の海を望み、晴天のあした日いまだ出ざるの頃駿河の富士山海中に見ゆ」という。山頂にある釈迦如来の銅像で知られるように、古くから釈迦如来が祀られていた。昔は金の如来像が釈迦堂に安置されていたという。この山の南にある神仙ノ宿は修験道の重要な聖地で、これより北は蔵王権現の支配する金剛界、南は熊野権現の胎蔵界になぞらえた大峯の中心とされてきた。従ってこの山には、多くの靡き(行所)が点在している.

釈迦ヶ岳へは三つの登山道が利用できる。最も簡単には十津川側からの旭ダム近く、不動小屋谷林道の登山口から登る。1999年7月31日、二人でこのルートから初めてこの山に登った。

登山口からは斜面に刻まれた階段を登って樹林帯に入り、熊笹の間に開かれた道を行く。倒木や岩上の苔が鮮やかな緑を見せる中を歩き、旭林道登山口からの道と合流すると、美しい笹原が続く尾根上の一本道になる。この日は霧が深く、『美しいブナ林の中を通る。…大木の梢が霧に見え隠れし、立ち枯れた木がほの白く浮かぶ夢幻的な光景。鳥の声一つしない静けさは怖いほどだ。』と山日記に書いている。

深山堂の標識がある平地から少し登ったキャンプ場を過ぎる頃から細かい霧雨になった。水場を過ぎ、ようやく山らしい登りになるが、それもしばらくで呆気なく奥駆けの縦走路に出る。峠の反対側へは「前鬼へ140分」の道標がある。左へ山頂を目指す。道標に記された10分はかからず無人の山頂に着く。ここに立つ青銅の大釈迦像は地元のガイド・岡田雅行が大正14年に一人で担ぎ上げたという。台座の彫刻も立派なものだ。その苦労を忍びつつ、しばらく無展望の山頂にいたが、雨が激しくなったので同じ道を下山した。

2006年5月26日、千日山歩渉会(17名)とJACのU君パーティ(4人)合同で登った。登山口が林道の奥になり、立派なトイレや駐車場も設けられていた。スズタケの中の切り開きの急坂を過ぎると、薄暗い林の中でシャクナゲが美しく咲いていた。旧登山口からの道と合流して緩やかな起伏をいくつか越えていく。あとは古田の森、千丈平と前に歩いた道である。カクシ水の水場から少し急坂を登ると奥駈道に合流した。

あとは露岩の道をひと登りで釈迦ヶ岳山頂に着く。この日も残念ながら雲の中で、展望は殆どなかった。お釈迦様に手を合わせ、オオミネコザクラを見に行く。

孔雀岳の方へ奥駈道を少し下ると、可憐な花が数株、山肌にすがりつくように咲いていた。ハクサンコザクラに似ているが、ずっと小型の可愛い花である。近くにはヒカゲツツジも咲いていた。風に揺れる花の写真を撮って頂上に引き返す。

この日は、釈迦ヶ岳の東南に聳える大峯三五番行所の大日岳にも登った。鎖のある一枚岩を登る修行道だが、捲き道もある。
 奥駆
道を深仙ノ宿に向かう。滑りそうな溝状の道を降り、お堂の前で目の前にそそり立つ大日岳を眺めながら二度目の昼食。しばらく奥駈道を南に歩き、聖天ノ森の分岐で東に行く。アカヤシオやアケボノツツジが新緑と美しいコントラストを見せている。五角仙の大岩を過ぎてコルへ降る。ここが大日岳の基部になる。三三尋(約60m)と言われるフェイスには鉄鎖が下がっている。大人数なので、万一のことも考えて捲き道をとることにした。それでも最後は結構、面白い登りで全員が通過するのに時間がかかった。

大日岳(1540m)頂上にはブロンズの大日如来が安置されている。狭い頂上は樹木に囲まれているが、北側が開けて釈迦ヶ岳から孔雀岳へ続く稜線、五百羅漢の岩峰群が美しく望めた。

逆峯(吉野から熊野へ)で奥駆けした折は、孔雀覗きから見た十六羅漢、五百羅漢などの岩峰群や、最低鞍部から見上げる鋭三角形の山容が見事だった。

最も印象に残るのは東山麓の前鬼(三重滝の裏行場がある)の宿坊・小仲坊に泊まり、両童子岩を見ながら太古ノ辻に登った時である。ちょうどシャクナゲの時期で、緑の山肌がピンクの模様で染め上げられた美しさは幻のようだった。

 


私の関西百山(59)八経ヶ岳

2014-06-01 07:36:32 | 私の関西百山

59 八経ヶ岳(1915m) <大峰山脈>

(はっきょうがたけ)別名・八剣山、仏教ヶ岳。大峰山脈の中央部、弥山の南側にある。大峰の盟主であり、近畿地方より西(本州)の最高峰である。山頂に役行者が法華経八巻を埋めたといわれ、奥駆第五一番行所となっている。弥山から八経ヶ岳、明星ヶ岳にかけてはシラビやトウヒの原生林が多く、また弥山と八経ヶ岳の鞍部周辺には「天女の花」オオヤマレンゲの自生地があり、天然記念物に指定されている。

八経ヶ岳は現在こそ登山者の人気が高いが、古くは弥山を中心とした「山上」の一高所で、弥山に比べるとそれほど重要視されていなかった。例えば『吉野郡群山記』では『弥山の記』で釈迦ヶ岳から弥山への道(大峯通り)を記す中で、「鉢経 弥山辻にあり。道、左右に分かる。右(東)、山に登れば弥山に至る。左(西)、山を下れば川瀬村に出る。その分れる辻に金剛童子の小社あり。」と記載されているだけである。記述の中心はあくまでも「弥山」で、山の様子、宿の紹介、弁財天奥社、伝説まで詳細に記している。現在でも両山の位置関係などで、殆どの場合は弥山とあわせて登ることになる。

1970年代に山友達と二人で弥山谷を遡行したことがある。桟道や橋の崩壊箇所が多くて体力を費やし、双門ノ滝を見上げるところまで登り、引き返した。

1994年7月10日、オオヤマレンゲを見るのが目的で、妻と登った。前日、玉置山に登り、天川村川合の弥仙館に泊まる。夕食には鹿の刺身、鮎の塩嫉き、岩魚の天ぶらなどが出た。天然クーラーが効きすぎて寒いほどの部屋で、川の音を子守歌にぐっすりと眠った。7時前に着いた行者還トンネル入口駐車場が、すでに林道にまで車が溢れているのに驚く。尾根に向かって直登する。シャクナゲの木が多く、その枝や根を手がかり、足掛かりに使わせてもらう。休まずに一歩一歩高度を稼ぎ、笹原に出ると勾配もゆるまり、奥駆道の通る稜線上に出た。尾根道を緩く登って1600Mの三角点を過ぎ、いったん下って平坦地に出る。ブナの大木が多く、草地の中のなかなか気持ちのいい所だ。

 (聖宝宿跡・2008年7月)

理源大師の青銅像のある聖宝宿跡からいよいよ聖宝八丁の登り。

結構長くて厳しく、とうとう立ったまま足を休める。ふと見ると道の脇にオオヤマレンゲの白い花が、夢のように浮かんでいた。草原のなかの弥山小屋は新しい棟を建築中で、他に二棟があり、道に面した方に皇太子が泊まられたそうだ。よくこんな所にと同情するほど、雨露を防ぐだけといってもいいくらいの粗末な小屋だ。

鳥居を潜って、小屋裏の高みにある神社へ参る。天川弁才天の奥の院だ。八経ヶ岳へは小屋の前から、コメツゲの目に染みるようなグリーンの中をいったん下る。

下りきったところは古今の宿跡で、オオヤマレンゲの群生地である。幻の花と言われ、天女の姿にもたとえられる清楚な白い花が、蕾から半開、満開、落花寸前のものと様々な姿を見せている。

ゆっくり登ると、案外簡単に1915M、近畿最高峰の頂きだった。南に仏生ヶ岳から釈迦ヶ岳へ続くスカイラインが鮮やかに、北の大普賢から東の大台の方は雲のベールを被って見えた。

2004年10月、JACの山友と新しくなった弥山小屋で一泊し、頂仙岳から八経ヶ岳へ巡った。

聖宝八丁の道はなだらかな新道に変わり、旧道と合流した後も幅広い木の階段や鉄梯子で歩き易くなっていた。しかし、酸性雨の影響か弥山の縞枯れ現象は一段と目立ち、オオヤマレンゲ自生地にはシカの食害を防ぐためのネットが張り巡らされていた。ただ、山頂からの大峰、台高の大展望だけは昔と変わらず、雄大そのものであった。

 2008年7月

2005年4月のJAC奥駆道山行では行者還トンネル東口から登り、一ノ垰(タワ)から奥駆道を南下、弥山小屋で一泊。八経ヶ岳から、激しい起伏の連続する大峰山脈の稜線を釈迦ヶ岳へ。そして修験集落・前鬼に下っている。歩行距離27キロ、二日目の所要時間は12時間に及んだ。

また2008年7月にはやはりJAC自然保護委員会主催の大山レンゲ観察会で歩いた。この時は前夜、弥山小屋に泊まり、7時半、八経ヶ岳に登頂。明星ヶ岳、日裏山、栃尾辻を経て14時、坪ノ内に下山している。色んな思い出のある近畿最高峰である。