ペンギン夫婦の山と旅

住み慣れた大和「氷」山の日常から、時には海外まで飛び出すペンギン夫婦の山と旅の日記です

柿の収穫(11月20日)

2009-11-21 14:20:39 | 花日記
竜田大社から帰って、今年二度目のカキをもぎました。



ちょっと痛んだのもありますが、8キロ近い収穫。



それでも、まだまだ枝に残っています。たった一本の木なのに今年は大豊作。
真っ赤に熟した実は鳥さんたちへのプレゼントです。



このセンリョウの実も小鳥たちの大好物です。



マンリョウの方がたくさんあって美味しそうなのに、何故か小鳥は好みません。



このナンテンの実もよく食べられてしまいます。



サザンカの花は、次々に咲いては散っています。
我が家の庭も次第に淋しい冬景色に変わっていきます。

紅の竜田大社

2009-11-21 14:12:10 | 旅日記
竜田川の紅葉を見た後、三郷町の龍田大社に行きました。



広い駐車場の周りも、燃えるような真っ赤な紅葉です。
龍田大社は、崇神天皇の時代に凶作が続き疫病が流行したので、天皇が
祈願したところ、「天御柱命・国御柱命の二柱の神を龍田山に祀れ」という
夢のお告げによって創建されたといわれます。



玉垣にも鳥居の扁額にも「龍田本宮」の文字が見えます。
斑鳩町にもここと同じ崇神天皇創建の龍田神社があり、法隆寺の鎮守社と
されていました。しかし、明治の廃仏毀釈で、この本宮の摂社となっています。
(大正以降は独立して現在は県社の格)



モミジやカエデの樹に囲まれた広い境内のを拝殿に向かいます。
玉砂利を踏んで進むと左手に手水舎、右手には社務所があります。
(写真は社務所横のカエデ)



参道の突き当たりに入母屋造の拝殿が建っています。



拝殿の吊り灯籠。珍しい木製でモミジの葉が彫られています。



ここから本殿を拝みました。
龍田大社は「風神様」とされていて、日本書紀天武天皇紀に「4年(675年)
4月10日に勅使を遣わして風神を龍田に祀らせた」の記事があります。
この辺りはかって、風の通り道だったのでしょうか?



拝殿右手からの写真。垣の中にいくつかの摂社が見えます。
拝殿左手には白蛇を祀る白瀧神社、赤い幟が並ぶ龍田恵美須神社、三宝稲荷
神社があります。それぞれのお社にもお詣りしました。



上の写真を取った場所の横に、高橋虫麻呂の万葉歌碑があります。
「島山を い行き巡れる 川沿いの 岡辺の道は 昨日こそ わが越え来しか
一夜のみ 寝たりしからに 峰の上の 桜の花は 瀧の瀬に 散り落ちて流る
君が見む その日までには 山おろしの 風な吹きそと うち越えて 
名に負へる社に 風祭りせな  万葉集巻九・一七五一」
この歌からも、龍田の神は風神であったことが分かります。

ゆっくり参拝を終えて、龍田神社をあとにしました。

竜田川の紅葉(11月20日)

2009-11-20 17:11:45 | 旅日記
近くの斑鳩町にありながら、これまでゆっくり眺めたことがなかった
竜田の紅葉を見に行きました。



まず竜田川の東側高台に登って、道幅の広いところに車を置きました。
美しい紅葉の間に信貴山が見えます。
背後には山を切り開いて、すぐ近くまで新しい住宅地が迫っています。



竜田川へ向かって遊歩道を下ります。明日からの連休で催しがあるらしく
準備が進められていました。
正面に見えるこんもりした丘は三室山です。
「嵐吹く 三室の山のもみじ葉は 竜田の川の錦なりけり」 能因法師
「竜田川 もみぢ葉流る 神なびの みむろの山に 時雨降るらし」詠み人しらず



「千早ぶる 神代も聞かず竜田川 から紅に水くくるとは」 在原業平



紅葉橋を渡り、対岸に見える遊歩道で車に帰り、三郷町の竜田大社へ向かいます。

今井町並みウォーキング

2009-11-18 17:32:46 | 旅日記
冷たい雨の降りしきる中、今井町の街並みを見て歩きました。



東西約600m、南北310mの環濠集落の中は伝統的な街並みが保存され、まるで
江戸時代にタイムスリップしたような感じです。
現在8軒の民家が重要文化財に指定されています。



この町は戦国時代天文年間に一向衆の門徒・今井兵部豊寿がこの地に御坊を
開いて、外濠を巡らせた自衛都市としたことに始まります。
町の中心となったその御坊・称念寺。明治10年、天皇が畝傍御陵に行幸の折
には行在所になりました。



天正3年、今井氏は織田信長に降伏、その後は大坂、堺との交流を深めて
「大和の金は今井に七分」「金の虫干し玄関まで」といわれるほどの商業都市
として栄えました。
 各家の外壁にはその家の家紋が掲げられています。
この豊田家は藩の蔵元で大名貸しなども行う豪商でしたが、もとは「西の木屋」
と呼ばれる材木商だったので「丸に木の字」が彫りこまれています。



荷を運んできた牛馬を店先につなぐための「駒つなぎ」。
牛用と馬用で高さが違います。町なかには最近のものらしい「犬つなぎ」も
見ました。



今井町で一番古い今西家。八ツ棟造りという民家というよりも城郭のような風格
の建築です。
今西家は十市氏(竜王山城主)の一族で代々、今井町の総年寄(司法権、警察権
をもつ)を勤めました。



今井まちや館。
明治以降は空き家で老朽化していましたが、18世紀初期の建築で貴重なもので
あることが判り、現在は資料館として公開されています。



まちや館内部。一階の「しもみせ」。
「帳台構え」は「おうえ(なかのま)」・「なんど」の境にあり、周りの敷居が
高くなっている場所をいいます。「敷居が高い」の語源になっています。



旧米谷家住宅。18世紀中期建築で「米忠」という屋号の金具商でした。
屋根の上の「煙出し」は、屋内での煮炊きの煙りを外に出すためのものです。
今の換気扇ですね。



そのカマドです。



そのお隣の音村家住宅。17世紀後期建築(右の旗が立っているところが旧米谷家)
煙出し口の向きにご注目ください。このように道路の方を向いている様式の方が
古いそうです。



軒下に杉玉を吊っていることからわかるように河合家は屋号を「上品寺屋」と
いう造り酒屋さんです。
屋根はこの東側が入母屋造りですが、西側は切妻という珍しい形式です。



一階の太い格子窓と、二階の防火用の白漆喰の塗籠(ぬりごめ)が特徴です。
「むしこ窓」は明りとりと通気窓の役割をします。これまでの写真でも色んな
形の「むしこ窓」がありましたが、河合家のものは家紋で看板を兼ねています。

今井町の重文の民家は、旧米谷家の他は全て現在も日常生活をされています。
楽しみにしていた今西家住宅が、この日は公開されていなかったのは残念でした。


雨の橿原ウォーキング(11月17日)

2009-11-17 19:33:07 | 旅日記


今朝は冷たい雨で明けました。
矢田地区社会福祉協議会と老人会(どちらにも入っていませんが…)共催の
行事「今井町と橿原神宮ウォーキング」に参加しました。
 今井町は江戸時代の町家の面影を今に残す「重要伝統的建造物群保存地域」
です。



虫籠(むしこ)窓、煙出し、様々な格子など特徴のある建築様式が残されて
います。



2時間ほどの見学を終えて、畝傍御陵をへて橿原神宮へ。
拝殿の後ろの山は大和三山の一つ畝傍山(199m)です。



広い休憩所の屋根の下でお弁当を頂いて、参拝を済ませて、カモくんの泳ぐ
深田池の畔を歩いてバスに帰りました。今日の歩数計=11,161歩
一日中、冷たい雨の中のウォーキングでしたが、久しぶりに会った友人との
語り合いも楽しい行事でした。

スタートの日と登頂の日(11月16日)

2009-11-15 18:55:24 | 過去の今日
ヒマラヤ・トレッキングには都合4度行きましたが、そのうち2度がエベレストを見るためのクーンブ地方へのトレッキングで、いずれも11月です。
この時期を選んだのはポスト・モンスーンで、山がとりわけ美しく見えるためです。

1999年のこの日はエベレスト展望の峰・カラパタールに向けて、トレッキングを開始した日でした。
カラパタールはエベレストBC(ベースキャンプ)へ道、いわゆるエベレスト街道より少しそれたピークで標高5545m。世界最高峰・エベレストを間近に仰ぐ展望台として知られています。
このときのパーティは私たち夫婦と若い山の後輩二人。手配旅行の気ままな旅でした。
私たちにとっては二度目のヒマラヤトレッキング、そして現在までの最高到達点になりました。



ルクラの飛行場(当時、滑走路以外は未舗装)で16人乗り小型機を降りたところ。
山の斜面がせまるネコの額ほどの空き地への着陸には、本当に肝を冷やしました。



登山用具店などの並ぶ短い商店街を抜けて、トレッキングの始まり。



経文が彩色された大きな石がありました。こういう聖なる場所では必ず左側を通らなければなりません。(つまり帰りには写真右側を下ります)



初日の泊まり場・バグディン。2003年にもここに泊まっています。

さて、その2003年ですが…
11月16日はゴーキョ・ピークに登頂して間近にエベレストと対面しました。

ゴーキョ・ピークはドゥード・コシ源流のゴジュンバ氷河西側に位置し標高5,360m(一説には5,483m)。サガルマータ(エベレストのネパール名)はじめ8000m峰4座の展望台として名高いピークです。

このときはA社のツァーで客は8人。うち登頂したのは6人でした。
7時、氷河湖の畔にある最終のキャンプ地・ゴーキョを出発。



氷河を見下ろしながら荒涼とした斜面を登ります。この辺りで標高は5,000mを超えました。



最後の急斜面を喘ぎながら一歩一歩、踏みしめるように登ります。
当時の山日記から…
『一歩足を運ぶごとに、頂上にはためく五色のタルチョ(祈祷旗)が近づいてくる。右手に見えるサガルマータ(エベレスト)がぐんぐんせり上がってくる。
その頂上を隠していた雲も次第に薄れてきた。



何度も深呼吸して息を整え、ついに岩屑が積み重なった細長い頂上の最高点に立つ。私たち夫婦にとって三つ目の5000m峰だ。』



正面にエベレスト、その右はヌプチェ。



見渡せばヒマラヤの、いや世界の山の盟主を守るようにずらりと居並ぶ白銀の峰々…。「やはり来て良かった…」顔を見合わせて、心からそう思った。』
♀ペンの目が少し潤んでいるようでした。

ウズベキスタンはどこにある?

2009-11-15 09:57:13 | 読書日記
「夫婦で行くイスラムの国々」を読んでいます。
他の本に寄り道をするのでなかなか進みません。

例えば日本語創刊号から定期購読している「ナショナル・ジオグラフィック」
の今月号にシリア

これも毎月送られてくるVISAの11月号にモロッコ

本棚を整理していたら去年の8月号のナショジオにイラン



が出てきて目移りします。かんじんの「夫婦で行く…」方は全11章のうち、
序章のインドから、トルコ、ウズベキスタン、イランとまだ4ヶ国目。
結構のんびり読んでいます。



ここでクイズです。ウズベキスタンは上の地図でどこにあるのでしょうか?
(番号は変愚院が適当に付けました。1はロシアです。)

紅葉の長岳寺(11月12日)

2009-11-13 08:31:12 | 旅日記
雨は上がりましたが今日も曇り空です。
買い物のついでに「山の辺の道」沿いにある長岳寺に寄り道しました。
いつも竜王山に登るときに車を置かせて頂くのですが、拝観するのは
久しぶりです。



駐車場横にある「根上がりの松」



大門を入ってしばらく行くと、平戸ツツジの生垣に真っ白な花が二輪、
寄り添うように咲いていました。



受付を済ませ庫裏(旧・地蔵院、重文)の美しい白壁の横を進みます。
「そうめん」の字が見えますが、この時期は暖かい「にゅうめん」が
供されます。何度か食べたことがありますが、大和名物の「三輪手延べ
そうめん」の味は、(特に山の帰りは)なかなかのものです。



日本最古の鐘楼門。
824年、空海が創建した当時からの唯一の遺構です。



放生池に影を写す本堂の屋根とカエデの赤。



1783年再建の本堂には、重文の阿弥陀三尊、多門天・増長天などが
安置されています。
バスで来た団体の人たちと一緒に、住職からこれら仏像の説明を聞きました。
ちょうど秋の「大地獄絵開帳」の期間中で、続いて9幅並べて全11mの
地獄図の絵説き。
ブラックユーモアを交えて1時間弱。やや寒さを感じる説法でした。



急な石段を登ったところにある「大石棺仏」(弥勒如来)です。
このお寺の裏は竜王山に続いていて、山腹に竜王山古墳群があるほか
周辺にも数多くの古墳が点在しています。
この石棺仏はその古墳の石材を利用したものです。



ここから更に上へ山腹を縫うように八十八所の遍路道が続いています。
石仏が安置された小さな石の祠がずっと並んでいます。
前に歩いたことがあるので、今日はこの辺りから引き返しました。



今は庫裏として使われている旧地蔵院は、かって48あった塔頭で唯一
現存している建物です。
その小さいが美しいお庭を拝観して、本堂の普賢延命菩薩に手を合わせて
大門をでました。