ペンギン夫婦の山と旅

住み慣れた大和「氷」山の日常から、時には海外まで飛び出すペンギン夫婦の山と旅の日記です

「チベット二郎」先生

2010-04-30 16:18:31 | 人との出会い・本との出会い
河口慧海のチベット潜入については、そのルートが判然とせず、また内容も疑問視されることがありました。
しかし、その後の川喜田二郎などによる調査で、次第に彼の観察の正しさが証明されるようになります。
その著書「鳥葬の国」(光文社カッパブックス)は大ベストセラーとなり、もちろん変愚院も熟読したものですが、この本も手元から失ってしまいました。

川喜田二郎は「チベット二郎」(当時流行のシャンソン歌手イベット・ジローのもじり)の渾名があったほどのチベット好き、チベット文化の理解者です。
1958年、西北ネパール学術探検隊長としてネパールへ行かれた当時、大阪市立大学の文学部助教授(1950~60、60東京工業大助教授、61教授)でした。

変愚院は1回生(1955)の一般教養で「社会学」、4回生の「地誌学」で先生の講義に接しました。一回生の時はともかく、四回生では経済学部の私にとって必修単位の科目ではありませんでしたが、先生のお話を聞きたさにいつも一番前の席に陣取って目を輝かせていました。 
当時、山登りを始めたばかりの変愚院にとって、1953年(昭和28年)のマナスル登山隊員であった先生はまさに憧れの人だったのです。

今でも覚えているのは京大山岳部の仲間である今西錦司さんや梅棹忠夫さんらとの「大興安嶺探検」のお話です。太平洋戦争初期の1942(昭和17)年に、地図もない空白地帯に学生隊が足を踏み入れる。まさに「血沸き肉踊る」思いで熱心に聴講しました。

川喜田先生は有名な「KJ法」…データをカードに記述して、そのカードをグループごとにまとめ整理することで、問題点を発見したり、解決したりする発想法…の創始者です。
講義の時はリングで綴じたカードを教卓の上に置き、お話が進むにつれて一枚ずつめくっていかれます。そのカードが片側に全部移ると講義が終わるので、次第に減っていくカードの山を惜しみながら講義を聞いていました。

早く雀荘へ行きたいので、殆どの講義は上の空だったことが多い不良学生の変愚院が、これほど身を入れて聞いた講義は後にも先にもありません。
(もうお一人、後に大阪府知事になられた黒田了一先生の講義も面白くて熱心に受講しました。大雨の日、市電を待っていて先生のタクシーに同乗させて頂いた、ありがたい思い出もあります)

川喜田二郎先生は昨2009年夏、89歳でお亡くなりになりました。
改めて先生のお顔を思い浮かべながら、心からご冥福をお祈り致します。合掌