科挙が、東洋医学=中国文化のありかたに大きく影響を与えていったのではないか?との思いから、科挙の実態を知りたくて、「科挙(かきょ)」(宮崎市定著 中公新書)を読んだ。
歴史という巨大な実験の成果に学ぶことの必要性痛感した。また、古代中国文化は日本文化の原点であり源流の一つである。とも思えた。
「科挙(かきょ)」(宮崎市定著 中公新書)を読むと、先ず、科挙のスケールの大きさ、強烈さに驚く。科挙制度においては、何度も試験が繰り返されるのであるが、試験によっては、同じ試験場に一度に一万人とか二万人もの受験生が集まる。年齢も様々で、下は十代の若者から上は七十代の老人まで。
それらの受験生?が、三日二晩、独房のような部屋で泊まり込んで、自炊しながら四書五経についての問題を解くのである。その強烈さ過酷さは、幻覚を見るたり、気が狂う者。病に倒れたり、死んだりする者。果ては自殺する者まで。
何故にそこまでして!?といえば、科挙に合格して進士となれば、この世で望める多くの欲望が、富や権力が手に入れられることで、満たされるからである。
それだけに、多くの、おそらく何万人何十万人の中国人が科挙合格を目指しての猛勉強を行い、それが途中での中断があったとはいえ、千数百年も続いたのである。
結果、膨大な事実の集積と、そこから導き出されたノウハウには学ぶべきこと多々ある。と思える。これは、東洋医学の有効性と同じ構造を持つものと思える。
例えば、子供の教育について、当初は、幼くして才能を発揮?した子供に対しての早期教育が行われたが、結局は、大人のおもちゃにされるだけで将来的には大した人物になって行かないから、早期教育を行わなくなったとか、400字覚えることが出来る能力があっても、限界まで覚えさせると興味を失わせるから、200字に止める。とか。
また、暗記を行わせるのに、50回読ませて、50回暗唱させる。という方法。(読書百編意自ずから通ず。の語源?)や、「進取の気性」の「進取」の語源が、科挙に合格する=進士を取るということであったりと、日本の言葉の語源の多くが、古代中国の故事であるということを再認識させられ、古代中国文化というものを学ぶ意義というものを感じさせられた。
歴史という巨大な実験の成果に学ぶことの必要性痛感した。また、古代中国文化は日本文化の原点であり源流の一つである。とも思えた。
「科挙(かきょ)」(宮崎市定著 中公新書)を読むと、先ず、科挙のスケールの大きさ、強烈さに驚く。科挙制度においては、何度も試験が繰り返されるのであるが、試験によっては、同じ試験場に一度に一万人とか二万人もの受験生が集まる。年齢も様々で、下は十代の若者から上は七十代の老人まで。
それらの受験生?が、三日二晩、独房のような部屋で泊まり込んで、自炊しながら四書五経についての問題を解くのである。その強烈さ過酷さは、幻覚を見るたり、気が狂う者。病に倒れたり、死んだりする者。果ては自殺する者まで。
何故にそこまでして!?といえば、科挙に合格して進士となれば、この世で望める多くの欲望が、富や権力が手に入れられることで、満たされるからである。
それだけに、多くの、おそらく何万人何十万人の中国人が科挙合格を目指しての猛勉強を行い、それが途中での中断があったとはいえ、千数百年も続いたのである。
結果、膨大な事実の集積と、そこから導き出されたノウハウには学ぶべきこと多々ある。と思える。これは、東洋医学の有効性と同じ構造を持つものと思える。
例えば、子供の教育について、当初は、幼くして才能を発揮?した子供に対しての早期教育が行われたが、結局は、大人のおもちゃにされるだけで将来的には大した人物になって行かないから、早期教育を行わなくなったとか、400字覚えることが出来る能力があっても、限界まで覚えさせると興味を失わせるから、200字に止める。とか。
また、暗記を行わせるのに、50回読ませて、50回暗唱させる。という方法。(読書百編意自ずから通ず。の語源?)や、「進取の気性」の「進取」の語源が、科挙に合格する=進士を取るということであったりと、日本の言葉の語源の多くが、古代中国の故事であるということを再認識させられ、古代中国文化というものを学ぶ意義というものを感じさせられた。