散文的で抒情的な、わたくしの意見

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2020年大河「麒麟がくる」・麒麟は誰の前に現れるのか。

2019年05月21日 | 麒麟がくる
以下はNHKの広報文です。

王が仁のある政治を行う時に必ず現れるという聖なる獣、麒麟。
応仁の乱後の荒廃した世を立て直し、民を飢えや戦乱の苦しみから
解放してくれるのは、誰なのか・・・
そして、麒麟はいつ、来るのか?

若き頃、下剋上の代名詞・美濃の斎藤道三を主君として
勇猛果敢に戦場をかけぬけ、その教えを胸に、やがて織田信長の盟友となり、
多くの群雄と天下をめぐって争う智将・明智光秀。
「麒麟がくる」では謎めいた光秀の前半生に光を当て、彼の生涯を中心に、
戦国の英傑たちの運命の行く末を描きます。

従来とはまったく異なる新しい解釈で英雄たちを描く、まさしく「大河新時代」の幕開けとも
いえる作品が第59 作「麒麟がくる」です。

ここまでNHK発表。

「麒麟はいつ、だれの前に現れるのか」「仁のある政治を行い、民を上や戦乱の苦しみから解放してくれるのは誰なのか」とあります。そのことを「つらつらと」考えてみます。

1、麒麟は史実としては誰の前に現れたと言えるのか。

麒麟は想像上の動物です。麒麟ビールのラベルにある動物。「史実としては」むろん誰の前にも現れません。と言ってしまっては元も子もなくなります。
まず「仁政を行った王」とは誰かを考えてみます。

最初に予想を書いておくと「麒麟はこの作品においては光秀と信長の前に現れる」のです。光秀が主人公なのだから当然です。そして信長と光秀は「盟友」という設定です。この二人が協力し、足利幕府と朝廷を「再興」し、一定の秩序をもたらすとされるのでしょう。幕府に対しても、朝廷に対しても、その権威を重んじる信長像が描かれることは、NHKが既に発表しています。「保守的な側面を強調する」そうです。

しかし作品の設定がそうであるとしても、史実は違います。本能寺の変の後もずっと混乱は続きます。秀吉と家康の対立と和解、秀吉の統一戦、朝鮮侵略、関ケ原、大坂の陣と戦乱は続いていきます。

それをおさめたのは誰か。単純に言うなら徳川家康ですが、幕府は特に仁政を行ったわけではありません。特に初期においてはそうです。戦乱をなくしたことが「すなわち仁政」というなら話は別ですが。

では天皇はどうか。「王」は日本では「天皇」です。戦国末期の王は正親町で、次が後陽成です。むろん政治の実権は持っていません。「後陽成が徳川家康を征夷大将軍に任じ、太平をもたらした」とするのは無理があるでしょう。

幕府が多少なりとも「仁政への志向」を見せるのは、「寛永の大飢饉の後」(1642年以降)とされています。いわゆる「百姓撫育」です。飢饉が続いたのでは幕府は持たないという危機感があって、多少は「百姓を大切にしよう」という意識が芽生えてきます。

ではその時の「王」は誰か。徳川家光です。ただし実務を行ったのは知恵伊豆と言われた松平信綱ら幕閣です。さらに家光の異母弟である保科正之が幕府を支えました。

史実において「かろうじて仁政に近いことをした」のは徳川家光とその幕閣、さらに保科正之ということになるでしょう。個人的には「保科正之の前に麒麟が現れた」と私は考えます。

2、それじゃあ、作品が成立しないので。

1640年代まで飛んで、「徳川家光と保科正之の前に麒麟が現れる」では「麒麟がくるという作品が成立しない」ことになります。「裏技」を使って1643年に死んだ「僧天海が実は光秀だった」とすることは不可能ではありませんが、そういうトンデモない設定はしないでしょう。本能寺でも「変な陰謀論は採用しない」とも言っています。さらに時代考証が小和田哲男であることを考慮しても、あまりにトンデモない設定はなされないと考えられます。

また「光秀イズム」が重臣である斎藤利三に受け継がれ、その遺伝子を持った「斎藤利三の娘である春日局が徳川家光を育て、仁政を行わせた」なんてされても、「はあ」という感じになります。

「やはり麒麟は光秀の前に現れる」と考えるのが「王道解釈」と言えるでしょう。

3、ではどうストーリーを組み立てれば、光秀の前に麒麟を登場させることが可能となるのか。

従来とはまったく異なる新しい解釈で英雄たちを描く、まさしく「大河新時代」なんてNHKは言っていますが、要するに流行の新説を取り入れるということでしょう。具体的には「織田信長を天下静謐を願った保守的側面をもった人物として描く」ということです。

斎藤道三の描き方も多少は変わるでしょう。親子二代で美濃をとったとされるのは確実です。さらに「美濃の民を救うために下克上を行った」とされると思います。これは別に新解釈と言えるものではなく、従来もそう描かれてきたのですが、「民の救済」を強調することによって、新しい感じを出すのだと思います。

そもそも「個人的欲望に基づく下克上」というのは少ないのです。信玄が父を追放したのも甲斐の為、謙信が上杉の名を継いだのも越後の為、北条早雲と北条氏は「民政をいち早く取り入れた大名家」、なわけで、今までもそう描かれてきたのです。

松永久秀や三好長逸・三好政勝・岩成友通(三好三人衆)までをも「新解釈で描く」とすればたいしたもんですが、さてそこまでやるでしょうか。

話もどして「どうすれば光秀の前に麒麟が現れるのか」

これは難しいですね。「天魔信長を描かない」わけです。「光秀は僧を殺し、将軍を追放し、京を焼き、朝廷をもつぶそうと考えた天魔信長を討った」という設定に「できない」ということになります。
それどころかたぶん光秀は叡山焼き討ちに積極的に協力すると考えられます。最近の学説ではそうなることが多いのです。

今のところ「信長は天下静謐を願い、朝廷をも尊重し、乱世をおさめようとした。それに光秀は大きく協力、というより盟友として協力、つまり二人で天下静謐をもたらした」という解釈をするのだろうと考えるよりありません。

とするなら「なぜ本能寺の変は起きたのか」ということになります。何が「決定的な亀裂」を二人の間に生じさせるのか。

「四国問題」あたりを持ち出してくるのでしょうか。しかしそれは無理があります。信長の四国政策が代わり「面目を失った光秀が信長を討った」では「要するに個人的動機じゃないか」ということになるからです。しかも「陰謀論」も採用しないと制作Pが言っています。そもそも「陰謀論」というのは「あの光秀に本能寺は起こせない」という論で、光秀を軽んじるものですから採用することは不可能です。光秀の中に「主体的な動機」が存在しないければ「主人公の資格すら」なくなってしまいます。

途中で「信長が変化して」、独裁の道を歩みはじめた、なんてのも「よくある描き方」で、ありきたりです。

保守的な信長を描き、その盟友として光秀を描きながら、本能寺の変の原因を「説得力を持って描くことが可能だろうか」。なかなか難しい課題に脚本家は向き合っているわけです。すでに脚本はできているでしょうから答えは既に出ているわけですが、その答えを知るには、一年半後を待つしかありません。

それでも、一応予想だけはしておきます。流行りの「四国説」が出てくることは間違いないでしょう。ただしこれが決定的な原因とされるとは思いません。四国説はあくまで「光秀にとって都合が悪かった」という説です。ただし金子拓氏いわく四国政策段階において信長は天下静謐という大義を失ったということになるようです。なんでそうなるのか、論理的にもおかしいですし、説得力はまるでありません。そもそもこの「信長天下静謐論」というのは極めて胡散臭く、かつ「つまらない」と私は思っています。簡単にいえば「間違い」です。

麒麟がくるの光秀は、もっと大きく日本の運命を考える存在になると予想されます。となると無難に「朝廷守護説」になろうかと思います。朝廷黒幕説ではありません。40歳以前の光秀は、美濃脱出後、おそらく京都において活動します。そこで朝廷との太い絆を持つと考えられます。当初朝廷を大事にしていた信長が、何かを契機として「もはや朝廷もいらぬ」という姿勢をとりはじめる。尊王家で、公武合体主義の光秀は、日本を守るために信長を討つ。少しも新しいところがない、ありきたりな設定といえますが、「無難である」ことは確かです。少しも面白くない設定ですが、どうもそうなるような気がします。


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