花鳥の撮りカルテ

診療の合間をぬって鳥を撮っています。



1-6-1.ライン川、クロップ城  ビンゲン

2018-09-30 06:00:00 | 南ドイツアルプスとアルザス地方

クロップ城はビンゲンに位置し、ライン川の左岸に建っています。、最初に見えるお城です。、起源はローマ時代と

されており、1277年マインツ大司教の通行税強化のための見張り場所を設けたところから始まります。しかし、

1438年にこの地をマインツの領地だと示す大聖堂の章を売りつけたところ、城主および領民から分離独立を訴え

られます。そこへ、30年戦争で城は帝国軍に破壊されます。1638年からはラインブファルツ戦争によって城は破

壊されました。1711年から1712年にかけてマインツの大司教の手先がここを乗っ取るのを防ぐために、フランス

軍が駐留します。その後1713年にマインツ軍自らが城を爆破します。今の城は1853年ルートウ”ィッヒ・マリア・

クロンがビンゲン市長に頼まれてネオゴシック様式の城に再建したものです。すなわち、1855年に監視塔と門が

再建され、1875年~1879年の工事終了後には城全体が蘇り、1897年以降はビンゲン市の市庁舎に使われて

いましたが、今は市役所と歴史博物館として使用されています。なお、このような山城には深い井戸があり、この城

にも52mの深さのある井戸があり、敵に囲まれても良いようになっています。ビンゲンはラインライト=プファルツ

州マインツ=ビンゲン県に所属する地方都市で、ライン川とナーエ川の河口にある街です。人口約25000人、面

積は37.74k㎡。ビンゲンはクロップ城以外にも「ネズミノの塔」が建てられていて、「ロマンチック・ライン」の景観

の一つになっている。聖マルティン教会を中心にライン川に沿って広がる小さな街で、街の中心の小高い丘には

現在地庁舎となった中世の姿を留めるクロップ城が建っています。対岸はヘッセン州のリューデスハイムと呼ばれ

る葡萄畑の広大な丘陵地帯が広がっています。15世紀中頃、マインツ司教座聖堂の直轄領地となります。そして

17世紀後半三十年戦争でスェーデン軍によって街は破壊され、その後フランス軍よって支配されました。1816年ナ

ポレオン軍の敗退でフランス軍の支配から脱します。しかし、第二次世界大戦で大きな破壊を受けました。

これはクロップ城が建っているビンゲンの紋章です。

 

 

 

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1-6-2.ライン川、エーレンフェルス城 リューデスハイム

2018-09-29 06:00:00 | 南ドイツアルプスとアルザス地方

エーレンフェルス城はリューデスハイムに位置する、右岸の急斜面の葡萄畑の丘の上に建つ城です。南側は絶壁

で北側には深い掘りが掘られています。二つの角櫓を持ち20mの城壁がたてられています。12世紀には塔が建

てられており、北方から下流に侵略してくる敵を防御するための、重要な城塞としてマインツ大司教ジークフリート2

世の命を受けて、フィリップ・フォン・ボーランが1208年から1218年に死ぬまでの間に自費で城の中核部分を建

設しました。1220年に未亡人のベアトクリスが完成させました。しかし、1222年マインツ大司教に譲渡するように

判決がくだされました。1350年に城の中核建築を拡張されましたが、1631年には三十年戦争で深刻な損傷をう

け、マインツ大司教は1636年に城を焼き払って退去します。1689年のブファルツ継承戦争でフランス軍のルイ1

4世に占拠され、火を放たれて倒壊寸前となりました。1806年にナッサウ公の所有となり、その後1866年にプロ

イセン王フリードリヒ・ウ”ィルヘルム4世が所有することとなり、1856年~1858年に4階建てで底面は6m、高さ

は23.86mの新ゴシック様式の城に修復されました。現在はベッセン州が管理をし、1986~1995年にかけて

修復工事が行われ外観のみ見学可能となりました。この城は戦略的に大変すぐれた城であったと共に、クロップ城

やネズミの塔と同様、ライン川を往航する船から関税を徴収するためでもありました。また戦乱の際は、財宝の保

管場所としました。 なお、この城の名前は「栄誉(名誉)の岩」という意味を持ちます。

 

 

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1-6-3.ライン川、ネズミの塔  ビンゲン

2018-09-28 07:00:00 | 南ドイツアルプスとアルザス地方

ライン川の西岸の中洲に建つ黄色の塔は、マインツ大司教ハットー2世によって、行き交う船から税を徴収するた

めに13世紀に建てられました。現在残っているのは、1855年にプロイセン国王フリードヒ・ウ”ィルヘルム4世に

よって再建されたもので、ネオゴシック様式になっています。名前の由来は、次のような伝説から由来しています。

大司教ハットーは農民から穀物の10分の1の税を取りたて、大きな穀物庫に蓄えました。ある年、飢餓に見舞わ

れ飢えた農民がハットーに食べ物乞いをしましたが、その農民を穀物庫に閉じ込めて火をつけて皆殺しにしまし

た。その穀物庫からネズミが大量に発生しハットーの屋敷を襲いました。ハットーは慌てて中洲の塔に逃げ込みま

したが、ネズミたちは川を渡り彼に襲い掛かり生きたまま食べてしまいました。この伝説により「ネズミの塔」と呼ば

れるようになったそうです。この塔は、細い高い塔は見張りとして、隣の低い塔は弓や鉄砲など戦闘用にもちられま

した。なお、エーレンフェルツ城とネズミの塔の間は、ビンガロー・ロッホと呼ばれ、ローレライに並ぶ船の航行の難

所であったため、1974年まではこの塔はライン川の信号塔として使われていました。残念ながら今回は工事中で

した。

 

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1-6-4.ライン川、ラインシュタイン城 トレヒティングハウゼン

2018-09-28 06:00:00 | 南ドイツアルプスとアルザス地方

ラインシュタイン城は左岸に建っており、90mの高さの切り立った岩山に悠々と優雅でロマンチックに立っていま

す。ライン河畔でも最も美しい城の一つと言われ、別名「ラインの宝石という名の城」と言われています。この城は、

900年頃カロリング王家によって築かれました。また、神聖ローマ帝国皇帝ルドルフ1世はここを基地にして、盗賊

騎士を攻め滅ぼしました。13世紀には裁判所として使われました。17世紀にはフランス軍によって破壊され、廃

墟となりましたが、1823年プロセインのフリードリッヒ王子が城を買い取り1823~1829年にかけて現在のネオ・

ゴシックに復元しました。ライン川沿いの古城の中で一番早く再建されました。ラインシュタイン城という名はこの時

つけられました。また王子は夏の別荘地として使っていたようです。1842年には王子によって建てられた新ゴシッ

ク様式の墓所礼拝堂も建てられました。この礼拝堂では現在結婚式も行われています。ネオゴシック建築のこの城

は、今は個人所有となっていますが、古城博物館として一般に開放されています。珍しい砲塔やテラスの鉄階段が

見られ、また色付き窓ガラス、フレスコ画、武器、調度品、墓所礼拝堂など魅力的で価値の高いものが展示されて

います。さらに、塔にも上ることができ、美しいライン川の風景が望めます。

 

 

 

 

 

 

 

 

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1-6-5-1.ライン川、ライヒェンシュタイン城  トレヒティングハウゼン

2018-09-27 07:00:00 | 南ドイツアルプスとアルザス地方

ネオゴシック建築の ライヒェンシュタイン城、ライン川の左岸にあり、城でも最も古い歴史があります。11世紀頃の

築城後、この城は盗賊の巣窟となり悪名高い城で有名です。すなわち、13世紀の城代ゲルハルト・フォン・ライン

ボートが盗賊騎士に堕落してしまい、罷免されます。フィリップス・フォン・ボーランデン(エーレンフェルツ城の築城

者)が次の城代となり、1218年に城の名を「フォン・ライヒェンシュタイン」と付けました。彼には相続人がおらず、1

241年にフィリップ・フォン・ホーエンフェルスが後を継ぎます。しかし、彼もまた盗賊騎士として暗躍します。そのた

め、1254年にライン都市同盟によって破壊されます。1270年マインツ大司教がこの地区の領主となり、翌年大

司教トフィリップ・フォン・ホーエンフェルスとの間で帝国平和令が締結され、フィリップスの悪行も収まりました。12

77年に彼の息子ディートリヒ・フォン・ホーエンフェルスが城を相続しましたが、父親を上回る盗賊騎士になりまし

た。ライン川畔地域における盗賊騎士一掃を決意したハプスブルク家の皇帝ルドルフ1世が1282年に一掃し破壊

しました。この時ディートリヒの共犯者たちは絞首刑となり、ライヒェンシュタイン城の守護城として11世紀に建てら

れたゾーネック城と共に焼き払われました。しかし、ディートリヒは処刑を免れ、城代権をプファルツ伯ルートウ”ィヒ

2世に渡しました。その後息子たちは1300年頃からゾーネック城と共に城の再建へと着手しました。その結果、マ

インツ大司教はラインシュタイン城を築いて対抗し、この時代の皇帝ルートウ”ィヒ4世の仲介により、1344年にマ

インツ大司教にライヒェンシュタイン城とゾーネック城の所有権を与え、争いに終止符が打たれました。マインツ大

司教がこの城を入手すると、エーレンフェルツ城と同じくゴシック様式で下部8m、上部5m、高さ16mの厚い城壁

で囲まれた堅固な城に再建されました。しかし、16世紀初頭には倒壊寸前となり廃墟となりました。そのため、16

88年~1697年に起こったプファルツ継承戦争では破壊されることなく残りました。1834年以後次から次へと城

主は変わり、1898年からはニコラウス・キルシュ・ブリチェリとその妻の所有となり、1899年~1902年にかけ

て、中世時代の城に再建、拡充しました。現在は個人の所有物で、城の一部は武器、防具、世界中から集めた12

00にも及ぶ狩猟トロフィーなどを展示する博物館であるとともに、古城ホテルになっています。ラインシュタイン城と

ライヒェンシュタイン城は近くにあり、名前もよく似ているのに、城の運命は全く反対でした。「ラインシュタイン城」は

盗賊騎士退治の基地として使われ、「ライヒェンシュタイン城」は盗賊騎士の巣窟となりました。運命の悪戯なので

しょうか。

 

 

 

 

 

 

 

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1-6-5-2.ライン川、ライヒェンシュタイン城 トレヒティングハウゼン

2018-09-27 06:00:00 | 南ドイツアルプスとアルザス地方

  

 

 

 

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1-6-6.ライン川、ソーネック城  ニーダーハイムバッハ

2018-09-26 06:00:00 | 南ドイツアルプスとアルザス地方

ゾーネック城はライン川左岸にあります。この城はライヒェンシュタイン城の守護城として、11世紀にコルネリミュン

スター修道院によって建てられました。13世紀に入ると、ゾーネック城もライヒェンシュタイン城と同様に、盗賊騎士

の巣となり、1282年にライン都市同盟とハプスブルク家に相次いで破壊されてしまいます。その後、再建と破壊を

繰り返してきました。1350年にマインツ大司教の領地となり再建されましたが、1689年フランス軍によって崩壊

されてしまいます。1825年になるとプロイセン王フリードリッヒ・ウ”ィルヘルム4世の狩猟城に、改装計画が立てら

れましたが、1848年の3月革命などにより中止となりました。1861年にネオゴシック様式の城として工事は完了

しましたが、同年にフリードリヒ・ウ”ィルヘルム4世はこのよを去りました。1918年には国有化となり、第二次世界

大戦後はラインライト・プファルツ州が城や古美術の保護、管理をひきつぎました。現在はこの城は博物館として一

般公開されています。

 

 

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1-6-7.ライン川、ハイムブルク城 ニーダーハイムバッハ

2018-09-25 07:00:00 | 南ドイツアルプスとアルザス地方

ニーダーハイムバッハの町に建つハイムブルク城です 。ライン川の左岸に建っています。13世紀に「厳格ルート

ウ”ィッヒ」宮中伯がライヒェンシュタイン城とゾーネック城を買収して、再建を目指しました。これに対して、マイン大

司教によって、1294年から1305年にかけ、建設されました。当初はハンエック城と名付けられたが、後にハイム

ブルグと改称されました。1344年にライヒェンシュタイン城もマインツ領となり、ハイムブルグ城は重要性を失いま

した。そのため官使の役所として使われました。大司教ディーター・フォン・イーゼンブルグ(1459-61、75-8

2)は城を新たに補強しましたが、16世紀には老朽化し、プファルツ継承戦争中の1689年にルイ14世によって破

壊されました。その後の主な所有者は、1837年からウ”ィルヘルム・フォン・バーフス将軍、1862年からウ”ァッ

カーバルト男爵(ライン側の建物を建設)、1882年からはエドゥアルド・ラーベンエック(中央部の建物を建設)、19

20年からはフーゴ・シュティネス、1987年からはロスウ”ィター・バッハマン=トゥルン(広範囲に修復)となってい

ます。

聖母マリア昇天カトリック教会です。

 

 

 

 

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1-6-8.ライン川、ノリッヒ城 ロルヒ

2018-09-25 06:00:00 | 南ドイツアルプスとアルザス地方

ノリック城はロルヒの町の護衛のために見張り塔として建てられました。14世紀初めごろ築かれたものと考えられ

ています。ライン川の右岸にあります。エーレンフェルス城からノリック城を見るまでに、アスマンハウゼンとロルヒ

の街を通り過ぎます。リューデスハイムから、ニーダーウ”ァルト記念碑までゴンドラリフトに乗り、少し歩いて今度

はチェアリフトに乗り、アスマンハウゼンに至るルートがあります。なお、アスマンハウゼンはワインの村ですが、ド

イツワインとしては珍しく赤ワインを生産しています。

これはロルヒの紋章です。

 

 

 

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1-6-9.ライン川、フェルステンブルグ城 ラインディーバッハ

2018-09-24 06:00:00 | 南ドイツアルプスとアルザス地方

フェルステンブルク城はラインディーバッハの街の、ライン川の左岸に建っています。1219年、バッハラッハ周辺

の司教区所轄物を守るためケルン大司教により建造されました。1620年にはスペイン軍。1632年には三十年

戦争中、スウェーデン軍に占領され、その後プファルツ継承戦争中(1688~1690年)には、フランス軍によって

破壊され、以来廃墟のまま、塔のみが残っています。現在は個人所有物となっています。

 

 

 

 

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1-6-10.ライン川、シュターレック城 バッハラッハ

2018-09-23 06:00:00 | 南ドイツアルプスとアルザス地方

バッハラッハの丘の上にあるのは、 シュターレック城、ライン川の左岸に建っています。バッハラッハは1000年以

上の歴史を持つ街で、中世建築が残っています。木材やワインのほかに、ライン川の通行税で財政豊かな街で

した。市壁の16箇所に物見の塔があります。元々ケルン教区がこの城を所持していましたが、1190年に皇帝バ

ルバロッサがこの城を買収し彼の弟コンラートに与えます。1214年になると、この城はウ”ィッテルスバッハの二つ

の主要な拠点の一つとして、強力なバイエルの王朝に買い取られます。以降550年以上にわたってウ”ィッテルス

バッハ家が続きます。三十年戦争最中の1620年以降、シュターレック城とバッハラッハの町はスペイン、スウェー

デン、神聖ローマ帝国、バイエルン、スペイン、フランスと次々と占領され、著しく荒廃しました。そして、プファルツ

継承戦争の際の1689年にはフランス人軍によって爆撃されてしまいます。その後2回(1925年ー27年と1965

-67年)に渡る再建で再びその存在感が印象的になるように拡大されました。1926年にユースホステルとして営

業が開始されました。今ではドイツで最も美しいユースホステルとなりました。

 

バッハラッハはラインラント=プファルツ州マインツ=ビンゲン郡にあります。人口は1880人(2015年)、面積は2

3.65㎢です。バッハラッハが歴史文書の中に初めて登場したのは11世紀です。街の名前はバッハラッハは、

ローマ神話に登場するワインの神「バッカス」が由来になっています。古くからこの地一帯のワイン集積所として栄

えてきたワインの街なのです。また、この地方の家は、14世紀に建てられた、ドイツらしい木組みの家が並ぶ人気

の街です。また周囲は葡萄畑に囲まれています。

これはバッハラッハの紋章です。

 

 

 

 

 

 

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1-6-11.ライン川、プファルツ城  カウブ

2018-09-22 06:00:00 | 南ドイツアルプスとアルザス地方

プファルツ城(プファルツグラーフェンシュタイン城、「宮廷伯の石」)はカウプ付近のライン川中州に建つ珍しいお城

で、ルートウ”ィヒ4世によって、1326年に建設されました。この城は軍艦を模して造られました。五角形の船の形

をしているのは、激流化した水の流れによる損傷や流木などで城壁が崩されるのを防ぐためです。はじめに中核

の五角形で6層の大塔が建設され1327年に完成しました。後を継いだ甥のルドルフ2世により、1338年から13

42年に塔を囲む城壁が増設され、1607年には右端に稜保とアーケードの内部も造られました。レンガと漆喰で

造られた白い城壁の高さは12mあり、天然スレートで葺いた黒い屋根との調和のとれた組み合わせが素晴らしい

です。城壁の上には矢狭間や石落としを供えた木造の防御施設も整っています。1714年にバロック様式に改造

され、現在の姿になりました。1866年の普墺戦争後は徴税の必要がなくなり、1960年代まではライン川航行船

のための信号灯として利用されました。このプファルツ城の大きな目的は税の徴収の為に建設されたものです。そ

のため、税の徴収のため1327年から1866年まで、ライン川の重要な税関所の一つとして機能しました。また、1

813年から1814年にかけての冬、プファルツ城の前で、ナポレオン戦争へと続く解放戦争にて、プロイセン陸軍

元帥ブリュッヘルは6万の兵と共に、この城の前で勝利を手に収めた、という歴史的事件が起こったことでも知られ

ています。ウ”ィクトル・ユーゴー著「ライン川幻想紀行」の中にも登場します。プファルツ城の丘の上にグーテンフェル

ス城が見えます。プファルツ城は税収の為に、グーテンフェルス城は軍事的な役割と、分担されていたようです。こ

のプファルツ城の内側は、城壁を中庭を囲むように建てられています。敷石の上に造られた暖炉、地下牢への入り

口、落とし格子戸など興味深い施設があります。そして中は粘土とレンガで、外は藁と粘土で作られたパン焼き用

のスレートで作られた窯も展示されています。さらに、投石用のカタバルトや税関史の見張り場と居留する部屋や、

深さ9mの井戸の水上に組まれた筏の上に、税金が払えない商人が綱や横木を使って降ろされ収監された様子が

見られます。また、所長の住居や、広く造られた台所、居間、寝室なども公開されています。さらに、内部は石造り

の螺旋状の狭くて級な階段、次に木製の階段、最後は梯子で登れるように造られ、敵に襲われた場合にも、対応

出来るように造られています。現在は資料館となり、見学ができます。

 

プファルツ城の建つカウブは、ライン川支流のナーエ川河口に位置する街で、ラインライト=ブファルツ州ライン=

ラーン群にあります。人口865人(2015年)、面積は12.98㎢です。

これはカウプの紋章です。 

 

 

 

 

手前がプファルツ城、後ろに見えてるのがクーデンフェルス城です。

 

 

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1-6-12.ライン川、グーデンフェルス城  カウブ

2018-09-21 06:00:00 | 南ドイツアルプスとアルザス地方

グーデンフェルス城はカウブの街に位置し、ライン川右岸に建っています。1200年ころにライン川を見下ろす丘の

上に築城されました。ライン渓谷の軍事上の拠点として活躍した城です。神聖ローマ帝国の意向によりファルケン

シュタイン・ミュンヒェンベルク族の参事官により建てられ、当時はカウブ城と呼ばれていました。1252年に皇帝コ

ンラート4世の所有のカウブ城は対立王のウ”ィルヘルム・フォン・ホラントによって攻囲されましたが、落城はしませ

んでした。当時城と街の直接の所有者はファルケンシュタイナー家でした。同家はライン川を航行する船から税を

徴収していましたが、1277年徴税権とカウブの街をルートウ”ィヒ2世に譲渡しました。ルートウ”ィヒ2世の子ルー

トウ”ィヒ4世は、1326年にカウブ城の眼前にある中州に船の形をしたプファルツ城を築き徴税の拠点を移しまし

た。その結果この城の役割が終わったかに見えましたが、ここからこの城は外壁を建設し増築して、堅固な城へと

発展させていきました。1503年に始まったバイエル・プファルツ継承戦争で、1504年にウ”ィルヘルム・フォン・

ヘッセン軍の39日間に渡る包囲の撃退に成功し、1508年に修復され、戦勝の記念としてプファルツ選帝候

ルートウ”ィヒ5世によりグーデンフェルス城と改名されました。このグーデンフェルスとは「堅固な岩」という意味で

す。1620年にスペインに、1631年ヘッセン軍に、1635年神聖ローマ軍に、1645年フランス軍が、1647年再

びヘッセン軍が城を攻撃しました。1793年にフランスに明け渡され1803年まで傷病兵の宿営所として使われま

した。その後1806年にナポレオンによって破壊されました。1833年には廃墟になってしまいます。しかし、1889

年から1892年の歳月をかけて修復され、現在はホテルとなりました。なお、この城の構造は建築芸術におけるラ

イン川沿いの最も優れた一例とされています。

 

 

 

 

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1-6-13-1.ライン川、シェーンブルク城 オーバーウ”ェーゼル

2018-09-20 07:00:00 | 南ドイツアルプスとアルザス地方

ライン川の左岸に建ち、オーバーウ”ェーゼルの町に建つ、シェーンブルク城です。10世紀にザクセン家の皇帝に

よって築かれたと言われています。この頃からシェーンブルク(美しい城)という名前を持っていました。1166年に

シュタウフェン家の皇帝フィードリヒ1世からこの領地を与えられた家臣が、以来シェーンブルク家を名乗るようにな

りました。この家臣はライン川を通る船の関銭、ワインの財源などで財をなし、この財源でライン川でも屈指の大き

さを誇る堅固な城となりました。14世紀になるとトリーア大司教とプファルツ伯との間に争いが起こったり、15世紀

になると戦争や私闘によって城の持ち主が何度も変わりました。1688年に始まったブファルツ継承戦争におい

て、シェーンブルグ城も近隣の城同様に1689年に戦火によって破壊されました。1885年にアメリカの銀行家が

城を購入し、1901年までに部分的に再建しました。1950年にオーバーウ”ェーゼル市が城を買い取りました。1

957年ヒューットゥル家が城を借り受けホテルとして改装し現在営業中です。レ・ミゼラブルの作者ビクトル・ユーゴ

が「最も美しい廃墟」と絶賛したことでも有名です。なお城のあるオーバーウ”ェーゼルの街は13世紀に造られた1

8の塔と中世の城壁が多くのこっていることでも有名です。なお、オーバーウ”ェーゼルはライン川の左岸にあり、ザ

ンクト・ゴアールとバッハラッハの間にある町です。渓谷観光の丁度中間点です。お城築城当時は21塔が建てられ

ていました。現在も16塔が残されています。これらの塔は通行する舟を見張って税金を徴収するための塔です。

シュタインガッセン塔、ホスピタル塔、雄牛塔(オクセン)、ネコ塔(カッツエン)、ツェーナー塔、ケルン塔、コブレンツ

塔、ベックボマー塔、フェルゼン塔、ニーダーブルガー塔、ミヒェルフェルト塔から、カラフルなゲルバートゥルム塔

(黄色)、ハーグ塔(赤)などの塔と城壁の跡があります。  

 

 

 

 

 

 

 

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1-6-13-2.ライン川、シェーンブルク城 オーバーウ”ェーゼル

2018-09-20 06:00:00 | 南ドイツアルプスとアルザス地方

 シェーンブルク城は、「麗しの城」の意味で、今は古城ホテルになっています。このシェーンブルク城に伝わる

のがローレライの7姉妹物語です。かってこの城には7人の美しい姉妹が住んでいました。多くの男性が彼女

たちに言い寄りましたが、ことごとく振られてしまいます。騎士ウ”ァルターもその一人に恋しますが、あとひと息

というところで、冷たくあしらわれ、ついにライン川に飛び込み自殺を図ります。ところが、ウ”ァルターが見たの

はラインの川底に広がる世にも美しい妖精の国でした。妖精たちはウ”ァルターを哀れみ、愛を知らない7姉妹

を岩に変えてしまいます。以来、ローレライの岩からは姉妹たちの悲しい声が聞こえてくるのだそうです。ライン

川の水位が下がるとローレライの上流に現れたのが「7つの処女岩」です。かっては多くの船がこの岩のために

遭難したと言います。

 

 

 

 

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