遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『泣くな道真 -太宰府の詩-』  澤田瞳子  集英社文庫

2018-01-25 10:47:22 | レビュー
 先般『腐れ梅』を読み、その奥書からこの小説が出版されていることを知った。菅原道真絡みの関心から早速読んでみた。末尾にこの作品が書き下ろしであると付記してあるので、当初から文庫本として出版されたようである。2014年6月に出版されている。

 手許の日本史の年表を見ると、延喜元年(901)の項に「1右大臣菅原道真を太宰権師(だざいごんのそち)に左遷(903没)」と一行記載されている。宇多天皇に重用された菅原道真が、左大臣藤原時平ら藤原氏の画策で、太宰府に左遷されて2年後に太宰府で没した。その怨霊が後に藤原一族の枢要な人々の死や天皇の病没の原因になったと人々は連想した。その怨霊を鎮めるために、北野天満宮が創建される形になり、怨霊鎮撫が後に、天神信仰、学問の神様へと進展していく。学生時代に日本史を学んでも、それくらいの範囲で理解している位にとどまる。そこから一歩入り込んだ情報や知識を史跡探訪・本などさまざまな経路から断片的に得てきているが、菅原道真を深く知っている訳ではない。

 この小説を読んだ印象は、太宰府に菅原道真が左遷されたことから広がった波紋の有り様が興味深いというところだ。当時の太宰府という行政機構のもとで生じた人間関係と行動を、道真の心境と関連づけながら、すこしユーモラスなタッチで顛末記として描いた時代小説と言える。ストーリーのユーモラスな進展の中に、当時の太宰府の状況、京の都と太宰府の関係及びそのギャップ、高級貴族を含む支配者側と一般民衆の側の認識の格差などが、ある意味辛辣な目線も併せて書き込まれている。このあたりが、個人的には興味が持てた。

 道真が太宰府で没するまでの2年間の生活の史実知識を私は持たないので、歴史小説としてよりも、道真とその時代をモチーフに著者が創造した時代小説、フィクションとして受け止めた。道真が、こんなことを太宰府でしていたとしたら、おもしろいな・・・・・と思う。左遷された道真の怨み骨髄の心理と行動を描きながら、己の才能を別のところで密かに発揮して、活躍するところに、一条の活路を切り開く。彼の行動の結果が、彼を左遷した朝廷の人々への一種の意趣返しにも連なっていくという行動に出る。そんなアプローチがおもしろい。裏技的おもしろさがある。

 この小説、視点をずらして読むと、幾人もの主人公がいるように読めるという興味深い局面もある。道真だけがこのストーリーの主人公とは思えない。主な登場人物のそれぞれが、異なる次元から道真にかかわりつつ、あるフェーズでは主人公的役割を果たしていく。
 主な登場人物をご紹介し、少しストーリーでの役割などを要約する。

菅原道真 安行という家司一人と二人の子(紅姫7歳、隅麿5歳)を伴っただけという。
     南館に居を構えると、当面は恨み辛みの心理でどん底を徘徊する。
     小野恬子の介在を契機に、鑑定の見識・才能の利用に気の発散活路を得る。
     太宰府でも更に不幸が立ち現れる。泣くな道真。己の道を行け!というところ。

龍野穂積 代々太宰府の官人を務める龍野家に婿入りした。太宰少典(太宰府の第四等官)
     先はもう出世が見込めないと40歳間近で怠け者に。あだ名が「うたたね殿」
     長官の小野葛絃から直に特命として道真の世話役、監視役を命じられる。
     道真に間近で接触することで道真と己の対比も含め、行動が変容していく。
     優秀な息子・三緒が居る。ストーリーの後半、不正問題で三緒も絡んでくる。
     このストーリーでは、黒子的な役割、道真の心理分析担当的な役割を担う。

小野恬子 内裏で女房仕えをしていた美貌の歌人。25歳。宮廷に嫌気を抱き去る。
     葛絃と葛根を追って太宰府にやってきて、廚の出費引き締めに辣腕を振るう。
     菅原道真に関わりを持ち、道真の太宰府での有り様を変える仕掛人となる。
     京での道真、太宰府での道真を対比的客観的に眺める視点を持つ。
     太宰府では美貌故に、官人と色恋絡みの騒動を起こしている。

小野葛根 恬子の兄、28歳。少弐。小野葛絃の片腕。葛絃に心酔し尊敬する。
     庁内各部署を取りまとめる政所の長官。徴税での横領を発見と処理に着手。
     三緒の上司であり、横領問題が葛絃の失態に成らぬよう対策に苦慮する。

豊原清友 京より派遣され、管内の租庸調の計納を担当する大帳司の算師。
     太宰府の経理を担当。少しずつ長年にわたり徴税記録を改竄し横領を働く。

小野葛絃 京から着任し46歳で大弐。太宰府庁官。太宰府を愛する外見温厚な人物。
     ストーリーでは表に出て来ないが、重要な位置づけになっている。

 この小説は5章構成であり、ストーリーは起承転結風に展開していく。
 第1章 菅公流謫
菅原道真の太宰府左遷、龍野穂積が世話役の特命拝受、その他主要登場人物とその背景が描かれて行く。道真と関わる群像の形があらわれてくる。道真は南館に落ち着く。
 第2章 倦み渡る世
小野恬子は己の中に絶えずひそむ孤独が道真の憂慮と同質ではないかと思い、道真に会いに行こうとする。その途次、博多津の唐物商・橘花斎のやり手の隠居、幡多児に出会い、小袋を押し付けられる。また、偶然にも迷子になり泣きわめく隅麿に出会う。それが南館を訪れる具体的契機となる。小袋に入っていたのが青墨だった。それが道真の関心を惹きつける。そして、恬子が道真を博多津に連れて行くきっかけになる。忿怒・憂愁に沈潜していた道真が唐物鑑定に動き出す契機となる。この変転のさまが面白く描かれて行く。博多津の唐物商の実態が垣間見えるのも興味深い。

 第3章 寒早十首
 状況が一転する事態が違う次元で発生する。一つは、小野葛根と龍野三緒が関わる太宰府の行政機構の次元での不祥事。豊原清友による長年の横領という不正を発見し、その巨額な額が一大事となる。さて、葛根はどうするか。
 もう一つは、唐物の真贋鑑定という才能を生かすことで、己の憂さを紛らす機会を見つけた道真が、出くわす体験である。南梁の画人が描いた阿弥陀如来画像に関わることがきっかけとなる。橘花斎で小汚い坊主が是非にとねだって買っていた画像を道真が買い取りたいと言う。そのために穂積に銭十貫の調達を頼む。穂積が工面した銭を携えて二人は南瓊寺を訪ねていく。その坊主から、かつて道真が詠んだ寒早十首を、面前で罵倒される羽目になる。それらの詩が現実を知らぬ雲上人の観念世界の陶酔に過ぎないと。それは道真の意識をガツンと転換させる機となる。一方、道真に追い打ちをかけるように、隅麿の転落事故による死が起こる。
 
 第4章 花の色は
 起承転結の結にあたる。その一つ。豊原清友が横領した千貫の補填問題。疔官小野葛絃に失態の責任が及ばない形でこの問題を解決したい小野葛根に、道真が千貫の補填に協力すると言い出す。そして、道真は秘策を提示していく。これがなんともおもしろい。道真の秘策は、小野葛根を助けることになるとともに、道真を太宰府に追いやった朝廷の輩たちに道真が意趣返しする手段にもなるものという落とし所となっている。これは著者が編み出したフィクションだろうが、道真の能力の一端を逆用するという手段であり、実際にあってもおもしろい展開である。そして、恬子は道真の秘策の先読みをもするところが二重におもしろい。

 終章 西府鳴笛
 第4章に続き「起承転結」のもう一つの「結」となっている。道真の秘策が一応完了するというエンディングであるとともに、小野恬子の生き様の「結」を語る章にもなっている。
 更に、ここでおもしろいエピソードを著者は加える。宇佐奉幣使という名目で、都からやってきた五位蔵人藤原清貫が、その帰路道真の様子を見に立ち寄るというのである。この時の道真の応対が最後のオチとして楽しいエピソード話となっている。
 微かな雷鳴が、はるか遠くから響き、夕立が近づいて来る中で、清貫に帳を挟んで、道真が敢えて陰々滅々たる響きを帯びた声で言う。「-清貫、遠路ご苦労であった。主上と左大臣どのには、ここで見たままを詳細に伝えるのじゃぞ」「わしはもう決して、長くはあるまい。されど骨はこのまま西国に埋められようとも、魂魄はいずれ宙を翔け、京に立ち戻ろう。ほれ、あの雷のように-」と。雷鳴し雨がどっと降る。清貫は仰天して飛び出していく。その姿を眺め、道真は清貫に同行してきた小野葛絃と談笑する。
 
 アウトラインはこんなストーリー展開である。要所要所の描写が読ませどころとなる。穂積の視点と恬子の視点の違いが、道真を分析的に描き出す上でうまく相乗効果を出していく。
 このストーリー、道真だけでなく、穂積、恬子、葛根、葛絃のそれぞれの生き様も描いていておもしろい読み物になっている。
 泣くな道真、己の枠に捕らわれず、太宰府の地という視座から改めて世の中を、都を見つめて見よというところか。

 この小説で本筋の背景となる部分で興味深いところがいくつかある。
1) 当時の太宰府がどのようなところかが描き込まれている点。都市の構造、行政機構、徴税の仕組み、都と太宰府(西海道総督府)との関係、太宰府の殷賑状況など。
2) 都から派遣される高級官僚と太宰府の地方官僚との関係、意識の格差と有り様。
3) 左遷された道真の位置づけについて。著者が史実を踏まえて書き込んでいると理解する箇所である。
 *道真の左遷について、詔は罪状を明記しないものだった。
 *年二千石(約2億円)という禄が太宰府左遷で停止された。
 *資財没官(没収)にはならなかったので、領地からの収入が太宰府での生活費に。
  京の留守宅からの月に一度の音信と銭の送金が頼りとなったという。
4) 大唐や新羅からの商船が入港すると、京からの使者による官品購入が優先される。
 それが終わってから、民間の交易が許される仕組みとなっていたという。
5) 太宰府の外港としての博多津の風景が点描されている。
 鴻臚館、唐坊・新羅坊といった街区の設定、飯屋・遊里・訳語屋の存在など。
6) 太宰府で記録されていた「正税帳」という官稲管理帳簿のしくみの一端がわかる。
7) 博多津・太宰府「現地」と京の都「遠方の顧客」の唐物に対する扱いと認識のズ。
 道真の青墨に対する思い入れが一例として点描されていておもしろい。

 このフィクションを通じて、あらためて、菅原道真の実像は? に関心をかきたてられることとなった。太宰府での2年間、道真は何をしていたのか?

 ご一読ありがとうございます。

人気ブログランキングへ
↑↑ クリックしていただけると嬉しいです。

菅原道真に関して、ネット検索でどのような情報、知識が得られるかトライしてみた。一覧にしておきたい。
菅原道真公年表  :「手取天満宮」
菅原道真公年表  :「湯島天神」
菅原道真の年表  :「七天神の由来」
菅原道真年表   :「e-KYOTO」
菅原道真  :ウィキペディア
菅原道真  :「コトバンク」
道真公のご生涯  :「太宰府天満宮」
菅原道真と天神信仰  :「能楽勉強会」
天神信仰について  pdfファイル
菅原道真は人間か?天神か?天満宮の起源と道真 :「和じかん.com」
菅原道真の漢詩② 寒早十首 の全文と口語訳  :「ゆきのたより/snowmail」
日本古代史研究と菅原道真「寒早十首」 宮瀧交二氏  史苑(第67巻1号)pdfファイル
藤原時平  :ウィキペディア
藤原時平 菅原道真を讒言で大宰府へ左遷、失脚させた切れ者・左大臣 :「歴史くらぶ」
怨霊信仰  :「コトバンク」
御霊信仰の成立と展開: 平安京都市神への視角  井上滿郎氏論文  「CiNii」

インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)


人気ブログランキングへ
↑↑ クリックしていただけると嬉しいです。


徒然に読んできた著者の作品の中で印象記を以下のものについて書いています。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。
『腐れ梅』  集英社
『若冲』  文藝春秋
『弧鷹の天』  徳間書店
『満つる月の如し 仏師・定朝』  徳間書店


最新の画像もっと見る

コメントを投稿