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[もう一度]<再論>天皇制と国民主権は矛盾するか(中)

2019年12月29日 20時10分15秒 | 日々感じたこととか

 


◆国民主権の意味と無意味
蓋し、国民主権の原理とは専断的な君主制の支配に対するアンチテーゼ、例えば、「王権神授説」に対する、すなわち、君主制支配に対する対抗イデオロギーにすぎません。よって、歴史的に専断的な君主制が地球上から(北朝鮮を唯一の例外としてでしょうか?)消滅してしまった現在、(北朝鮮の「臣民」の方々を除けば?)この本来の意味での国民主権のイデオロギーに存在価値はないのです。

 

重要なことは、そもそも、国民主権の原理やイデオロギーと君主制自体は

矛盾するものではないということです。

 

なぜならば、顔も手も足もない<国家>において、これまた、個々の国民を除いては、顔も手も足もない「国民総体」や「国民そのもの」としての<国民>の意志が反映しているというフィクションを具現するためには(例えば、代表取締役の言動や、取締役会の議決が「会社」の意志や行動と看做されるのとパラレルに)、憲法のルールに定められたある国家機関の、これまた憲法のルールに則った行動が国家の意志であり国家の行動であると看做される必要性と必然性があるだろうから。

而して、誰の意志や行為を<国民>の意志や行為と看做すかを定めるものは立法の技術論や憲法に結晶したその社会の美意識に他ならず、論理的には、天皇の意志と行為こそ<国民>の意志と行為であるとするのと、選挙民の直接選挙で選ばれた大統領、若しくは、選挙民が間接選挙によって選んだ内閣総理大臣の意志と行為こそ<国民>の意志と行為であるとすることの間には(「ほとんど」ではなく「全く」)差はないからです。蓋し、現行憲法の第1条「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」とはこのような論理の表現と解するしかないのです。

畢竟、「国民主権」の歴史的役割は終わった。本来の意味での「国民主権」、
換言すれば、狭義の国民主権の教義についてはそう言えると思います。

而して、現在の世界において、就中、専断的ではない君主制を採用する(繰り返しますが、その引退した狭義の国民主権とさえも矛盾しない立憲君主制を、神武以来、少なくとも、近代に特殊な「主権国家=国民国家」「国民国家=民族国家」成立以降に限定したとしても、遅くとも旧憲法以来採用してきた )我が国において、国民主権のイデオロギーに何らかの意義や意味がまだ認められるとするならば、それは次の3点に収束するの、鴨。すなわち、

(イ)多数派支配の論理である「民主主義」の同義語
(ロ)外国人に政治への容喙を許さない「ナショナリズム」の同義語
(ハ)法の一般的な効力根拠としての「国民の法的確信」の同義語

三者の内、前二者は「すべき/すべからず」の当為命題、すなわち、ある特殊な価値判断や世界観の言明。また、後者の(ロ)「ナショナリズム」が、個別日本においては(「外国人=非日本人」でしかなく、加之、「日本人」の意味の確定に天皇制の契機が、すなわち、それに好意的であるか否かに関わらず、「天壌無窮、皇孫統べる豊葦原瑞穂之国」のイデオロギーが不可避的に関与することは自明でしょうから、些かループ的の構造を伴いながらも、(ロ)の「国民主権」が)天皇制と矛盾するものではないことも説明の必要はないと思います。

最前者(イ)は、「多数派-少数派」の衡量は、「政治的判断に際しては個々の国民に差をもうけるべきではない/個々の国民の能力差や個性は捨象されるべきだ」という前提の上でのみ成立するフィクションであり、そして、最後者の(ハ)が上述の本稿の理路に関わるものです。

敷衍すれば、(イ)「国民主権=民主主義」とは、諸個人間に厳然と遍在する目も眩まんばかりの多様性と能力差(例えば、普通の公立高校から現役で東大理Ⅲに進む生徒とそれ以外の生徒を観察するだけでも、誰しも容易に感知できるであろう多様性と能力差)に目を瞑ることで初めて成立可能な<物語>ということ。

而して、(イ)「国民主権=民主主義」は、論理的には、「清廉かつ優秀で中庸を貴ぶ見識豊かな専門家」と「俗物の無知蒙昧で偏狭なる素人」を同一視するロジックであり、「大衆民主主義=とるにたらない者の支配」を肯定するロジックと言えましょう(尚、「民主主義」の意味に関しては下記拙稿をご参照いただければ嬉しいです)。

・民主主義--「民主主義」の顕教的意味
 https://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/a11036903f28f118f30c24f1b1e9f2bf

・民主主義--「民主主義」の密教的意味
 https://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/0364792934f8f8608892e7e75e42bc10

・民主主義の意味と限界-脱原発論と原発論の脱構築
  http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11138964915.html
 
・放射能と国家-脱原発論は<権力の万能感>と戯れる、民主主義の敵である
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/fd01017dc60f3ef702569bbf8d2134d2

 

但し、民主主義とその同義語としての「国民主権」に関して、私自身は、チャーチルが語った如く「Democracy is the worst form of government, except for all those other forms that have been tried from time to time.:民主主義は最悪の政治制度である。ただし、これまでの人類の歴史の中で考案され採用されたあらゆる他の政治制度を別にすれば」 (from a House of Commons speech on Nov. 11, 1947) であると考えていますけれども。

ちなみに、<大人の中庸を得た諦観>とも言うべきこのような「民主主義=国民主権」の認識と評価は、価値相対主義的な世界観、すなわち、「非教条主義」を中核とする現在の保守主義と親和性の高いもの、鴨。尚、「保守主義」を巡る私の理解については下記拙稿をご参照ください。閑話休題。

・保守主義の再定義(上)~(下)
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/141a2a029b8c6bb344188d543d593ee2

・「左翼」という言葉の理解に見る保守派の貧困と脆弱(1)~(4)
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11148165149.html

・風景が<伝統>に分節される構図(及びこの続編)
 

 

【MV】僕たちは戦わない Short ver. / AKB48[公式]・・・「日本」を頑張る、のイメージ

 

最後者の(ハ)の「国民主権」について敷衍します。(ハ)「国民主権=国民の法的確信」とは、「何が法であるか」「何が法の内容であるか」に関する国民の法的確信を欠いた「当為命題:すべき/すべからずを命じている言明」は規範として機能しないという、「法概念論-法学方法論」の領域に属する主張です。蓋し、それは経験的・実証的・論理的な認識。

而して、それは、「国王をギロチンにかけろ!」「人民大会議幹部会議長は人民の敵だ!」とかとかを人々に叫ばせることも希ではなかった狭義の国民主権イデオロギーが、どこまでもどこまでも限りなく、ある特殊な価値判断や世界観の言明にすぎなかったことから見ても、(ハ)の「国民主権」の同義語であり、本稿の理路のエッセンシャルファクター(an essential part of the logic or reasoning of my argument)でもある「国民の法的確信」は狭義の国民主権の教義とはその存在する位相を異にしているのです。

加之、蓋し、独裁国家がいかに強面で精悍に見えようとも、
それは張り子の豚とは言わないけれど張り子の虎にすぎないの、鴨。

例えば、独裁国家のメンテナンスには、警察や与党を含む国民全体を監視する秘密警察、および、督戦隊や親衛隊や国家防衛隊といった「軍隊を監視する軍隊」、若しくは、政府を主導・監視する独裁政党、並びに、独裁者やその王朝、若しくは、独裁的統治グループが打ち倒されない限り貫徹される政策の無謬性の前提、その無謬性の前提を温床として蔓延る社会の無気力と遵法精神の劣化、等々を想起するとき、

要は、(a)ツーセット以上の複数の統治機構が必須なこと、(b)為政者グループの<学習能力>の低空飛行状態、(c)社会統合の劣化を想起するとき、独裁国家はコストパフォーマンスにおいて非独裁国家に劣ることは、論理的のみならず、歴史的にも(「1989年-1991年」の社会主義の崩壊という現実を通して)人類が確認したことではないかと思います。 

 

畢竟、専断的な君主制が(北朝鮮をあるいは唯一の例外として)ほぼ消滅した現在においても存在意義のある「国民主権」の内容を上記の如く脱構築するとき、日本において、(イ)~(ハ)三者の国民主権の原理と天皇制は矛盾するものではない。否、寧ろ、日本においては、天皇制は広義の「国民主権」の要求するイデオロギーであり制度とさえ言える。と、そう私は考えるのです。


このように、天皇制は、現在においても必ずしも無意味ではない広義の「国民主権」と親和的・整合的に理解可能である。而して、その友誼的の関係は、大東亜戦争後の憲法の断絶、すなわち、旧憲法から現行憲法への移行によってもそう大きな変更を受けていない。そう私は考えるのですが、この点で印象的なエピソードがあります。

主義主張は異にするものの奥平康弘氏は、東京大学の長谷部恭男さん、ブリティッシュ・コロンビア大学の松井茂記さんと並んで、日本人の憲法研究者の中では私が尊敬する論者のお一人です。その奥平先生がある法律雑誌で概略こう書かれていた。旧東ドイツの大学院に交換教授として滞在していたときのエピソード。現行憲法と旧憲法の英訳をドイツの大学院生に読んでもらった際の彼等のコメント。

なんだ、あんまり変わらないんですね、と。その通り! 旧憲法が人権の保障と権力の分立、そして、近代の「主権国家=国民国家」を正当化する<政治的神話>の三者によって編み上げられている点で、現行憲法と同様にそれが近代的意味の憲法の嫡出子であることは、18世紀末葉から20世紀初葉にかけて制定された西欧諸国の憲法と比較すれば明らかなことなのです。


畢竟、世界標準の憲法基礎論では、

(a)ある実定憲法の規範には憲法典やその他の成文法規に書かれているものと書かれていないものが存在し、(b)後者の書かれていない憲法規範には、更に、(b1)慣行や有権解釈の積み重ねによって具体化するタイプの規範と、(b2)憲法の概念および憲法の事物の本性から表象されるタイプの規範が存在するという理解にはそう異論は存在しないと思います。 

ならば、例えば、ある憲法の人権規範の内容は諸法令やその有権解釈を通じて具現されるしかなく、よって、旧憲法では、言論の自由・結社の自由や信書の秘密等々、多くの人権規定に「法律ノ範囲内ニ於テ」「法律ニ依ルニ非スシテ」という「法律の留保」がついているとしても、その人権の保障の度合いが現行憲法と質的に異なるとは言えないこと。

また、たとえ憲法典で軍備の全廃や戦争の放棄を謳うにせよ、憲法が憲法である限り主権国家の固有の権利たる自衛権は放棄されることなど法的に不可能なこと(加之、国際法上、所謂「集団的」と「個別的」に自衛権を区別することなどできはしないこと)。

これらを理解できる程の論者なら、その憲法典の巻頭第1章に「天皇」を戴く現行憲法が、「天壌無窮、皇孫統べる豊葦原瑞穂之国のVerfassungを具現した点で旧憲法と「ほんとんど変わらない」という感想をドイツの若い研究者が洩らしたのも当然」と受け止めるでしょう。

ということで、次項では、憲法基礎論の切り口から、更に、このように、
広義の「国民主権」と親和的な天皇制の意味について検討してみたいと思います。


 

 

 

 

<続く>

 


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