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<再論>応報刑思想の逆襲(1)

2012年11月28日 20時03分04秒 | 日々感じたこととか



目次
◆はじめに
◆応報刑思想の逆襲
◆抑止効果のない刑罰は無意味か?
◆刑法と刑罰の存在理由としての社会秩序維持
◆刑罰を受ける権利
◆犯罪者を犠牲者と考える「優しい社会」は正常な社会か?
◆被害者-被害者遺族の権利はもともと人権のメニューに掲載されていない?

資料
・裁判員制度:Jury System vs. Lay Judge System
・精神障害者の犯罪について:触法精神障害者とは何か?



◆はじめに

尼崎や北九州で起きた一種異様な「大量監禁死事件」の陰惨と無惨。被害者が繰り返し発信していた<SOS>を警察や学校に無視されて惹起し続けるストーカー殺人事件と<いじめ殺人事件>の不条理。これら「犯罪を防げなかった治安当局への不満」とは位相を異にする「起こった犯罪に対する司法当局とマスメディアの対処への不満」もまた今現在のこの社会に満ちている。と、そう私は考えます。そして、前者と後者は通底しているのではないかとも。

少年犯罪や外国人犯罪に顕著なように、「加害者には手厚い法の保護が与えられていながら、被害者の要求と主張と人格は無視されているのではないか/社会の安心安全は軽視されていないか」「土台、人口に膾炙する「厳罰化」という言葉自体が不適当であり、それは「正常化」と呼ばれるべきでしょう」、と。刑事司法と犯罪報道を巡ってはこのようなネガティブな認識が広くこの社会に行き渡っているのではないでしょうか。

いずれにせよ、<市民の常識>による歪んだ刑事司法の正常化を期したはずの「裁判員制度」が施行されて足かけ4年。しかし、犯罪と刑罰を巡る<市民>の不満と不安はそう大きくは低減されてはいない。そう私は考えます。而して、それは、戦後民主主義という極めて特殊なイデオロギー、すなわち、「犯罪者=不平等に満ちた社会の被害者」と見る性善説的の理解、究極的には「自衛隊と治安当局に代表される国家権力は必要悪であり、犯罪者も含む<市民>は(文字通り「innocent:悪意のない罪のない無知なほど無垢で無邪気で善良な存在」であり、)アプリオリに善なるもの」という犯罪観に司法制度とその運用が歪められてきた結果なの、鴨。

実際、暴力も暴言も<家庭内の紛争>であり、その結果たる一家離散の続発も大量の行方不明者の続出も<家族会議の結果>であるとして10年余の長きにわたり治安当局も報道機関もそこに<犯罪>を見てこなかった事件。すなわち、尼崎の「大量監禁-傷害致死・遺体遺棄事件」などは、正しく、この戦後民主主義の「市民の性善説」が(加之、「在日韓国人の性善説」も?)作用した人権侵害、否、人格否定事件だったの、鴨。

蓋し、この社会はいまだに戦後民主主義イデオロギーに毒され/世界と戦前の日本では常識であったであろう真っ当な犯罪観から分断隔離されている。と、そのような危惧を私は払拭することができません。而して、本稿は、そのような戦後民主主義的の犯罪観から逃れ、戦後民主主義イデオロギーの呪縛から日本人が自らを解放するための試論。具体的には「応報刑思想」(★)による犯罪観再構築の提案です。

★註:応報刑思想

刑罰論としての応報刑思想(=応報刑主義)は所謂「教育刑主義/目的刑主義」と対立する考え方とされています。刑罰を「犯罪への報復」と考えるか「犯罪を減少させるための手段」と考えるかをメルクマールにすれば、元来、応報刑主義は前者に立つと理解されてきたということ。他方、刑罰を正当化するロジックとしての応報刑思想は、「報復としての刑罰理解」「罪と罰の均衡を求める思想」「犯罪者が甘受すべき道徳的な非難を刑罰の根拠に位置づける思想」と緩やかに捉えられています。

私は、藤木英雄・大谷実、あるいは、団藤重光・小野清一郎・メツガー等々の主張を踏まえた上で、応報刑思想を「犯罪によって空洞化された法秩序を回復することをもって刑罰の正当性を基礎づけるアイデア」という意味で使用しています。よって、この意味の「応報刑思想」は、一次的には刑罰を「犯罪を減少させるための手段」と観念する機能主義的な犯罪論の土俵に収まりきれない(人倫の秩序、あるいは、法秩序全体の正当性の維持に主な関心を置く)抽象度の高い主張。

他方、応報刑思想は、機能主義的な刑罰論の次元にそれが投影される場合には「犯罪と刑罰の均衡」を通して社会の遵法意識の涵養と刑罰の一般予防効果に重きを置く主張としても理解可能です。ちなみに、犯罪を引き起こす蓋然性の高い個々具体的な人物を矯正・隔離することで犯罪から社会を防衛しようというアイデアを「特別予防」、それに対して「一罰百戒」的の効果によって社会の大方のメンバーに犯罪を思い止まらせる(反対動機を形成せしめる)ことで犯罪から社会を防衛しようというアイデアを「一般予防」と言います。(註終了)






再度記します。私は、戦後民主主義の「犯罪観=犯罪者性善説」の跳梁跋扈は
最早<市民>の許容するものではないと考えます。

例えば、①少年法自体にはなんの規定も存在しないにも関わらず、犯罪を犯した時点で少年であった加害者の実名報道は「少年法の精神から見て:触法少年の社会復帰後の生活と更生のために」刑の確定後も原則無制限に続けられている現状。あるいは、②在日外国人被疑者に対する「実名報道」忌避の趨勢。他方、③それら戦後民主主義的のルールに抗して実名報道を行ったマスコミ媒体やネット記事に浴びせられる「人権侵害!」のレッテル貼りの嵐、それこそ現行憲法の保障する表現の自由を蹂躙してなんら恥じることのない<人権侵害>のバッシングの嵐。

例えば、④廣島の母子殺人事件やオウム真理教教祖の裁判に端的な、死刑判決/死刑執行を回避・遅延するためにはどんな荒唐無稽な上告理由や再審理由を持ち出しても許されるとする人権派弁護団の性癖。

加之、⑤それ自体紛うかたなき違法行為(★)であるにも関わらず、死刑確定囚に対する死刑執行命令を出さない法務大臣を容認する大方のマスメディアの姿勢;何より、新たに任命された法相に対して「死刑執行命令は出すのですか」と、法的には無意味な質問を十年一日の如く繰り返し問いかけているマスメディアの異常な姿勢!

犯罪を巡るこれら、<市民>の法感情と法意識から遊離した現状は、最早、(あらゆる法の効力の基盤が国民の法意識でしかない以上、)日本社会が法治国家であり続けるための基礎を危うくするもの、鴨。蓋し、<市民>の法的確信から離反したこのような刑事司法の状況は、早晩、犯罪と犯罪者に対する自力救済、すなわち、復讐を誘発しかねず、畢竟、それは社会の不安定要因である。そう私は考えます。

★註:法務大臣の死刑執行命令

刑事訴訟法は「法相の死刑執行命令」についてその475条でこう定めています。

1項:死刑の執行は、法務大臣の命令による。
2項:前項の命令は、判決確定の日から六箇月以内にこれをしなければならない。但し、上訴権回復若しくは再審の請求、非常上告又は恩赦の出願若しくは申出がされその手続が終了するまでの期間及び共同被告人であつた者に対する判決が確定するまでの期間は、これをその期間に算入しない。

例えば、東京地裁平成10年3月20日判決の如く、この刑事訴訟法475条2項を「それに反したからといって特に違法の問題の生じない規定、すなわち法的拘束力のない訓示規定」と解する見解があるにせよ、少なくとも、文理上は「法務大臣は判決確定の日から六箇月以内に死刑執行を命じなければならない」ことは明らか。要は、「それに反した」ケースはあくまでも例外的な事態であるはずであり、ならば、「それに反した」ケースが大多数である現状は毫も刑事訴訟法475条2項の想定するものではない。

加之、看過すべきでないのは、475条2項但し書きは、「上訴権回復若しくは再審の請求・・・共同被告人であつた者に対する判決が確定するまでの期間」を法相が敢えて算入して六箇月以内に死刑執行命令を出すことを禁ずるものではないということ。そのケースと475条2項但し書きは無関係。なぜならば、この但し書きは「六箇月以内に執行命令を出さないことを正当化する事由」を規定したものであり、六箇月以内に執行命令を出す逆のケースと本条但し書きは謂わば「捻れの位置」にあるからです。尚、死刑を巡る私の基本的な考えについては取りあえず下記拙稿をご参照ください。(註終了)

・野蛮な死刑廃止論と人倫に適った死刑肯定論
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11139881999.html





繰り返します。蓋し、この国を自力救済の復讐の嵐に巻き込みこの社会をアノミー状態(社会統合の基軸たる社会規範の権威が揺らぐことに起因する社会の全般的かつ一斉的の無秩序状態)に陥らせかねない戦後民主主義的の犯罪観は、2009年5月21日以降も、すなわち、裁判員制度の施行後も残念ながらその邪な<神通力>をそうは弱めてはいない、鴨。なぜならば、戦後民主主義的の犯罪観再生産の心臓部たる、司法当局とマスメディアがその歪な姿勢を反省し歪んだ行動を改めたとは私には到底思えないからです。

これとほぼ同じ認識に立って10年前に書いたコメントがあります。自分のHPの日記コーナーに書いた次の独白。我ながら10年後の今もそう大きく書き改める必要は感じない。そして、このこともまた裁判員制度導入によってもこの社会の犯罪と刑罰を見る歪んだ見方にそう大きな変化はないのではないかと私が確信する理由の一つです。尚、「裁判員制度」自体については(上の記述と矛盾するようですが、さりとてどのような制度も万能の特効薬であるはずもなく)、私はかなり肯定的に捉えています。「裁判員制度」に対する私の基本的理解については本稿末尾の「資料」もご一読いただければ嬉しいです。


▼国家が死刑判決を出さないのなら「仇討ち制度」が復活する

平成15年10月9日、前橋地裁で当時16歳だった高校生を誘拐し殺害した被告人に無期懲役の判決が下された。久我泰博裁判長は、被告人退廷後、傍聴席に残っていた被害者遺族に対して、「国家が死刑判決を出すことは大変なこと、納得できないでしょうが、納得してください」と声を掛けたらしい。この報道を目にして思った。「国家が死刑判決を出さないのなら仇討ち制度が復活する」、と。

それは私の偽らざる気持ちであるだけでなく犯罪と刑罰を巡る法理からも当然の帰結だと思う。死刑を容認する日本国民の法意識と法感情を鑑みれば、死刑は現在の日本ではいまだ国家が被害者と被害者遺族に代わって発動する制裁のメニューに確実に入っているだろう。ならば「国家が死刑判決を出さない社会における仇討ち制度の復活」は論理必然の帰結だろう。

而して、それは、アムネスティー等のカルト的な反死刑団体や朝日新聞がしばしば言うように「激情にかられた感情論」だけではないだろう。もちろん、「厳罰=極刑」を求めるのは国民の感情論ではある。けれど、その感情論は同時に法理の構成要素でもあるから。なぜならば、犯罪と刑罰に関して圧倒的多数の国民がそのような法感情を抱いているという事実は、裁判所たる裁判官の判断を拘束する法解釈の枠組みに他ならないからだ

畢竟、私には、現実の国民の法感情の所在を冷静に勘案することもなく馬鹿の一つ覚えの如く「冷静に冷静に。厳罰化では問題は何も解決しませんよ。犯罪者を死刑にしても被害者が生き返るわけでもないですしね」「被害者遺族には死刑判決よりも専門家による(加害者との<和解作業>も織り込んだ)心のケアの方が重要。犯罪の撲滅には厳罰化よりも犯罪者に犯罪を選択させたこの社会の歪みの究明と是正が大切です」と唱え続けている朝日新聞やカルト的な死刑反対論者の「冷静なる言説」こそ「惰眠を貪る感情論」に思えてならない。


<海馬之玄関HP・2003年10月10日





<続く>



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