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英文読解 one パラ道場:英語教材として読む安倍談話-余滴-「法と国家」の語源譚的随想(中)

2015年12月03日 19時57分24秒 | 英文読解 one パラ道場



▼citizen-people
次は、シチィーボーイの「シティー」。ちなみに cityの方がcitizenから成立した単語なので、いきなり、citizenから。citizenのL語源は「コミュニティーメンバー」そのもの。しかし、これまた、IE語源まで遡るとき、その「コミュニティー」は価値中立的な任意かつ匿名の「A市」や「B町」ではない<我が村>や<我が谷>や<我が浦>のこと。よって、ローマの citizen は「公民権者」として、「法の保護を受ける権利と同時に、公職につく特別資格、および、兵役に応じる義務を負った、かつ、両親共にローマ市民のひと」の意だったのです。

換言すれば、多くの同輩市民も<ローマ市民>である彼のことを--ここで「彼」なのは、日本同様、ローマでも、女性、「彼女」は隠然たる政治的と経済的パワーを持っていたのですが、ここで言う「市民=公民権の主体」にはなれなかったのです--顔も気質も、彼女がだれで元彼女がだれかも、懐具合もカラオケの十八番も、直接よぉーく、知っている<ローマの市民>であった、vice versa。

何を言いたいのか。それは、具体的かつ歴史的に1回きりの特殊特定のコミュニティーと切り離されたところでは--政治の現実的清濁などではなくて--観念的にもローマで<citizen>であることなどできはしなかったということ。冗談抜きに、誇張抜きに、究極、<ローマの市民>とは戦争でローマのために死ぬ覚悟がある--と、嘘でも公式には--看做される<彼>のことだったということ。ここにJFKの就任演説で登場した「犠牲:sacrifice」すなわち「the graves of young Americans that surround the globe」が<国家>の理解にとってかなり本質的なことの論理的な泉源があるの、鴨。換言すれば、<市民>と<ローマ>は、一般化すれば、L語源における citizenとその彼や彼女のコミュニティーは、歴史的と論理的に、運命的の共同体でしかないということでしょうか。と、では「people」は如何。

「people」もまた中英語期の新参者にして、当時の行政事務用語であったらしい。しかし、peopleのL語源が「citizen-body」であることを鑑みれば、蓋し、「citizen」と同様、「people」に「社会契約論」や「天賦人権論」、あるいは、「民主主義」の語義・語感の入り込む余地は露ほどにもない。ことほど左様に、citizenとパラレルに、people、まして、nationやcountryと「民主主義」なるものとは語源的に位相を異にする。「民主主義」なるものは共同体を巡る語彙ではないから。ならば、「民主主義」が制度的概念としての「state」とは親和性がいくらかあるとしても、国家の社会統合の理念的・思想的の根拠を思索する際には、「democracy」は無関係で無意味な「単語」である。と、そう私は考えます。実際、世界ではあんまり「民主的」とは思えない国の方が、むしろ、好んで国名にこの形容詞を入れてたりしますしね。例えば、the Democratic People's Republic of Korea(北朝鮮)。

・民主主義--「民主主義」の顕教的意味
http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/65226712.html 

・民主主義--「民主主義」の密教的意味
http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/65226739.html

・民主主義とはなんじゃらほい
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/65344550.html






▼republic-commonwealth
nation とstate, countryの語義を一瞥した今。検算として「republic」「commonwealth」の語義も考えておきましょう。republicは[res-:存在するもの][-publica:公共の]、commonwealthは「common-:共通の」「wealth:財産/幸福」。これは、例えば、ラテン語の[家:domus]から派生した domain(領地/英国の完全土地収用権/知識や活動の得意分野)のような「我が家/我が氏族の領地/我が一族の財産」とは反対に「我」からきっぱりと離れている語感が特徴。そう、特徴がないのが特徴。「太郎」「花子」「山田太郎」「鈴木一郎」とパラレルな抽象度の語彙。蓋し、この2点、

(1)社会の個々すべての構成メンバーから等距離に存在する
(2)ある共同体を他の共同体から区別する特徴に乏しい語義


これらが、逆に、「republic」「commonwealth」の言葉が考案され/発掘され、「これ便利だね」と、現在に至るも廃語にならずきた背景なの、鴨。要は、それまでにない権力のあり方を指そうとするとき、また、それが権力の私利私欲の帰結ではない、なにより、個々のメンバー間の諸々の利害に関しては公平・公正で中立的な存在であることをアピールしたいときにこの言葉は確立したの、鴨。実際、確かに・・・、--

英国で「commonwealth」を創ったのは誰か、それは護国卿・クロムウェル。 --「余は共和国の皇帝にして共和国の守護である」と「republic」をその自身の戴冠式で讃えたのは誰か、それは、「羽柴」改め「豊臣」と改姓し<太豊閤>になったばかりのナポレオン・ボナパルト。 --大英帝国の解消以後、各々独立した旧英領植民地諸国が互恵のために英国を首座に据えて取り結んでいる54カ国(±α)の「英連邦システム」の呼称は何か、それは「commonwealth」。 --旧ソ連崩壊後、旧ソ連邦諸国が互恵のために形成した10余国の組織体の名称は何か、それも、「commonwealth」。 --くどいけど最後に、北米の旧英領13植民地が、連合を創り、更に、それを連邦にしたとき、その新しい自国、United States of Americaを建国の父祖達は何と規定していたか、それは「republic」。 --・・・

* * * *
>王党派と清教徒の諸派が政治的にも文化的にもバトルロイヤルしていた英国
>王党派残党、および、諸外国の圧力の前に<革命体制>の視界不良のフランス
>植民地独立の嵐が渦巻き状に世界を覆った第二次大戦後の30年間
>社会主義崩壊後の無重力状態が不気味だった20世紀末葉
>連邦派と州権派が呉越同舟していた建国時の「アメリカ合衆国」



これらを反芻するとき、上記(1)(2)も満更間違いではないのではありますまいか、ありますまいか。と、そう私は考えます。畢竟、「republic」も「commonwealth」も、(ⅰ)現実のある特定の「国家:the nations」に抗すべく/「国家:the nation」として自国がより有利に立ち回るべく、(ⅱ)論理的には「nation-citizen」を超えるより高い抽象度の something を措定することで、しかし、(ⅲ)実際には自国が一つの固有名詞付の「the nation」となること、就中、「nation state:国民国家/民族国家/主権国家」として独立できる/より有利な国際関係を獲得するために採用された。「republic」と「commonwealth」はそのような二つの顔を持つヤヌス的な--リベラル派にとっては「面従腹背」的な、保守派にとっては「風車の弥七」的な--語彙なの、鴨。

而して、あたりまえのことですが、普通名詞の「republic」「commonwealth」など世界のどこにも存在していない。ならば、この検算から得られる認識は、蓋し、citizenは当然のこと、peopleもまたそれが語源的に--漠とした「人々」などではなく、国民・民族級の人口規模での「citizen-body」、よって、「people」もまた、具体的なある国家と民族の--「nation」の!--「people」でしかありえないということでしょう。そして、JFKの就任演説における「people」も、大凡、この語義・語感に立つとき最もスピーチ全体と調和するのではないでしょうか。

愛は誤解から始まり科学は曲解から始まる。これは、分析哲学の立場に立つ法哲学者の碧海純一さんが自嘲気味に呟いていた言葉だと思うけれど、やはり、真理は常識にあり。「山田太郎」はいざしらず、「山田花子」「桂太郎」「麻生太郎」には特定の意味がある(笑)。なにより、例えば、「相模太郎」--相模守に任じられている太郎さん--という「地名・官職名+人名」のこの普通名詞は、北条氏全盛期の北条得宗家当主の公的な別称。権門体制下、権力関係が錯綜した当時の日本において、この<中空>の普通名詞は、国家資源の適正配分において意味を持っていたのではないか。その「相模太郎」の一人は、蒙古・高麗・旧宋の連合軍を海のモズクじゃなかった玄界灘の藻屑にした、北条時宗その人だったのですから。



▼「国民国家」vs.「民族国家」
nation・state・country、ならびに、citizen・people の語義・語感をそれらの語源から一瞥した現在。蓋し、一つの謎が解ける、鴨。そう、それは、現在、日本では「nation state」について「国民国家」と「民族国家」の二つの訳語があることの謎。まあ、合理的な理由と必要があれば二つだろうが三つだろうが訳語が幾つあっても悪くはないのだろうけれど、--例えば、弊ブログの社会科学方法論における立場、「分析哲学系現象学流新カント派アメリカプロセス法学一家」(微笑)の視座からは、「transzendent」を「先験的」と「超越論的」に都度訳し分けしていますもの、閑話休題。--これはいかにも、リベラル派の苦渋の措置のような気がしないでもありませんでしたから。

>国民国家-nation state
>民族国家-nation state


リベラル派のファンタジー、例えば、
 ↓ ↓ ↓
人類史に燦然と輝く「市民革命」が起きて、「天賦人権」がいよいよ下界に降臨し、そいでもって、厳かに--しかし、誰も知らないうちに--「社会契約」が取り結ばれた。而して、「立憲主義」のもと「立憲主義的意味の憲法-近代的意味の憲法」ができ、「共和主義と専制支配」の対決した<源平騒乱>第一次大戦、「民主主義と全体主義」が雌雄を決した<関ヶ原>第二次大戦を契機として、「立憲主義」も--「法律は法律だ」の「法治主義」と親和的な--形式的なものから、「民主主義」に時には「基本的人権」が道を譲らせ得る--「法の支配:rule of law」と親和的な--実質的なものにバージョンアップして現在に至っているのですよ
 ↑ ↑ ↑
とかいう、--正直、「法の支配」「天賦人権」「共和主義」を始め、上のすべての括弧内の言葉に関する無知・誤解・曲解・非常識の、それはたまものだと思いますけれども--ファンタジーをここでは咎めないとして、では、なぜ、日本では、このようなファンタジーを信奉称揚するリベラル派は「nation state」に「国民国家」と「民族国家」の訳語を当てるのか。


確認。上のファンタジーで述べられた、最初の、市民革命後のある民族の共同体において、国家権力が統治する領土・領民を含めたその国家規模の共同体のイメージを彼等は何と呼んでいるか。そう、それが「国民国家」。しかる後、ウイルソン・サンタがくれた民族自決の旗のもと多くの民族が自前の国家を立ち上げたとき、その国家規模の共同体やそのイメージを何と呼ぶか。あるいは、そのような「一つの民族が一つの政治的単位としての国家を形成すべきだ」という主張を彼等は何と呼んでいるか。そう、それが「民族国家」であり「民族主義」。加之、個々の「国民国家」の中で「民族」の歴史や伝統に価値を見いだす、あるいは、他の諸民族と自民族との違いを根拠に人権の普遍性なるものに疑義を唱える主張をリベラル派は何と呼ぶか。そう、「ナショナリズム」。でもね、全部これ英語では「nation state」と「nationalism」なんですけど。


・「偏狭なるナショナリズム」なるものの唯一可能な批判根拠(1)~(6)
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11146780998.html

・戦後責任論の崩壊とナショナリズム批判の失速
 https://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/eb5f9dd62bb13f021d085909baf4d1d2

・ナショナリズムの祝祭としてのオリンピック  
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/996393535306da1e98ca58ca37c31e17

蓋し、日本のリベラル派は、「nation state」なり「nationalism」が、世界では--少なくとも、英語圏では --、リベラル派のファンタジーとは乖離した/無縁な、寧ろ、その語源に近い「国家」や「民族」、「市民」や「人々」が構成し、日々、その生活と人生を営んでいるような、<現実>を反映した概念として使われていることを看過している。それが英語力の不足か社会思想の知識の不足か、あるいは、その両方かどうかはわからないけれど、彼等は現実を看過している。

・「国家-nation」の語義・語感
>世界-歴史的に特殊な具体的な民族とその形成する国家
>日本-均一でアトムとしての個人が形成する観念的国家

逆に言えば、彼等は、「市民革命」にせよ「天賦人権」、あるいは、「社会契約」などは、現下の人類史の中では、単なる居候的や寄生虫的の--よくて、思想史の博物館の展示品とも言える--イデオロギーにすぎないことを看過している。それらのイデオロギーは先進国といわれる西欧諸国でさえ、実定法秩序の基盤イデオロギーではないことを看過している。というか精神性視覚障害に陥っている。と、そう私は考えます。

而して、リベラル派は、日本では自分たちに心地の良い方の「nation state」と「nationalism」は「国民国家」「民族主義」と呼び、他方、自分たちが批判したいタイプの「nation state」と「nationalism」には「民族国家」と「ナショナリズム」というレッテルを貼って仲間内で満足しているにすぎないということです。そう、それは「私が日本人なのはたまたまであり、別に、それは私がフランス人であってもブラジル人であっても、憲法論的には本質的な問題ではないのですよ」という感覚、カナ。畢竟、このリベラル派のさもしい「word choice」の現況は、ある意味、「nation」の語源からして約束されていた悲惨なの、鴨。

私はそう考えています。なぜならば、--フランス擾乱で人類史上初めて「国民国家」が成立して以降--数多の、ほんと、一山いくらのてんこ盛り状態だった「国家論=国家の概念論」の中で、「国家の死滅」を唱えたマルクス主義の国家論が消滅したのを最高のジョークとして、ほぼすべての国家論が消滅した現在、ケルゼンの法国家同一説とならんで唯一生き残っているものは「領土・領民・主権」の三要素を「国家」の属性とするイェリネックの国家論だけだから。





▼イェリネック国家論の秀逸-結語
国家とは何か、国民たる<私>とはどのような存在なのか。イェリネック(1851-1911)の「国家の三要素」なるものとして人口に膾炙する定義によれば、国家とは領土・人民・権力を備えた社会集団のことらしい。今でも日本では、大体、どんな書物にもそう書いてある有名で陳腐な定義。けれども、イェリネック自身は、名詞の形容詞用法である「国家の:Staats」をそれぞれの項に添えた上で「国家:Staat」を説明して、

・国家的領土:Staatsgebiet
・国家的人民:Staatsvolk
・国家的権力:Staatsgewalt

を備えた自生性と人為性の相矛盾する二つの貌を持つ社会集団と考えていました(die mit ursprünglicher Herrschaftsmacht ausgegründet Körperschaft eines sesshaften Volkes:自生的あるいは正当な統治権力によってまとめあげられた一個の定住する人々を他から切り離す社会集団)。これ、でも同語反復ですよね。つまり、「国家」を定義するのに「国家の」という同一の概念を用いているから。ならば、それは無意味か。はい。微妙なところですが論理的にはそう言える、鴨。

けれど、逆に、ここにこそイェリネックのセンスのよさが一閃している。而して、それこそ、マルクス主義からのそれを含む19世紀-20世紀初頭の数多の国家論の中で、ケルゼンの法国家同一説--法体系と国家を同一と見る国家論--を除けばイェリネックの国家の定義だけが生き残った理由ではないか。そう私は考えています。

すなわち、「国家」の概念規定などは不可能ということ。ならば、「国家の定義」は、このように統治権や国家的という観点からスタートする、ニワトリ玉子的に無限に続く螺旋的な思索--すなわち、間主観性を希求した行為としての思索--の過程で各論者が自分なりにイメージするしかないものだ、と。<国家>の定義は、論理的にはトートロジーであり無意味であるにしても、自己をある国家の一員と意識する<私>の間主観的な自己意識を媒介にすることなしには無意味どころか不可能である、と。

かなりの我田引水ですがイェリネックの国家論を私はそう理解しています。少なくとも、「国家」を--諸国家から抽出される国家の事物の本性や国家一般のイメージたる<国家>も、時間的にも権利的にも国家や憲法の前に存在する天賦人権を確保すべく、これまた時間的と法的の二重の意味で国家に先行するらしいアトムとしての等価な--市民が社会契約によって人為的に形成したものなどとはイェリネックが毫も考えていなかったことだけは確かでしょう。


・定義集-「国家」
 https://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/11e73438ed3c960be96ce179877bd1a7

・保守主義-保守主義の憲法観
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11144611678.html



▼結語
畢竟、具体的な歴史と文化を共に呼吸する「nation」のメンバーでない「個人」や「市民」などは現実の世界には--フッサールの言う意味での、各自が各自を<他我>存在であると<確信>した上で「生きられてある」間主観性のある世界、あるいは、カール・ポパーの言う「世界Ⅲ」としての世界には--、一人も存在しないということでしょう。ならば、歴史的に特殊な具体的なこの「nation」においては、--その法的効力においては、もっともそれはあくまでも法体系相互の授権連関からみてですけれど、国際法が国内法を超えることはありうるとしても--その内容をある国の実定法秩序が容認しないような、人類に普遍的な基本的人権なるものなどは法論理的に存在することはない。畢竟、天賦人権論は瓦解している。そう、私は確信しています。

V(^◇^)・・・おわり



・瓦解する天賦人権論-立憲主義の<脱構築>、
 あるいは、<言語ゲーム>としての立憲主義(1)~(9)
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/0c66f5166d705ebd3348bc5a3b9d3a79





<「法の語源」に続く>



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