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「左翼」という言葉の理解に見る保守派の貧困と脆弱(1)

2010年10月26日 17時05分07秒 | 日々感じたこととか


社会主義・共産主義に対する資本主義・自由主義の最終的勝利(1989年-1991年)が歴史的に確定して早20年。現在では、自身を「社会主義者・共産主義者」と規定する論者はほとんど相手にする必要のないほどの少数派であり、今更「左翼」の定義を云々する実益はないようにも思われます。しかし、現下我が国の民主党政権を見るまでもなく、世には「リベラルの羊の皮を被った左翼の狼」が少なくない。そして、保守派の中には「左翼-リベラル」に対する不勉強からか、例えば、民主党政権や支那政府に対する些か見当違いや筋違いと思える左翼批判もまま見られる(而して、それは「左翼的でないものに対する左翼批判」であり、敵に的確なダメージを与えられていない節も少なくない)。畢竟、これが屋上屋を架す趣もなきにしも非ずではあるけれど、本稿をアップロードしようと考えた所以です。

最初に本稿の結論的な「左翼」認識を明示しておきます。

計画経済と生産手段の国有化を通して国家社会の経済的・文化的な発展(要は、生産力の増大と、社会主義社会・共産主義社会の生産関係およびそれらの生産関係と整合的な価値観や社会規範をより多くの人々が内面化すること)を成し遂げた上で、国家権力の死滅を志向する社会主義の不可能なことが歴史的に証明された現在。

国家権力と資本主義を否定する心性と理論を「左翼」、国家の個人に対する文化的介入を忌避しながらも(資本主義下の)資源と所得の再配分領域では国家権力の積極的な活動を要求する心性と理論を「リベラル」と名づける場合、日本の民主党政権や70年安保後の全共闘解体によってエコロジー運動や市民運動に流れ込んだ「リベラルの羊の皮を被った左翼の狼」の立場は、国家権力ならぬ国家自体を否定しながら国家権力の機能の拡大を目指す社会思想と定義できる。

要は、それは性善説的と天動説的な予定調和の国際政治認識と社会秩序認識に基づき、他方、同じく天動説的に国家権力の機能に万能感を覚える、国家や民族、家族や地域コミュニティーの価値を否定する強権支配の社会思想。それ正に、(国家権力にこれ以上ないほどどっぷりと依存しながらも、その国家権力を生み出す国家社会に自生する伝統的な価値を軽視無視、軽蔑中傷してやまない)鼓腹撃壌的の強権支配の社会思想である。と、そう私は考えています。   


本稿の目的は2010年の現在、保守派にとって「左翼-リベラル」を批判するために必要な「左翼」という言葉の意味内容の提示であり、他方、「左翼」という言葉を巡って観察される保守派の議論の無知と非論理性、すなわち、貧困と脆弱さの指摘です。而して、本稿は左翼の思想内容に踏み込むものではなく、あくまでも、保守派の思考と議論、行動と運動をより生産的にするためのものです(よって、「左翼」の中核を占めるマルクスの思想と保守主義に対する私の基本的な理解については下記拙稿をご参照ください)。

・読まずにすませたい保守派のための<マルクス>要点便覧(1)~(8)
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11139986000.html

・保守主義の再定義(上)~(下)
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11145893374.html



◆保守派の「左翼」理解の貧困

この社会では現在次のような大雑把な思い込みがまかり通っている。蓋し、この程度の認識に基づく「左翼-リベラル」批判などは「左翼-リベラル」にはおそらく何の痛痒も与えない。再度記しますが、このような小さいけれどくっきりとした危惧が本稿執筆の動機なのです。所謂「夫婦別姓法案」に関してある「保守派氏」慷慨して曰く、

夫婦別姓法案が招来するであろう「家族解体」が、我々保守派の単なる危惧かといえば、勿論そうではない。この法案の目的は、明確に「家族解体の完成」に他ならない。マルクス・レーニン主義において、「家族解体」は必須事項であり、目下これを実行せんと躍起になっているのは、生粋の極左ばかりである。


而して、「マルクス・レーニン主義において、「家族解体」は必須事項」という点に関するこの論者の根拠は、例えば、『共産党宣言』(1848年)の次の記述ということ。

家族の廃止! もっとも急進的な人々でさえも、共産主義者のこの恥ずべき意図に対しては激怒する。現代の家族、すなわち、ブルジョア的な家族は、何に基礎を置いているか? 資本に、私的営利にそれは基礎を置いている。完全に発達した家族は、ブルジョア階級にだけしか存在しない。しかも、そういうブルジョア階級の家族制度を補うものとして、家族喪失と公娼制度がプロレタリアに強要されている。

ブルジョアの家族は、この補完物がなくなるとともに必然的に消滅することになる。そしてその両者は資本の消滅とともに消滅することになる。・・・

ブルジョアにとっては、その妻は単なる【子供の再】生産用具に見える。だから、生産用具は共同に利用されるべきであると聞くと、彼等は当然、共有の運命が同様に婦人を見舞うであろうとしか考えることができない。ここで問題にしているのは、単なる生産用具としての婦人の地位の廃止だ、ということには、ブルジョアは思いもおよばない。

(KABU訳,但し、岩波文庫版 pp.63-64参照)    


貴族の令嬢を妻に向かえ、その正妻から生まれた娘達には極めてブルジョア的な教育を施しながらも、女中との間に生まれた息子はプロレタリア的に処遇して無教養なまま放置したマルクスの事跡を想起するまでもなく、ここでマルクスが述べているのは、プロレタリアートが家族を持てない状況に置かれていること(独身であるか、売春婦とその顧客であるかでしかない状況)の糾弾であり、その状況の上に咲く徒花としての「ブルジョアの家族」が社会主義への移行にともない(「ブルジョアの家族」を成立させてきた、「資本の自己増殖運動」をエンジンとした経済構造や社会的諸条件の消滅とともに)消滅するという予測以上でも以下でもありません。

実際、エンゲルス『家族、私有財産、及び国家の起源』(1884年)を除けば、マルクス=エンゲルスの著作には「家族」どころか「宗教」または「民族」の本性に焦点を当てた理論的考究はない。而して、欧米において、1975年~1995年に亘って続いた、マルクス主義フェミニズムとリベラルフェミニズムの論争において、「マルクスの思想や「マルクス-レーニン主義」からフェミニズムが演繹、補強・正当化できるのか」という点は主要な論点でしたが、マルクス主義側から(「売春は人類最古の職業」であることでも自明なように、最も、理論化し易い「再生産拠点」としてさえも)家族の規定や家族の解体が、マルクス主義を根拠にして立論可能という主張はつい成功しなかったと言えると思います。

畢竟、この経緯は、例えば、日本にマルクス主義フェミニズムを輸入した第1世代とも言うべき、上野千鶴子氏の主著『家父長制と資本制』(1990年)の冒頭第1章で彼女自身が書いているように、マルクス主義フェミニズムからのマルクスと「マルクス-レーニン主義」に対する不満は、それらが労働力の再生産システムとしての家族を「市場」の外にあるものとして分析と批判の対象から外したこと(逆に言えば、社会主義社会・共産主義社会になれば自動的に家族の問題は解消すると楽観視していたこと)にあったことからも明らかであろうと思います。

ならば、例えば、「宗教は民衆の阿片である!」というマルクス『ヘーゲル法哲学批判序説』(1844年, 岩波文庫版 p.72)という名文句を引き合いに出して、というか、この1センテンスだけを根拠にして(宗教嫌いだったエンゲルスや、宗教や信仰には無関心、「敵対する宗教勢力=ギリシア正教」は弾圧し、「味方の宗教勢力=イスラーム」とは手を携えたレーニンとは異なり、スターリン同様に宗教や信仰に対しては微妙な立場に生涯終始したマルクスから)左翼は宗教を否定しているという結論を導き出すのと同程度に、上に引用した如き、「左翼→夫婦別姓法案推進論」認識は、社会学的にはその傾向性は認められるものの社会思想的には「1対1」的に成立するものではない。畢竟、このような筋違いの批判は現実に夫婦別姓法案を推進しているリベラル勢力にとっては(再々の言い草になりますが)痛くも痒くもない批判、保守派の無知の表明にすぎない。尚、夫婦別姓法案に関する私の批判については下記拙稿をご参照いただければ嬉しいです。

・完全攻略夫婦別姓論要綱-マルクス主義フェミニズムの構造と射程
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/32678755bd2656513241097aae7b6254


◆過剰なる「真正」の二文字

保守派の仲間内での議論の場面と、現下の政治課題を巡って「左翼-リベラル」を批判する場面とでは、左翼の用語や思想に対して要求される知識の量と精度は自ずと異なるでしょう。後者の場合には、保守派ではなく、「黒猫でも白猫でも鼠を取る猫が良い猫」だと考える人々。つまり、「左翼-リベラル」でもそれが「鼠を取ること=社会の安寧と繁栄」を実現できるのなら「良い猫=良い政権」と考える広範な「国民-有権者」が想定される聴衆の多数派なのでしょうから。

而して、前項で述べた保守派の「左翼」理解の水準の低さに関連して、ある意味、その裏面として常々気になる現象があります。それは、ネット上には「真正保守主義」とか「真正護憲論」とか、やたらと「真正」の二文字を自称する論者が散見されること。大体、世間では「自分は正直者です」という人物に限って詐欺師なのは常識だから(笑)。実際、例えば、刑法学で言うところの「真正不作為犯」「不真正不作為犯」の場合には、

・真正不作為犯
不解散罪(刑法107条)、不退去罪(130条)、保護責任者遺棄罪(218条後段)等々、刑罰法規が不作為の実行行為(構成要件に該当する行為)を予定している犯罪

・不真正不作為犯
刑罰法規が作為の実行行為(構成要件に該当する行為)を予定している犯罪を不作為で実現する場合


と、刑法理論が与える定義によって間主観的に「真正」「不真正」の意味が定まるのですが、自身や仲間内で「真正保守主義」などと100万回雄叫びを上げたところで、他者にとってその「真正」の二文字は単なる余計な「形容句」にすぎない。

もっとも、しかし、英米流の分析哲学、例えば、J.A.オースティンの先駆的分析が明らかにした如く、言語行為は「事実の記述」のみならず(遺言や契約の申込と承諾の如き)「意思の表明」や「意思の確定」、あるいは、「威嚇」「哀願」「感情の吐露」等々様々な機能を帯び得る。ならば、「真正保守主義」を自称する論者が個人的に「真正」の二文字を愛用することは自由ではある。ただ、ここで一つ理解されるべきは

「真正」の二文字を用いたからといって、彼や彼女の主張が保守主義に親和性のあることを保証するわけではなく、また、彼等が「何が保守主義であるか」を間主観的に定め得る立場にあることを保証しているわけでもない 


ということです。実際、往々にしてこれらのブログでは、他者を「左翼」と認定すればそれで「相手に対する批判が完了した」と考えている節もまま見られる。而して、前項で述べたような「左翼」理解の貧困とあいまってこのような「真正保守主義」なるものを標榜する論者は、保守主義の対極にあるはずの教条の色彩を漸次濃くしているのではないか。と、そう私は危惧しています。


<続く>


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