余談ですが…
幼稚さを笑われてしまうかも知れませんが、私は、子供の頃に聞いたお話の中のお釈迦様のおいでになる楽園が、多分そのときに描いたイメージの侭に、ふとしたことで思い出だされて、それが私の遙かな目的地のように感じることがあります。
お釈迦様が霊界や浄土(極楽)など実際に説いたことはなかったと学んでからも、これは変わりありません。それはそのまま大切にしていたいと思います。
…余談終わり
以下は、私が真如苑を論じるために必要な現在の日本仏教につながる歴史を、私なりに概括するもので、細かなところで別な流れがあったり、また別な見方もあることを否定するつもりはありません。
人間が、人間の知力の及ばない偉大な力が存在することを認識して、これに畏敬の念を抱くようになったのはいつごろなのでしょうか。恐らくは文明の発祥の地とされるいくつかの地域で、文化というほどのものの萌芽よりもさらに遡った時期に、天災や疫病などの知力を超えた力の中に「怒り」などの意思を感じとった人たちが、それを鎮めようとして、家族やなどで儀式のようなものを行うようになり、さらにこの原始信仰的儀式・行事がより広く、より発展的に行われるようになって、各地域文明の基盤ともなったのではないかと考えます。
古い伝統を持つ仏教やキリスト教などの現代の大宗教も、いずれも同様に、上のような原始的俗信に起源を持つと考えられ、それぞれの始祖とされる聖人たちも、突然に啓示を得たとか、神の使いだったとか、或いは生まれつき仏啓・神智をそなえていたとかというのではなく、それぞれ上のような古くからの地域的信仰の上で信望を集めた修行者などが、語り継がれる時の流れの中で権威づけられ神格化されて、始祖・開祖などと他から仰ぎ称されるようになったと考えるのが正しいのではないかと思います。
釈迦もキリストも、自らを信仰の対象として名乗ったことはなく、また、その弟子たちや同時代の多くの人々も崇敬はしても、現代の私たちのようには神格化も絶対視もしていなかったことも明らかであり、時を経て伝承される中で多かれ少なかれ伝説化・神話化されたという事実を見落としてはならないと思います。仏教もキリスト教も、釈迦やキリストの存命中に他信仰から分離独立した宗教としての体裁が整っていたのではなく、経典類も編纂の時代を追って、それぞれ自宗自派を権威づけるための修正と補綴が行われたであろうということは多くの研究者の意見が一致するところです。
大乗諸仏典は釈迦の没後約1000年も経った4~5世紀ごろに編纂されたと言われますが、その頃インドで広まっていた(仏教とは別ルートの)密教と浄土思想を包み込んで中国に伝えられて漢訳され、中国仏教諸派の拠となっていたものが、日本からの遣唐留学僧であった最澄・空海によって日本にもたらされて成立したのが日本における天台宗と真言宗です。これら二宗は、その密教部分と浄土思想のゆえに朝廷の庇護を受けたり貴族階級に歓迎されたりしたことから急速にその勢力を拡大し、聖徳太子以来の国家護持的仏教思潮に取って代わり、既存諸宗派に影響を与え、また新しい宗派を生んで今日の日本仏教界の背景となっています。
ここで最澄と空海が持ち込んだものが、いったいどれだけ釈迦仏教につながるものであったかということに、真如苑に関する議論にもつながる大きな問題があると考えますが、本日は(少々旅の疲れがあり)ここまでにさせていただいて、続きは近日回を改めて述べさせていただきたいと思います。
投稿者さんのコメント:
一緒に生まれた兄妹なのですが、黒白デコくんの発育がよく、とってもきかん坊で、
妹のべっ甲ベアちゃんはちょっと気の毒です。でも、負けずにがんばっています。
幼稚さを笑われてしまうかも知れませんが、私は、子供の頃に聞いたお話の中のお釈迦様のおいでになる楽園が、多分そのときに描いたイメージの侭に、ふとしたことで思い出だされて、それが私の遙かな目的地のように感じることがあります。
お釈迦様が霊界や浄土(極楽)など実際に説いたことはなかったと学んでからも、これは変わりありません。それはそのまま大切にしていたいと思います。
…余談終わり
以下は、私が真如苑を論じるために必要な現在の日本仏教につながる歴史を、私なりに概括するもので、細かなところで別な流れがあったり、また別な見方もあることを否定するつもりはありません。
人間が、人間の知力の及ばない偉大な力が存在することを認識して、これに畏敬の念を抱くようになったのはいつごろなのでしょうか。恐らくは文明の発祥の地とされるいくつかの地域で、文化というほどのものの萌芽よりもさらに遡った時期に、天災や疫病などの知力を超えた力の中に「怒り」などの意思を感じとった人たちが、それを鎮めようとして、家族やなどで儀式のようなものを行うようになり、さらにこの原始信仰的儀式・行事がより広く、より発展的に行われるようになって、各地域文明の基盤ともなったのではないかと考えます。
古い伝統を持つ仏教やキリスト教などの現代の大宗教も、いずれも同様に、上のような原始的俗信に起源を持つと考えられ、それぞれの始祖とされる聖人たちも、突然に啓示を得たとか、神の使いだったとか、或いは生まれつき仏啓・神智をそなえていたとかというのではなく、それぞれ上のような古くからの地域的信仰の上で信望を集めた修行者などが、語り継がれる時の流れの中で権威づけられ神格化されて、始祖・開祖などと他から仰ぎ称されるようになったと考えるのが正しいのではないかと思います。
釈迦もキリストも、自らを信仰の対象として名乗ったことはなく、また、その弟子たちや同時代の多くの人々も崇敬はしても、現代の私たちのようには神格化も絶対視もしていなかったことも明らかであり、時を経て伝承される中で多かれ少なかれ伝説化・神話化されたという事実を見落としてはならないと思います。仏教もキリスト教も、釈迦やキリストの存命中に他信仰から分離独立した宗教としての体裁が整っていたのではなく、経典類も編纂の時代を追って、それぞれ自宗自派を権威づけるための修正と補綴が行われたであろうということは多くの研究者の意見が一致するところです。
大乗諸仏典は釈迦の没後約1000年も経った4~5世紀ごろに編纂されたと言われますが、その頃インドで広まっていた(仏教とは別ルートの)密教と浄土思想を包み込んで中国に伝えられて漢訳され、中国仏教諸派の拠となっていたものが、日本からの遣唐留学僧であった最澄・空海によって日本にもたらされて成立したのが日本における天台宗と真言宗です。これら二宗は、その密教部分と浄土思想のゆえに朝廷の庇護を受けたり貴族階級に歓迎されたりしたことから急速にその勢力を拡大し、聖徳太子以来の国家護持的仏教思潮に取って代わり、既存諸宗派に影響を与え、また新しい宗派を生んで今日の日本仏教界の背景となっています。
ここで最澄と空海が持ち込んだものが、いったいどれだけ釈迦仏教につながるものであったかということに、真如苑に関する議論にもつながる大きな問題があると考えますが、本日は(少々旅の疲れがあり)ここまでにさせていただいて、続きは近日回を改めて述べさせていただきたいと思います。
投稿者さんのコメント:
一緒に生まれた兄妹なのですが、黒白デコくんの発育がよく、とってもきかん坊で、
妹のべっ甲ベアちゃんはちょっと気の毒です。でも、負けずにがんばっています。
私も同じように思っていたような気がするけど、
今は真如霊界がこわ~いって感じだけ。
戻りたいです。
こわ~いって、鈴ちゃんが何かしましたか?
何もしない人を怖がらせるなんて、それだけでも、宗教じゃない証になると思います。
こわいから行かないって言ってみたらどうでしょう?
ねこもかわいいでしょう?
いぬとは全くちがう魅力がありますよ。
>>私(如是我信)が、作り話かどうかを問題にしていると思われたのなら、間違いです。私は、作り話の全てが悪だなどと無謀なことは言いません。
http://blog.goo.ne.jp/k_nakaomi/e/8d8a4bfbcb5f730bb5d1a7860df8abb0
>だそうですが、言っています。
>>そもそも、「真如霊界」などという作り事をした段階で、既に悪意を持った教団だったということになるではありませんか。
>↑ これが証拠です。 語るに落ちていますね。
如是我信さんの回答は?
掲示板はあまり見ておりません。また、ためにする批判などに一々返答したり反論したりすることに意味があるとも思いませんが、わざわざお知らせいただいてのお尋ねですので、一応お返事させていただきます。
私が、「そもそも、『真如霊界』などという作り事をした段階で、既に悪意を持った教団だったということになるではありませんか」と匿名氏のコメントの返事に書いたのは、「(作り話が全て悪いというのではなく)『真如霊界』というような、仏教にはあるはずもなく、初めから人を騙す意図を持ってなされた作り話(嘘)は紛れもない『悪』で、これを教義の中心に据えた段階で教団(真如苑)は悪意をもっていたことになる。これが現在につながる真如苑の根本問題だ」ということを言おうとしたのです。
文章は文脈に即して、かつ常識を働かせて行間を読むもので、普通は意識しなくてもそれが出来ているものです。書く方も、意識するしないにかかわらず、読者を想定して、あるレベルの常識と経験を重ね合わせて読んでもらうことを前提に書くものです。
因みにブログ記事(初回記事)本文には、次の通り書いてあります。(カッコ内は原文にはありませんが、多くの方は判読してくださるはずの蛇足です。)
「(真如苑が)正法に基づく立教を主張するならば、なおさら、仏教の根本である「悟り」とは似ても似つかぬ他力本願の対象「真如霊界」などというものを教義に持ち込むことは理屈に合わないことになるのです。
(だから)「真如霊界」は、開祖の、仏に帰依し仏道に徹する高僧としてではなく、あくまで俗人としての思いつきと言うほかなく、仏教の伝統的修行の中での「悟り」とは無縁のもの(=人を騙して信仰させよういう意図をもった俗世の作り話)なのです。」
このブログは、タイトルからもご想像いただけると思いますが、既に真如苑について深い知識を有する方を対象にするものではなく、真如苑について疑念を抱いている方、これから真如苑について話を聞くことがあるかも知れない方々を念頭において進めて行こうとするもので、併せて枝葉のつきすぎた自分の考えも整理しようという目的も持つものです。
以上のことをご理解いただいて、もう一度記事本文を読み直していただければうれしいです。