風音土香

21世紀初頭、地球の片隅の
ありをりはべり いまそかり

吉報

2005-03-16 | 風屋日記
次男の高校入試、無事合格の報あり。
何はともあれ、よかった。

なんか、どっと疲れが出た(苦笑
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夜中、ひとりの居間で

2005-03-16 | 風屋日記
今日の仕事はちょっと重かった。
手足が忙しいということはあまりない。
頭がパンク状態になることはあっても・・・。

今日は「忙しい」でも「頭がパンク」でもなく、
言ってみれば、ちょっとヘビー。
寝不足なのに、この時間に目が冴えてしまっている。
奥歯を噛み締めて、タバコの煙とともに溜め息ひとつついて、
とりあえず足元を見ながら一歩ずつ。

至誠通天。
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自分らしい最期

2005-03-15 | 風屋日記
知人から、親しい人が急死したと聞いた。
今日は別の話題にしようと思ったけど、急遽変更。

先日、内科医をやっている友人からメールをもらったが、
用件の他に追伸で、以下のようなことが書いてあった。

 どんな名医でも教授でも、問診、触診、聴診器とレントゲンだけじゃ
 小さい癌は絶対見つかんないんだよな。
 見つかるのはでっかい癌だけ。
 助からんでっかい癌見つけてもしょうがないんだよ。
 大学出た頃よりは診断技術がかなりすすんだけど、
 まだまだだなー。

人を助けようと思って医師になってはみたものの、
現実の厳しさに直面しているホンネの言葉がそこにはあった。
彼は同級生なのでもう40代半ば、かなり信頼も得ていて結構な立場にある。
元県立病院の内科長でもある、もうベテランだ。
その彼にしてこのセリフは重い。

でもね、最近私は癌で死ぬのも悪くないと思い始めている。
どうせ、どんな形にせよ人間は死ぬ運命だ。
できることなら避けたいのは事故死や災害の犠牲になること。
一瞬のうちに生命が断たれるのは、やはりこの世に思いが残る。
そういう意味では、病気による急死も同じだ。
いつ突然発作が起こり、自分に死が訪れるのかびくびくして生きるのも避けたい。
うちの父がそうだったが、それが翌日なのか、次の瞬間なのか
疑心暗鬼になり精神的に参ってしまう。
脳卒中や心筋梗塞、一瞬ではないが重度の感染症などがそうだろう。

そう考えると、余命が宣告される癌は気持ちの切替えさえできるなら、
それらの事故や病気にくらべると時間的な猶予を持てる。
心の整理もできるかも知れない。
数年にわたって長く寝込み、周囲に迷惑をかけることもない。
余命半年、あるいは1年という宣告は、そう考えると理想的ですらある。

もちろん病気による苦しみや痛みは辛いだろう。
でもそれは死の苦しみであって、どんな死に方にもいえることじゃないのか?
楽天的に、ものを知らずに書いているわけではない。
自分自身の体験こそないが、
近しい方々が癌や糖尿病、心筋梗塞、白血病、結核などで亡くなるのを見送り、
事故や災害で家族、知人を亡くした方々の姿を見ての思いだ。

自分が生涯を終えるのはいつになるのだろう。
父や好きだった伯父、姪が向こうにいるし、別に恐くはない。
ただその時、自分らしい最期であれかしと思うだけだ。
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ホワイトデーの思い出

2005-03-14 | 風屋日記
半年程つきあった後は冷たくあしらっていた。
美人で頭もよく(某有名難関女子大出身)、
家もその地方の経済界では重鎮の会社を経営しているという女性だった。
もともとそんなに熱い思いもなく、何の気なしにつきあい始めたものの、
悲愴感が漂う程精一杯尽くしてくれる2才歳上の彼女の思いが
ちゃらんぽらんな学生の身にはかなり重く、
また他の女の子と立ち話をしているだけなのに、
そばまで来てその娘を睨みつける程の激情が少々イヤミに感じつつあった。

半年つきあい、その後数カ月程冷たくあしらったものの、
就職活動にあたり、私自身が弱気になっていたのかも知れない。
2月に入ってから、またちょくちょく呼び出して食事をしたりしていた。
バレンタインデー。
そんな日だということも忘れていて、その日も2人でお茶していた。
彼女が恐る恐るリボンがついたパッケージを取り出した。
「はい、これ。あのね、また彼女に戻ったって思ってもいい?」
その姿をいじらしく思いつつも、なぜか私は素直になれなかった。
私のとった行動は、無言でその包みを押し返しただけだった。
彼女は包みを掴み、出口そばのゴミ箱に投げ込むと
そのまま店を飛び出し、走っていってしまった。
私は出口まで追い掛けたものの、
もう彼女の姿が見えない下北沢の通りを眺めることしかできなかった。

翌日から私は罪滅ぼしのように
彼女を誘っては食事をしたり、飲みに行ったりした。
ただ謝罪の言葉だけはなぜか言うことができず、知らん顔しているだけだった。
それまで通り、たまに彼女は部屋に泊まりに来たりもしたが、
それまでとは違い、どこか芯が抜けたような感じだった。

程なくホワイトデーがやってきた。
実はプレゼントは、謝罪の言葉とともに用意していた。
私が持っているものと同じデザインのトレーナーだった。
もう一度・・・と考えた。
もう一度やり直してみようか。
会う約束をしようと電話の前に座った。
彼女が自分の部屋の電話の前で、息を潜めているような気がした。
1時間経ち、3時間経ち、どうしても受話器を持てずに酒を飲んだ。
顔を強ばらせて電話の前に座る彼女の姿が思い浮かんだ。
6時間・・・10時間過ぎ、夜も更けて私はすっかり潰れていた。

程なく彼女は田舎に帰った。
ホワイトデーの後、引越しを知らせる電話を貰っただけで、
私は結局彼女に会うことはなかった。

大学4年の冬から春にかけた、私の苦い思い出。
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もうひとつの卒業式

2005-03-13 | 風屋日記
昨日の次男の卒業式。
校長が定年退職で最後の卒業式だったせいもあり
厳粛な中にもハートウォームな卒業式だった。
呼名では息子をはじめ、野球部の1人ひとりの力強い返事にうなづき
言葉をつまらせる校長の式辞に、こちらまで目頭が熱くなり、
これまで、あまり良くないことで話題になりがちだった生徒が
きちんと背筋を伸ばし、胸をはって座っている姿に感動し、
みんなの成長がうれしい時間だった。
ほんの3年前には、ぶかぶかの制服姿だった筈なのに・・・。

ところで、一番涙が出たのは卒業式が終わってからだった。
PTA役員として校長室でお茶をいただいていたら
「2名の生徒の卒業証書授与を行いますので、立ち会って下さい」とのこと。
しばらく学校へ来ることができず、
頑張って卒業式にはきたものの、体育館の隅で見ていた子たちだった。
3年会の先生方と彼女達のご両親が立ち会い、
校長から「よく頑張って今日来たね」と証書を手渡された2人は
ちょっと恥ずかしげで、でもうれしそうで、
見ていた私は、もう涙を押さえられなかった。
「高校も受験して、この一週間は本当によく頑張った」
「ゆっくりでいいから、自分の道を歩き始めよう」
校長の言葉が、その場にいたみんなの胸に沁みていった。
もちろんご両親は号泣。
先生方の目や鼻も赤かった。

暖かい、とても小さな、もうひとつの卒業式。
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日付が変わって

2005-03-12 | 風屋日記
休むって書いたけど、もう今日になっちゃった(笑)
今、次男への手紙を書き終えた。
準備は万端。

「明日は一緒に車で行くか」とのわたしの言葉に
「いや、ひとりで歩いていく」と次男の返答。
その言葉に意気込みや大人を感じたのは親バカのせい?(笑)
ちょっと寂しかったりして・・・。
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あとがき

2005-03-11 | 風屋日記
私はこれまで、長男・次男のそれぞれの小学校卒業式の朝と、
長男の中学校卒業式の朝に、彼らに向けた手紙を渡してきた。
この手紙も手書きにして、明日の朝次男に渡そうと思う。

・・・ということで、明日は朝から卒業式 & 卒業を祝う会。
明日中には帰れないと思うので(笑)「風屋日記」明日は休業。
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次男への手紙

2005-03-11 | 風屋日記
中学校卒業おめでとう。3年間はどうだったかな!?
君は友達にはとても恵まれていたように思うがどうだろう。
真摯に野球やサッカーに打ち込み、心から相手のことを思いやれる友達。
特に野球部のヤツらはいい仲間だったね。
君が小学校、中学校と主将ができたのは彼らのお陰だと感謝しなければいけない。

君のいいところは、仲間を思いやれるところ。
ポジティヴな思考で周囲の人達のモチベーション(やる気)をひきだせるところ。
そしていざという時の集中力。
昨年のACCFのボランティアリーダーでも君のいいところが生きたね。
大学生や社会人に混じってのボランティアはいい経験だったろう。
生き生きと走り回り、出演の子達に向ける視線も優しかった。
終わった後の君は、1週間前とは違う大人の顔をしていた。
遠くから、交通費をかけてでも参加させてよかったと心から思ったよ。

さて、義務教育は終わった。
法律で守られ、事前に作られていた道ももう終点だ。
ここから先の道は君自身が自分で作っていかなければならない。
同級生達もみんなそれぞれの道を歩き始める。
君が野球を始めてからずっと、父さんはコーチの役目で一緒にやってきたし、
勉強や生活についても色々注意してきたが、それもここまで。
これからもアドバイスはできるが、基本的には君自身が自分で考えなければならない。
そのために必要なことは、「目標を持つ」「夢を抱く」ということだ。
どちらも君が小さい頃から父さんが言い続けてきたことだ。
目標のないノックを1時間続けてもうまくならない。
明確な目標のあるノックなら5分でも成果は出る。
勉強についても同じことだ。
「夢を果たすために、今自分がしなければならないことは何か」
これが君自身のモチベーションを引き出し、力をつける。
大きな目標を持ち、大きな夢を抱け。
仮にそれが夢で終わっても、それに挑んだプロセスが
必ず君の血となり肉となるはずだ。

君のこれからの課題は「意志を強く持つ」ことだと思う。
安易に流れる自分に負けるな。
負けそうになった時には、自分の夢や目標を思い出すといい。
きっとそれらが君をまた奮い立たせてくれるに違いない。
それから広い視野を持ち、何にでも興味を持って欲しい。
世界は広く、たくさんの人達が色んな思いで生活している。
ACCFを経験している君はそれを感じ取れるはずだ。
そして高校で、さらにいい仲間達と出会って欲しい。
父さんを見ていて分かる通り、高校時代の友人は一生の友人だ。
仲間達と、お互いの夢や目標に向かって切磋琢磨すればいい。
高校の3年間を充実させてたくさん楽しめ。

これから先、父さんと母さんは後ろから見ているよ。
君が君自身の道を切り拓いていく姿を。
そして何か困った時には聞きに来ればいい。
時には後ろを振り返りたくなることもあるだろう。
私達はいつでもそこにいるし、どんなときでも君の味方だ。

卒業おめでとう。
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3月10日

2005-03-10 | 風屋日記
今日は3月10日。
戦前は陸軍記念日、今は松田聖子の誕生日(笑)
そして東京大空襲から60年目が今日。
一昨日の和さんからのコメントにもある通り、
当時を語る人は少ない。

先日の日曜夜、NHKで東京大空襲の特集番組があった。
私もこれまで色んな本を読んだり、記録を見たりしてきたが、
体験してきた人達の証言は常に生々しく私達の心に迫る。

  かねて打ち合わせの通り、家族みんなで隅田川の橋へと逃げた
  橋の手前から人がいっぱいで、私ひとり家族とはぐれ河原へ押し出された
  橋の上を見上げた途端、橋の上を大きな炎が走った
  全身火だるまで絶叫しながら川へ落ちる人々
  中程にいる人達は人で身動きが取れないまま炎に包まれている
  結局助かったのは私だけだった

  近くの国民学校へ逃げ、プールに飛び込んだ
  このプールは、まん中近くになると大人も背が届かない程深い
  プール内は人がごった返し、だんだんまん中へ押し出される
  必死で人をかき分け、沈んだ人を踏み付けてようやく助かった
  翌日、一緒に逃げた妹がプールの底から遺体で見つかった
  私が踏み付け、殺したのかも知れない

  生後4ヶ月の娘をおぶって川へ入った。
  3月の水は体が引きちぎられそうな程冷たく、だんだん気が遠くなってきた
  背中の娘をできるだけ濡らさないようにと気を使いながら
  人が大勢乗ている流れてきた戸板に縋り、なんとか私だけ乗せてもらった
  戸板に乗る私を後ろから押してくれた夫は黙って川の中に残った
  夫の姿を見たのはそれが最後だった
  私はそのまま気を失い、気がつくと朝、背中の娘は死んでいた
  背中の温もりのお陰で私は助かったのだと思う
  その時娘が着ていた着物を今でも時々取り出して撫でている

アメリカ軍が使用した焼夷弾は、
日本の家屋がよく燃えるよう何度もテストを重ねた新型だったという。
ゼリー状になったガソリンが着弾と同時に飛び散って発火、
体に着くと払うことができないものだったという。

アメリカ空軍は、綿密に焼いてしまう地域を計算、計画し、
それに基づいて攻撃を行ったという。
もちろん住民ほとんどが一般市民だということを承知の上で。
ところが猛烈な火災による上昇気流で爆撃機のコントロールが効かず
仕方なく攻撃予定エリアから外れた場所へ大量の焼夷弾を落としたという
火災はそれほど激しいものだった。

非戦闘員の大量殺りく。
日本軍による南京をはじめとする中国各地での虐殺、捕虜虐待、
広島、長崎への原爆投下、
ソ連軍による日本人虐殺、抑留者の虐待、
ナチスによるユダヤ人大量虐殺、虐待、
近くはベトナムにおけるアメリカ軍の北爆、化学兵器使用、
カンボジアのクメール・ルージュによる大量虐殺。
まだまだたくさんある「正規軍隊」による非戦闘員への攻撃。

正しい戦争なんか、あるわけがない。
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アジアンノット

2005-03-09 | 風屋日記
私の趣味といえば
神楽、音楽(どちらも聴く・観る・演る)、読書(趣味というより生活習慣?)。
その他にもコーヒーいれるのが楽しみだったり、アウトドアもいい。
スポーツは「する」ことはほぼ引退で「観る」だけなら何の種目でも。
英会話は趣味というより勉強・・・でもないか、楽しいもんな。
(楽しいものもあるけど、普通は勉強というとイメージ的には・・・略)
人一倍楽しみを持っている。

実はその他に「アジアンノット」が趣味だったりする。
日本や中国風の結び方、編み方を使い、アクセサリーなどを作るアレだ。
おじさんがチマチマ手先で作っているところは絵にはならないが(^^;
これが結構楽しい。
時間がある夜など、おもむろにツールボックスを出してきて、
携帯ストラップやブレスレット、チョーカーなどを作ってみる。
作っていると時間を忘れ、気がつくと起きているのは私だけ・・・なんてことも。

もともと興味を持ったのは、タイのモン族の刺繍やリス族のパッチワークだった。
生活に根ざしたネイティヴなデザインが気に入っていた。
その他、木の実で作ったブレスレットやチョーカーが欲しくなり、
いくつか買っては見たものの、やはり買ったものはつまらない。
自分で作れるものはないかと思っていたところでアジアンノットに出会った。
3年ほど前、アジアンノットが密かに流行っていた頃のことだ。
はじめは「あわじ結び」や「あわじ玉」に挑戦、平結びや3ツ編みなどを使い、
木製ビーズも利用して携帯ストラップをいくつか作り、周囲に配ったりした。
(今考えると恥ずかしい拙稚なものばかりだが)

ここ半年ほどご無沙汰だったので、改めてまた本を買おうと思ったら
・・・ない。
アジアンノットそのものが下火になってしまったようだ。
もっと色んな結び方に挑戦したがったのだが、残念。
そのかわり、色とりどりのアジアンコードを使う代わりに
ヘンプと呼ばれる麻紐を使ったアクセサリーの本を見つけた。
幸い結び方、編み方などはアジアンノットとほぼ同じ。
現在、買い置きしてあったアジアンコードで試しているところだ。

ただ、アジアンコードもいいが、ヘンプの素材感がとても良さそう。
アーシーなカラーリングで、いかにもネイティヴという感じ。
これでミサンガやブレスレットを作ってみたい。
やっぱりヘンプも買って来ようかなぁ・・・。
ひとりで手芸店に入るのに勇気がいるけど。
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「must do」と「can do」

2005-03-08 | 風屋日記
昨日の補足。

現在の平和憲法堅持が私の考え方だが、
憲法改正を唱える人達の声にも耳を傾ける懐の深さくらいは持っている。
一番恐いのは「憲法を改正すべし」という意見ではなく、
異質の意見を認めない全体主義的な流れだ。
戦前は、ちょっとでも体制に異論を唱えただけで、
あるいは(実際あったらしいが)地域に協力できなかっただけで
「非国民」とのレッテルを貼られて差別されたという。
私の父は徴兵された当日、病気が発見されて即日帰郷になったというが、
「帰った後の周囲の目の方が恐かった」と言っていた。

戦前ばかりではない。
近くは昨年のイラク日本人人質事件における「自己責任」の大合唱がある。
アメリカでも9.11の後、愛国心を表さない人達への迫害があったという。
そして今、「北」に対する強硬論もそうなってしまうことを私は危ぶんでいる。
多数意見を強硬に唱え、少数意見を有形・無形の力で押さえ込むこと。
これはいわば「Majority power harassment」だ。

政治にも、経済にも、社会にも、もちろんスポーツや恋愛にも「must do」はない。
それらはあくまで「can do」か「I think」付きの「should do」で語られるべきであり、
そこには状況に応じたプロセスと結果があるだけだ。
「must do」で語るべきなのは、唯一「倫理」だけだと私は思う。
「人を殺してはいけない」
「子ども達には慈愛を向けなければならない」
「他人を信頼し、愛さなければならない」
「欲に溺れてはならない」。

北朝鮮では満足な栄養が与えられている子どもが45%もいると、
WHO、WFPは報告している。
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いつか来た道

2005-03-07 | 風屋日記
誤解を恐れず、私見を述べてみる。

かつて日本は大国ソ連の脅威を感じ、中国北部が生命線であると考えた。
もちろん地下資源に乏しい島国日本のこと、土地の魅力もあっただろう。
いずれにせよ、清国復興を願う人達を利用して満州国を作った。
それはどちらかというと自国を守ることが第一義であり、
当時の日本の正義であっただろう。
他の国から客観的に見るとどう見てもおかしいことが、
当時の日本にとっては必要かつ当たり前のことだった。
その時点で日本は孤立した。
しかし何度もいうが、
当時の日本はそれが正しいことだと信じて疑わなかったのだ。

日本にとって最大の脅威はソ連だった。
ならばなぜアメリカとの戦争になったのか。
満州建国が国際法違反だと国際連盟で糾弾され、
経済制裁を受け、段々追い込まれていったからだ。
日本が自ら孤立の道を選んだということももちろんあるが、
欧米の国々もどんどん日本を追い込んでいった。
それは唯我独尊で他国への侵攻しまくりのドイツとの同盟国であり、
また中国における各国の権益を脅かすものであったからでもある。
日本という小国が「窮鼠猫を噛む」的に米英に立ち向かったのは、
逃げ道をほとんど塞がれたことがひとつの原因でもある。

家族の苦しみは、私も人の親であるから分かっている積もりだ。
100%理解することは難しいかも知れないが、
それでも心の痛みは想像に難くない。
しかしそれでも、経済制裁は決して最良の解決方法ではない。
かの国のこれまでの対応を見ていると、経済制裁されたからといって
「済みませんでした」と拉致被害者をすんなり帰すとも思えない。
逆にかつての日本のように、無謀に開き直る可能性が高い。
そうなった時に一番迷惑を被るのはどこか?・・・陸続きである隣の韓国だ。
だから日本が経済制裁に踏み切った時、
敵は北1国だけではなくなる可能性がある。
そうなれば・・・日米韓を分断したい北の思うつぼだ。
おそらく日本政府は、だからなかなか経済制裁に踏み切れないでいる。

どんな手段を使ってでも・・・という家族の心情は分かるが、
みんなが一緒になって他を攻撃する恐さを日本はかつて経験済みだ。
そこには人間の理性がなくなってしまう。
昔の日本やドイツも、そしてアメリカもそうだった(イラクにおいても)。
そして関係ない人達が大勢犠牲になる姿も、私達はたくさん見てきた。
もう一度、冷静に考えてみよう。
そして韓国や中国を交えて、これからの方法をよく考えてみよう。
取り返しがつかなくなる前に。
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2005-03-06 | 風屋日記
昨日の英会話教室。

風「Hello!! Guy!!」
Gu「Hello. How are you?」
風「It's fine and warm today, so I'm fine!!」
Gu「Yes!! It is the first day this spring,today!!」

へぇ~、やっぱりそう言うんだ。
以前ここに
「当地の春はある日突然来る。
 『あ、今日から春だ』という日が必ずある」
ってなことを書いたが、NZから来ているGuyも同じ表現をした。
一昨日、「言語は文法や単語だけではなく、表現も独自のものがある」
と書いたが、こういう感覚は一緒なんだね。

・・・ということで、昨日から春だ。
もちろんこのまま暖かい日が続くとは思わない。
暖かい日が来たかと思えば、また寒くもなる。
そうやって段々雪が解け、淡く小さな命が道ばたに芽生えてくる。

昨日が春の最初の日、今日も暖かい。
恐らく冬の疲れが出たのだと思うが、一昨日あたりから体の調子が思わしくなく、
自律神経がおかしくなったのか、昨夜も頭痛と不眠と体のこわばりに悩まされたが、
それでも昨日から春が来た。気分はHappy!!
さっきまで積み上げた雪で狭くなっていた家の前の道路を拡げてきた。
爽やかに晴れ、暖かいのに寝込んでなんぞいられない。

さて、あさってから2日間は次男の高校入試。
それが終われば心の底から春を楽しむことができるかな!?
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バンド練習

2005-03-05 | 風屋日記
昨夜のMcatさんとCさんとの練習は、
今までで一番イイ感じ。
私からの「コレ演りません?」で始まったユニットだが、
少々一方的だったかな・・・とちょっと反省。
夕べのように色々イタズラも含めて遊んでみると、
それなりの方向性が出てくる感じ。
各々のいいところが引き出せるようだと3人で演る意味もあるかな。
できることなら、しばらくこのメンバーで続けてみたい。
ある程度方向性も見え、これからが面白そう。

Mcatさんの弾くアコギの透明感のある音、
Cさんの、すぐに雰囲気を掴んでくれるセンスの良いキーボード。
私のギターはリズム楽器の代わり程度だが、歌はなんとかしよう。
このメンバーでコーラスが決まると、
ちょいとカッコイイぞ。
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コミュニケーション

2005-03-04 | 風屋日記
英会話のスクールに通い始めて
なんとなく分かってきたことがある。
私達は少なくとも高校位までは英語を学んでいる。
その程度の知識があれば、英語での日常会話は充分だろう。
ただ、文法や単語などを知識として暗記しているだけでは使えない。
「英会話を習う」とは、頭の中での翻訳速度を上げることじゃないかな!?
目と頭と指先だけで学んできた英語を、耳と口を使って表現するためには
やはりそれなりの訓練が必要になるのではないか!?
多少のイディオムや表現の使い分けは新たに覚える必要があるが、
シナプスの伝達速度さえ上がってしまえば、
それほどコミュニケーションに苦労はしなくなると思う。

あとは表現力。
日本語を英語に直訳しても相手には伝わらない。
例えば日本語でよく使う「よろしくお願いします」はどう訳す?
これだけではどうにも訳しようがない。
文法や表記、単語以上に、表現はそれぞれの言語独特のものだからだ。
日本語で夕暮れ時を「たそがれ」と言い、朝明け時を「かはたれ」と言う。
(「かはたれ」・・・昔古文に出てきたでしょ?)
「たそがれ」は「誰そ彼?」、「かはたれ」は「彼は誰?」であり、
どちらも薄暗く、周囲が良く見えない状態を表現している。
英語に直訳するとどちらも「Who is he?」にしかならず、時間を表現していない。
だから頭の中の翻訳速度を上げるといっても、日本語を直訳する速度ではない。
伝えたい意図をどう英語で表現するのか・・・という翻訳速度だ。
・・・ということはとりもなおさず日本語表現にも長けている必要がある。
直訳で伝わらない時には、どういう別な表現にするのか。
こうなると語学を身につけるとは「表現力を磨く」ことに他ならない。

不思議なことに、英会話のクラスを1週間も受けずにいると、
次のクラスの最初の30分は全くついて行けない。
しばらく動かさずにいた筋肉を使うような感覚だ。
中1日位だと何の問題もなく、すんなり入っていけるのだが。
恐らく普段使っていない脳の領域が掘り起こされているのだろう。
ということは・・・
語学研修ということで、1ヶ月単位の短期留学の話をよく聞く。
確かに1ヶ月も別の言語の中で生活していれば「翻訳速度」は上がると思うが、
その程度だと帰国後半年も使わないでいると、また元に戻ってしまうのでは?
本当にその言葉を自分のものにするには、
カンヅメ状態で短期間に語学を身につけるのではなく、
その土地の文化や生活に浸かり(そしてお互いの文化を認めあい)、
人々と交流しあいながら身につける必要があるのではないか?
(生活習慣や暮らし、価値観などまで合わせてその地の言葉だと思うので)
そうやって身につけた言語は簡単には忘れることはないと思う。

言語は文化。違いますか、bertさん。
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